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林芙美子の文学(連載34)林芙美子の『浮雲』について(32)

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林芙美子の文学(連載34)
林芙美子の『浮雲』について(32)

(初出「D文学通信」1238号・2009年09月13日)
清水正

富岡はどうして一人生き延びるのか。富岡はドストエフスキーの『悪
霊』を読んで、ニコライ・スタヴローギンの〈自殺〉に最も関心を寄せて
いた。伊香保にゆき子と一緒に過ごした時にも、〈自殺〉の思いは不断に
つきまとっていた。にもかかわらず、富岡を死の淵へと誘う、何か決定的
な力が不足している。富岡は死ぬことよりも、生きることに横滑りしてい
く。富岡にとって〈生〉が特別な意味と価値を持たなかったように、〈
死〉にたいしてもまた死に値すべき意味も価値も見いだすことができなか
った。


妻の邦子が死んだ年の冬、富岡は窮乏のさなかに五百枚の「ある農林技
師の思い出」を書いている。そこに何が書いてあるのか、作者はいっさい
触れていない。読者が知りたい〈思い出〉は、専門的な農林に関する知識
ではない。富岡が書かなければならない原稿は、妻を裏切ってニウやゆき
子と関係を持ったこと、その事にたいする彼の思いである。
しかし、富岡は〈思い出〉は書けても、〈告白〉や〈懺悔〉は書けなか
ったであろう。ニコライ・スタヴローギンは善悪観念の磨滅に苦しんだ青
年であるが、富岡は善悪観念そのものにこだわったこともないし、まして
やその磨滅に苦悩することもなかった。ニコライ・スタヴローギンは始終
沈黙する神に成り代わって、マトリョーシャを凌辱するという〈実験〉を
試みたが、富岡にそういった実験をするという動機付けはまったくない。
ニコライ・スタヴローギンには彼を呪縛する神の観念が存在するが、富岡
は試み、呪い、罰する唯一神を意識したことはない。富岡の卑しさは神に
背いたことで生じているのではない。
『浮雲』全編を覆っているのは、まさに浮雲的なあいまいさであり、虚
無である。『浮雲』には、無限の天から地へと貫く垂直の槍が存在しない。
『浮雲』の舞台は神も悪魔も存在しない、どこまで行っても生温き世界で
あり、その世界を彷徨い漂う〈浮雲〉が富岡でありゆき子であり、その他
の登場人物なのである。彼ら〈生温き〉存在を厳しく裁くような人物はた
だの一人も登場してこない。
2009年6月29日(月曜)
次に引用するのはニコライ・スタヴローギンの告白の中の言葉である。
私は目の前に見た!(おお、それは現ではなかった! せめてあれが
ほんものの幽霊であれば、〔せめて一度なりと、あのとき以来、せめて一
度なりと、たとえ一瞬、ほんの一瞬にもせよ、肉体をそなえた生ける女性
として現われ、私が話しかけることができるのであったら!〕)私はマト
リョーシャを見たのだった。あのときと同じように、私の部屋の戸口に立
って、私に向って顎をしゃくりながら、小さな拳を振りあげていたあのと
きと同じように、げっそりと痩せこけ、熱をもったように目を輝かせてい
るマトリョーシャを。いまだかつて何ひとつとして、これほどまで痛まし
いものを私は目にしたことがない! 私を脅しつけようとしながら(何に
よって? 私に対していったい何ができたというのだろうか、おお、神
よ!)、むろん、おのれひとりを責めるしかなかった、まだ分別も固まっ
ていない、孤立無援の存在のみじめな絶望! いまだかつて、私の身にこ
のようなことが起ったためしはなかった。私は深更まで、身じろぎひとつ
せず、時のたつのも忘れてすわっていた。〔私はいまこそはっきりと告白
し、そのとき起ったことを完全に明確に伝えておきたいと思う。〕これが
良心の呵責、(悔恨と呼ばれるものなのだろうか? 私は知らないし、い
まもってそう言いきることはできない。しかし、私にとって耐えがたいの
は、ただ一つ、あの姿だけなのである。ほかでもない、〔あの瞬間、それ
より以前でも後でもないあの瞬間、〕小さな拳を振りあげて私を脅そうと
していた、あのときの彼女の顔つきだけ、ほかでもないあの一瞬、顎をし
ゃくりあげていたあの姿だけなのである。〔あの身ぶり・・つまり、彼女
が私を脅そうとしたことが、私にはすでに滑稽なことではなく、恐ろしい
ことだったのである。私は哀れで、哀れでたまらなくなり、気も狂わんば
かりだった。そして、あのときのあのことがなくなってくれるものなら、
私の体を八つ裂きにされてもいいと思った。私は犯罪のことを、彼女のこ
とを、彼女の死のことを悔んだのではない。ただただ私はあの一瞬だけが
耐えられなかった、なぜなら、あのとき以来、それが毎日のように私の前
に現われ、私は、自分が有罪と認められたことを完璧に知らされたからで
ある。〕それこそが私には耐えられない、なぜならあのとき以来、それは
ほとんど毎日のように私の前に現われるのだから。〔いや、それとは知ら
ず、以前にも耐えられなかったのだが。〕それは自分から現われてくるの
ではなく、むしろ私が呼び出すのである。そして、それと暮すことなどで
きるはずもないのに、呼び出さずにはいられないのである。おお、たとえ
幻覚にもせよ、いつの日か彼女を現に見ることができるのであったら!
〔私は、せめてあと一度だけでもいい、彼女に自分の目で私を見てもらい
たい、あのときのような、大きな、熱に浮かされた目で私の目をのぞきこ
んでもらいたい、そして知ってもらいたい……実現するわけもない、愚か
な夢!〕
(江川卓訳『悪霊』岩波文庫・下巻 572 ~573 )
妻の邦子が死んだときの富岡の気持ちを、作者は「富岡は、おせいの亡
くなった時のような、名残り惜しさは少しも感じなかったが、終戦以来、
邦子を妻らしくあつかってやらなかった自責で、棺を求めることすらでき
なくなっている、自分たちの落ちぶれを厭なものに思った」と書いた。富
岡の邦子に対する〈自責〉の念は、ニコライ・スタヴローギンの〈良心の
呵責〉〈悔恨〉とは違う。
2009年6月30日(火曜)
富岡はもう一度、邦子との生活を復活させようなどとは思わない。ニウ
と関係しながら三日に一度は妻に手紙を書き送っていた富岡は、新たに出
現したゆき子とも深い関係を結ぶ。日本に帰って来てからの、富岡と邦子
の関係はいったいどうなっていたのだろうか。富岡が、ニウやゆき子のこ
とを妻に話すはずもない。富岡は、ダラットでのニウやゆき子との関係を
秘密にして、普通に邦子との夫婦生活を営んでいたに違いない。
作者は富岡と邦子の関係を具体的に描くことがなかったので、その詳細
を知ることはできない。読者はいわば想像するしかないのだが、富岡がゆ
き子との関係をきっぱりと清算することができずに、ぐずぐずと関係を続
けていたこと、そのことの具体をたとえ邦子が知らなかったとしても、夫
が自分以外の女と深く係わっているらしいということぐらいは女の勘で分
かっていただろう。
富岡がダラットにいた間、邦子は姑と家を守っていたわけだし、その苦
労は並大抵のものではなかっただろう。子供でもいれば、まだ気が紛れた
かも知れないが、夫の母親と二人で、戦争の最中に家を守っていたのだか
らその気苦労たるや想像を絶するものがあったにちがいないのである。
日本に帰った富岡が、邦子とどのような言葉を交わし、どのような生活
を取り戻したのか、ゆき子との関係を詳細に知っている読者としては、富
岡の夫婦生活の実態を詳しく知りたくも思うのだが、ないものねだりをし
ても仕方がない。
林芙美子が描く、邦子の死の場面は、邦子を裏切り続けてきた富岡の良
心を疼かせるはずのものだが、富岡の〈自責〉は〈良心の呵責〉とか〈悔
恨〉とかではなく、棺桶さえ買えないほど〈落ちぶれ〉てしまったことに
たいする〈厭な〉感じを少しも越えていない。富岡は、邦子の余りにも惨
めな死の姿に接しても、おせいが死んだときのような〈名残り惜しさ〉を
感じない。ラスコーリニコフは二人の女を斧で殺しておきながら罪の意識
を感じることができなかった。しかし彼は罪の意識に襲われないことに苦
しんだ。富岡の場合は、〈自責〉そのものが熱くもなく冷たくもない、生
温いものなのである。
富岡は棺桶ひとつ満足に買えない落ちぶれた状態を厭なものに感じてい
る。ということは、もし富岡に金があれば、邦子の死に〈厭なもの〉を感
じなかったということになる。金さえあれば、邦子の病気にたいしても、
十分な治療を受けさせることができただろう、否、金さえあれば邦子は病
気にならなかったかもしれない。そして、金さえあれば、富岡の邦子にた
いする裏切りも、自己欺瞞も〈厭なもの〉を感じにずにすんだかもしれな
いということである。
善悪観念を磨滅させてしまったはずのニコライ・スタヴローギンは、に
もかかわらず凌辱して自殺に追いやったマトリョーシャにたいする〈良心
の呵責〉に襲われる。富岡の自責の念は、邦子を妻として正当に扱うこと
ができなかった、経済的にも精神的にも満足を与えることができなかった
ということから生じている。富岡にとっては、内地に妻がおりながらニウ
やゆき子と関係を続けたそのことを〈裏切り〉とさえ思っていなかったか
もしれない。富岡と邦子の関係、富岡とニウの関係、富岡とゆき子の関係、
富岡とおせいの関係があるだけであって、邦子がニウやゆき子の存在を知
ればそこに嫉妬や憎悪が生じてややっこしい関係になるだろうが、それは
それだけのことであって、べつに〈裏切り〉とかいうことではないのかも
しれない。
『浮雲』に登場する人物は、富岡にしてもゆき子にしても、そして加野
やおせいにしても、倫理や道徳や、神の観念によって自分の行動を支配さ
れることはない。彼らは自分の欲望に従順である。欲望を否定し、押さえ
込む力よりは、その力を存分に発揮させようとする力がいつも上回ってい
る。要するに、林芙美子の作りだす人物に〈きれいごと〉は通用しない。

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