2009
09.12

五十嵐綾野さんの寺山修司論(連載25)

寺山修司・関係

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寺山修司という悪趣味を味わう
五十嵐 綾野

どう見ても寺山修司は悪趣味だと思う。『毛皮のマリー』の宣伝文においても「ジャン・ジュネも腰を抜かす猥雑さ」と自分で言っているのだから確信犯だ。それは、野暮ったい、センスが悪いといった意味ではない。当時の資料を見ると猥雑、変態、グロテスク、怨念、復讐といったように、その類の単語がこれでもかと散りばめられている。一体何のチラシなのかわからない。
天井桟敷の次々と行われた旗揚げ公演はほとんどそうである。見ている私も同じく変態なのではないかと思うほど徹底して作られている。このような宣伝文句には好奇心と物珍しさを駆り立てられる。少なくとも退屈な作品には見えない。見世物小屋の口上を思い出してもらうと想像しやすい。ここまで書かれたら見に行きたいと思うのが普通である。
『毛皮のマリー』が単なる「変態作品」で終わらなかったのは間違いなく主演である丸山明宏(現・美輪明宏)の魅力だ。当時の写真を見ても、ついうっとりしてしまう。この時点ですでに倒錯している。女性より女性らしいと言われる感覚。この感覚は今でも昔でも変わらないだろう。中性的な魅力を持つアイドルやミュージシャンの人気と同じである。寺山がいかに惚れ込んでいたかも面白いところである。
堂々と悪趣味の世界を楽しめるというのが最大のポイントなのだ。寺山の作品は、悪趣味でいかがわしいカーニバル空間を作り出している。しかし、最近の美輪版『毛皮のマリー』は親子愛を全面に出しているので「悪趣味に浸る」とは言い切れない。明確なデフォルメは寺山の猥雑さからは離れているようであった。
ところが途中、モーニング娘。の『LOVEマシーン』が大音量で流れた時に寺山がいた時代に戻ったのかと感じた。ぎょっとした。絶対に使われることがないような曲である。物語の背景の「大正ロマン」が吹き飛んだ。優雅さも消えた。頭の中が疑問符でいっぱいになる。美輪明宏の存在に完全に飲み込まれていたことがわかった。
その少しズレた舞台は一瞬だけ、かつて見世物小屋を目指していた時代に見えた。ぎょっとする感覚が知らないうちに快感に変わる。だから、悪趣味を求める。カレーの辛さを求めることと、お化け屋敷で怖さを求めることは同じだと聞いたことがある。寺山の悪趣味も同じではないだろうか。人間は刺激を求めるのだ。
この悪趣味が、「昭和ノスタルジーブーム」の現代においては、お洒落として受け入れられる。非常に魅力的な世界に見えるのだ。これがとても不思議だ。昔はよかったという発言があるが、本当に昔の方がいいかどうかまで考えていない。
 悪趣味を味わうと言っても、寺山を体感することは残念ながらもうできない。では、どうするのかというと、想像力で補うしかないのである。想像力は、使い方によっては美味しくもなるし、不味くもなる。調味料である。江戸川乱歩の小説を読んでいてもそうだが、妖しい不気味さはどんどん頭の中で膨らんでいく。それが楽しい。簡単に目で見てしまったら面白くない。
 寺山の悪趣味は、現実には起こり得ない。それは舞台の上であったり、映画の中であったり、本の中でのことである。限りなく個人が見る悪夢に近い。舞台と観客席の境界線をなくし、劇場と市街の境界線をもなくしていった。境界線を強調しているが、始めからそれはなく、一つの輪のように繋がっているものに思える。寺山の「のぞき事件」も彼の中で日常と非日常が同じであるということを考えれば驚かない。
 寺山には、毒によって毒を制すという言葉が一番当てはまるるのではないだろうか。毒々しいという表現では足りない。寺山は毒そのものでありウイルスだと考えればよい。感染しても抜けてしまった人もいる。感染したままの人もいる。あるいは、じっと息を潜めているウイルスもいるだろう。どうしようもない世の中にどれだけ耐性のあるウイルスをまけばいいのか。寺山を滅菌しようとしても出来ない。

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