【老教授ニコライの講義論】…チェーホフ『退屈な話』を読む(7)

清水正のチェーホフ論

学者・教育者・雄弁家の三位一体
十時十五分前になると、講義をしにわが愛すべき小僧たちのところへ行かねばならない。着がえをして、通りを歩いて行く。この通りはもう三十年らいなじみの道で、わが輩にとっては積る話がある。まず薬局のある大きな灰色の建物。ここには昔、こじんまりした家が立っていて、その一隅に居酒屋があった。この居酒屋でわが輩は学位論文の想をねり、ワーリャに最初の恋文を書いたものだ。(略)そうこうするうちに、陰気くさい、ながねん修繕したことのない大学の校門がみえる。
わたしは今、五十半ばの教授であるが、大学に勤めて三十年になる。従ってここに書かれたような通りの光景や老教授の感慨にはかなり親密感を持つ。わたしとて老教授に負けない〈積る話〉はあるし、感慨もある。しかし今、わたしはそういった〈手記〉を書く気は毛頭ない。老教授の〈手記〉に触発されて、自分が生きてきたそのディティールを披露するわけにはいかない。
老教授は守衛のニコライがもたらす様々な学内ニュースや、解剖学助手ピョートルについて的確に報告している。大学における〈人事〉に纏わる話や、「学者づらしたとんま」な助手の存在は、まさに今現在のさる大学がモデルになっているのではないかと思えるほどにリアリティがある。老教授の助手は三十五歳で、腹がだぶつき、頭は禿げあがっている。老教授は彼を「勤勉で謙虚だが無能な男」と決めつけている。こういった専門バカのとんまな研究者を抱えていない大学は稀であろう。否、解剖学助手ピョートルは「朝から晩まで仕事に精を出し、万巻の書を読み、読んだことを全部まる覚えに覚えている点」においては、まだましな方かもしれない。
さて、学内ニュースやとんまな助手に関してはあまり深入りせず、老教授の講義についての報告に注目しよう。
わが輩はその日の講義の題目は知っているが、どんなふうに講義を進めるか、何から始めてどこで終えるかは知らない。頭の中には何ひとつ言葉の用意がないのだ。しかし講堂をぐるりと見回して(わが輩の講堂は階段教室だ)、印で押したように「前回の講義の終りにわれわれは……」と言いさえすれば、たちどころにわが輩の心の中からさまざまな文句が長い列を作って飛び出してきて、・・さあそのあとが大変! わが輩は猛烈な早口で情熱的に話しはじめ、どんな力をもってしてもわが輩の言葉の流れをせき止めることはできないように思われる。立派な、というのは退屈でなく聞き手に有益な講義をするためには、才能いがいに熟練や経験が物を言い、同時に自分の力倆や、講義のあいてや、講義の内容について明らかな観念を持ち合わさなければならない。その他、あたりを厳しく監視し、一秒たりとも自分の視界を見失わぬ抜け目のない人間である必要がある。
立派な指揮者は、作曲家の思想を再現しながらいち時に二十もの仕事をやってのける。・・総譜を読む、指揮棒を振る、歌手に眼を注ぐ、ドラムにホルンにとそれぞれ合図をするのである。講義中のわが輩も全く同じである。わが輩の前には百五十のそれぞれ違った顔があり、わが輩の顔をまっすぐに見つめている三百の眼がある。わが輩の目的は、この多頭の怪蛇を征服することにある。もし講義中に一瞬々々その注意の度合や理解力について明確な観念を持ちつづけていれば、化け物はわが輩の手中にあるわけだ。もう一つのわが輩の敵はわが輩じしんの内部にひそむ。
それは、形式や現象や法則の無限の多様性と、それらの支配を受ける自分の思想、ひとの思想の
豊富さである。一瞬々々わが輩は、このぼうだいな材料の中から一ばん重要で必要なものをつか
み出し、わが輩の言葉の流れと同じ速度で、化け物の理解力に合うような、化け物の注意を喚起
するような形式を自分の思想に付与せねばならぬ。しかもその際そうした思想を、思想自体の展
開の順序に従ってではなく、自分の描こうと思う図面の正しい構成に必要な一定の順序に従って
伝えねばならないのである。さらにわが輩は、言葉を文学的にし、定義を簡潔正確にし、文句を
できるだけ簡単で美しくしようと心がける。一瞬々々わが輩ははやる心をおさえ、自分の持ち時
間が一時間四十分しかないことを思い出さねばならない。ひと言で言えば、仕事は山ほどあるの
だ。全く同時に学者、教育者、雄弁家と、ひとり三役を兼ねねばならず、しかもそのうち雄弁家
が教育者や学者を圧倒したり、その逆になったりしては落第である。
ここに書かれたニコライ・ステパーノヴィチの講義方法は第一級のものと言っていいだろう。
大学で長年教壇に立った者ならだれでも、この講義方法がずば抜けて優れていることを納得する
に違いない。小学、中学の教師なら他人の作った教科書をもとに授業をすすめればいいようなも
のの、大学となればそうはいかない。大学教師にとって講義内容は自分の手腕にかかっている。
専門の領域において権威でなければならないし、その学問は独創的でなければならない。他人の
書いた本を適当に解説してお茶を濁しているような教授が学生たちを真に満足させられないのは
言うまでもない。学者として独創的な論文執筆や著作活動に精を出し、その成果を教室において
情熱的に披露する、そのような方法をとらなければ百人二百人の学生の耳を傾けさせることはで
きない。
人前で言葉巧みに話すことの苦手な学者はいるだろう。しかし、医学であれ文学であれ、独創
的な研究、自分独自の研究を展開している学者の話は、情熱的に早口で語ろうが、朴訥にゆっく
り話そうが、やはり聞く者の心をとらえ、感動を与える。老教授が紹介した〈学者づらしたとん
ま〉な助手ピョートルが、学生を感動させる講義の名手になるとは思わないが、若い頃から独創
的な研究を続けている者はやがて、ここに引用したような老教授並みの名講義者になる可能性を
ひとしく持っている。老教授が名講義者を〈立派な指揮者〉に見立てて説明しているあたりはか
なり説得力がある。
わたしが教育に本格的に興味を抱いたのは中学に入ってからである。当時わたしは、斎藤喜博
という群馬県島小学校の校長をしていた教育学者の『私の教師論』『教育の演出』などを読んで
いた。斎藤喜博の教育実戦は全国の教師たちの注目を集め、島小には多くの参観者が連日のよう
に詰めかけていた。島小の子供たちを写した写真は、まさにそこですばらしい教育実践が展開さ
れていることを証明していた。わたしの脳裏にはほっぺを真っ赤にし、黒い瞳を輝かせた島小の
子供たちの生き生きとした顔が鮮明に焼き付けられている。
当時、わたしの尊敬していた中学の教師たちが理不尽な理由で転勤させられたことがある。国
語と体育を担当していた教師は、教育委員会の連中に呼びつけられ「君も若いのだから……」云
々と言われたが、僕は君達が卒業するまではこの学校は辞めない、最後まで断固戦うぞ、と言っ
ていた。もう一人、生徒たちに日記を付けることを義務づけた社会科担当の教師は「どこへ行っ
ても、そこには生徒たちが待っている」と言って転勤命令に従った。彼がいよいよ我孫子を去る
とき、どこからその情報がもれたか、プラットホームは多くの卒業生や生徒たちで溢れかえり、
みんながみんな眼に涙をためていた。なかにはひと目も憚らず大泣きする生徒もいた。まるで青
春ドラマの一こまを見るような光景であったが、わたしはこの場面を忘れることはできない。
転勤してきた理科の教師に端正な顔をした青年がいた。まだ結婚したばかりの教師で初々しさ
が残っていた。彼の担当は四時間目であったが、授業が終わるとわたしは質問攻めにした。時間
は繰り返すのではないかなどと持ち出して、彼の昼食の時間を潰してしまうこともあった。わた
しは彼に「私が望む教師論」を書いて手渡した。彼は、わたしが高校入試の前に交通事故で亡く
なった。
教育に多大な関心はあったが、自分が教師になろうと思ったことはない。ドストエフスキーの
作品を批評し続けることで結果として大学に残ったが、大学教授の多くは自分を教育者というよ
りは研究者(もしくは創作者)と思っているだろう。しかし、大学教師は自分の研究だけしてい
ればいいということにはならない。講義もしなければならないし、学部・学科運営のさまざまな
仕事や会議や、その他試験問題を作成したり、レポートや卒業論文を読んで採点しなければなら
ない。学生の就職や大学院進学の相談にのったり、場合によっては指導教授を引き受けなければ
ならなくなったりする。大学はけっこう雑務が多いし、人間関係も煩わしい。まさに老教授ニコ
ライ・ステパーノヴィチが書いているように「ひと言で言えば、仕事は山ほどある」のだ。しか
し、そんなことで愚痴をこぼしていてもはじまらない。大学教授たる者は「学者、教育者、雄弁
家」の三位一体を講義において実現しなければならない。それにしてもニコライ・ステパーノヴ
ィチが「しかもそのうち雄弁家が教育者や学者を圧倒したり、その逆になったりしては落第であ
る」という言葉は名講義の真髄をまさに的確に語っている。このようなことを老教授の言葉に託
して書いたチェーホフは、小説家としては誰よりも〈大学教育〉に関心を抱いていたと言えよう
か。
大学で講義したことのなかったチェーホフが、これほど講義の真髄について語れるということ
は驚異的なことである。おそらくチェーホフは医学生時代に教授たちのつまらぬ講義やすばらし
い講義に接して、自分なりの講義観を確立していたのかもしれない。一つ確かに言えることは、
小説家としての冷徹な眼差しを持っていたチェーホフは、授業に出て教授たちの講義を聞くだけ
で理想的な教授法を頭の中に作り上げたということである。おそらくどこの大学でも似たり寄っ
たりと思うが、退屈を超えてどうしようもない授業をしている教授は必ず何人かは存在する。ど
うしてまた、こういった不適切な者が教授になったのか、真夏に雪が降る現象よりも驚くべきこ
とがままあるものである。専門領域でもだめ、教育もだめ、しゃべりもだめという三拍子揃って
だめな者が、その時の政治的な駆け引きで大学の教員になり、その後は護送船団方式やら年功序
列やらで昇進し、ついには教授にまでのぼりつめたというわけである。今後、こういったやり方
がどこまで通用するかは知らないが、しかし人間が何人か集まって決めることに〈公平〉などあ
り得ないのであるから、依然として不適切な教授というものは生産されてくるのであろう。
さて、もう少しニコライ・ステパーノヴィチの講義法を拝聴することにしよう。
十五分、三十分と講義をしているうちに、学生たちが、天井やピョートル・イグナーチエヴ
ィチのほうを見たり、ハンカチを探したり、坐りぐあいを直したり、自分かってな考えにふけっ
てにやりとしたりするのに気がつく。……これは注意力が散漫になった証拠である。早速、対策
を講じねばならない。わが輩は最初の好機を捕えて、何か洒落を飛ばす。百五十の顔が一せいに
ほころび、眼が生き生きと輝き、しばし海鳴りが聞える。……わが輩も笑う。注意力はよみがえ
り、わが輩は講義をつづけることができる。
どんな論争も、どんな娯楽や遊びも、講義ほどの楽しみをわが輩に与えたことはない。わが
輩は講義のあいだだけ全身を情熱にゆだねることができ、霊感が詩人の単なる思いつきではなく
実際に存在するのを知った。思うに、快心の手柄を立てた直後のヘラクレスといえども、わが輩
が講義を終えるたびに味わったほどの甘美な虚脱感は感じなかったであろう。
真打ちの落語家に三流もいれば名人もいるように、ニコライ・ステパーノヴィチのような名講
義をできる教授は稀であろう。彼は実によく学生たちの心理に精通している。教室は舞台であり、
学生は観客である。観客を飽きさせる芸人はもうそれだけで失格である。教授は一度学生の前に
立てば、芸人と同じで彼らを決して退屈させてはならない。しかしそうは言っても、一講座で年
に二十数回もある講義を七コマも八コマも担当して、毎回学生たちを感動させるような授業を展
開するなどというのは言わば神業に近い。毎年、受講する学生の興味、教養、情熱、性格が異な
っており、従ってニコライ・ステパーノヴィチの言うように有益な講義をするためには才能以外
に熟練や経験が物を言うことになる。
受講生たちの性格を一瞬のうちに読み取り、教室の空気を敏感に察し、臨機応変に対応しなけ
ればならない。洒落、説教、雑談までをも取り入れながら、講義の内容の核心から決して逸れず、
持ち時間を十分に活用し、学生たちを満足させなければならない。まさに講義は学者、教育者の
みならず、情熱的な雄弁家をも兼ね備えていなければならない。教室でこの三位一体を実現する
ためには、教授は不断に研究を積み重ねていなければならない。付け焼き刃の講義準備で感動的
な授業を展開することはできない。わたしは一回の講義には少なくとも百枚ぐらいの原稿を書い
ていなければならないと思っている。ニコライ・ステパーノヴィチは書くことが苦手だと謙遜し
ていたが、本当の雄弁家は必ず、自分の考えを一度書いてまとめておくものである。彼は「わが
輩は、言葉を文学的にし、定義を簡潔正確にし、文句をできるだけ簡単で美しくしようと心がけ
る」と書いているが、まさにこれは文章家の言葉である。
さて、ニコライ・ステパーノヴィチは講義の間だけ全身を情熱にゆだねることができる、とま
で書いている。これは別に大袈裟な物言いではない。学者と教育者と雄弁家の三位一体を実現す
る者にとって講義は晴れ舞台である。ここまで言い切る老教授の講義を一度でいいから聞きたか
った思う。それにしても、先に彼は「歯は総入れ歯」で「頭と手は衰弱のためにぶるぶるとふる
え」・・と書いてあったはずである。そんな老教授にこんな情熱的な講義がはたして可能なので
あろうか。と思っていたら、何とこういった熱い講義をしていたのは昔のことであったとことわ
っている。いつの間にか叙述が〈現在〉から〈過去〉へと滑りこんでいたらしい(いや、確かに
先に「講義のしぶりはあい変らず堂に言ったもので、昔と同様に二時間ぶっ通しで聞き手の注意
を引きつけることができる」と書いており、叙述に混乱が見られることは指摘しておかなければ
なるまい)。
今では講義の最中に苦痛しか感じない。三十分とたたないうちに、わが輩は足と肩にたまらな
いだるさを感じはじめる。椅子に腰を下ろしてみるが、坐りながらの講義に慣れないのですぐに
立ちあがり、立ったままつづけてやがてまた腰を下ろす。口の中がからからに乾き、声がかすれ、
頭がくらくらする。……こうした状態を聞き手に気どられまいとして、わが輩はたえず水を飲み、
咳をし、鼻かぜでもひいたように何度も鼻をかみ、時ならぬ時に洒落を飛ばし、あげくのはてに
時間より早く講義を打ち切る。とは言え、何と言っても恥かしいことではある。
良心と理性はわが輩にこう言う。・・この際わが輩のなしうる最上の処置は、小僧どもに別
れの講義をし、彼らに最後の言葉を言い、彼らを祝福し、若くて丈夫な後進に地位を譲ることだ
と。しかし神の裁きもなんのその、わが輩は良心の命ずるままに振舞う勇気が足りないのである。
情熱的に講義していた者も老いには勝てない。ニコライ・ステパーノヴィチは正直に自分の情
けなさを披露している。さて、ここで描かれたような老教授や老講師は少しも珍しくない。老い
て満足に歩くこともできないし、口をきくこともできないのに、決して自分から辞表を出すよう
な者がいない。大学という所は本当におかしなところである。脳溢血で倒れ、半年も入院して、
誰がみても授業などできない状態になっても、若い学生に接することだけが生き甲斐になってい
るなどという自分勝手な理由で辞めようとしない。退職した専任教授が、その後非常勤講師にな
り、ボケがかなりすすんで授業に行くことをすっかり忘れて長椅子に寝ていたのを目撃したこと
もある。わたしが知るかぎり、停年を待たずに勇退した教授はただ一人存在しない。逆に停年後
も停年延長を当たり前の如く考えている教授は百パーセントを占める。要するに大学は居心地が
いいのであろう。犯罪でも犯さなければ職を奪われることもないし、教授になってしまえば業績
など何一つ残さなくてもいいのである。少なくとも講義中は学生(このテキストの訳者は小僧と
言っているが)相手に、お殿様気分でいられるのだから、この職業、三日やったらやめられない
のである。大学の数も、大学や教授の権威も、停年の年齢も、十九世紀ロシアと今日の日本では
だいぶ違っているだろうが、ニコライ・ステパーノヴィチの手記を読むと、停年を間近に控えた
老教授の心境に関してはそう変わりはないようである。だいたい学問を志すような者はわがまま
でエゴイストと相場が決まっている。老いて、後進に道を譲る者などめったにお目にかかれない
ことになっている。老教授ニコライ・ステパーノヴィチもまたそういったエゴイストの一人だと
思っていれば間違いはない。

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