2009
09.09

「ZED」を観る(連載36)糸井重里の「ほぼ日刊イトイ新聞」を読む(その11)

「ZED」を観る

2006_0202_170902-CIMG9579.JPG 「清水正の本」 「清水正の著作一覧」 
「ZED」を観る(連載36)
(初出「D文学通信」1233号・2009年09月09日)
糸井重里の「ほぼ日刊イトイ新聞」を読む(その11)  
清水正

「シルク・ドゥ・ソレイユ」と
創始者の一人、ジル・サンクロワの秘密に迫る。(11)
「07. 愚かだけど、ハッピーだった」を読む(3)
ジルの考えている〈夢と冒険〉のサーカスショーは、
〈日常〉からの過激な逸脱ではなく、〈日常〉の延長線上にあり、
いつでも無事に〈日常〉へと回帰できるものとして設計されている。。


ジルと糸井の会話を読んでいると、彼らの話が和やかな雰囲気のうちに
すすんでいることもあって、ジルが実に穏健な、普通の家庭人にも見えて
くる。わたしは、この〈普通であること〉〈ただのひと〉であることが、
人間が生きていく上で実に大切なことだと考えている。
 若い頃はニーチェの〈超人〉だの、ラスコーリニコフの〈非凡人〉、キ
リーロフ〈人神論〉などに夢中になったこともあるが、こういった思想は
人間を幸福に導くことはない。ニーチェの狂気、ラスコーリニコフの殺人、
キリーロフの自殺、とにかくろくなことはない。
ジルの考えている〈夢と冒険〉のサーカスショーは、〈日常〉からの過
激な逸脱ではなく、〈日常〉の延長線上にあり、いつでも無事に〈日常〉
へと回帰できるものとして設計されている。もちろん、このことはシルク
・ドゥ・ソレイユに限らず、大衆を相手にしたすべての〈見世物〉興行に
共通したことである。
見世物小屋に入った客が、中で変死したり、狂気に陥って出てくるよう
なことがあれば、それは永続的な興行としては失敗ということになる。
〈見世物〉は観客に一時的なショック(不安、恐怖)を与えても、それが
死、狂気、犯罪となってはならないという興行上の鉄則がある。ショック
は、次の瞬間には昇華されて感動へと変わらなければならない。
ジルの目指す〈夢と冒険〉のショービジネス、動物が登場しないサーカ
スショーにあっては、本当の意味での〈夢〉と〈冒険〉を観客に体験させ
るメニューは存在しない。本当の〈夢〉や〈冒険〉には、常に死と狂気の
危険が潜んでいる。〈夢〉が〈妄想〉となり、〈狂気〉や〈犯罪〉を引き
寄せることもある。死と狂気の深淵が待ち伏せていない〈冒険〉など、冒
険という名に値しないことは言うを俟たない。
ジルの〈夢と冒険〉は、観客を危険な淵に誘い込むことはない。ジルの
最大の狙いは、観客を限りなく安全な場所(観客席)に座らせて、視覚、
聴覚を通して観客に〈夢と冒険〉のファンタジー世界に招き入れることで
ある。そのために世界各国からスカウトした超一流のアスリートや音楽家、
クリエイターたちを総動員してショー舞台を構成し、完成させるのである。
日常の空間にぽっかりと開いた〈空間〉がサーカス小屋であるが、その
テントが畳まれた瞬間、その〈空間〉はもとの日常へと戻される。誰一人
として、サーカス小屋からの帰還に失敗する者はいない。ジルが父親の命
令によって〈綱渡り〉の綱から下りたように、観客は人工的に作り上げら
れた〈夢と冒険〉の世界から速やかに現実の世界へと帰還してくる。
ジルは「私は愚かだけど、ハッピーだった」と語っている。「私は愚か
なヒッピーだったけど、ハッピーだった」と言い直せば、面白い語呂合わ
せともなるが、これは冗談ではなく、ジルの人生の本質を語っている。ア
ンハッピーなヒッピー、二度とまともな日常へと還って来れなかったヒッ
ピーも決して少なくはなかったはずである。ジルの〈綱渡り〉と〈竹馬〉
は、極端な高みと果てし無い水平運動へと彼を促すものではなかった。そ
の意味でジルは、小心で臆病な現実家の貌を隠してはいない。
ジルは和やかなユーモフたっぷりな笑顔で「無事にケベックまで竹馬で
歩き終えたあと、私は子どもたちのために小さな竹馬をつくってあげまし
た」と語っている。ジルにおける、子どもに伝える〈夢と冒険〉は、狂気
と死を孕む〈巨大な竹馬〉ではなく、あくまでも〈日常〉へと帰還可能な
〈小さな竹馬〉に象徴されている。
尤も、ジルは〈小さな竹馬〉が、危険な〈巨大な竹馬〉に変わることも
十分に承知している。その上での〈小さな竹馬〉なのである。ここでもジ
ルの肖像の背後に巨大なクラウンの影が妖しくたちあがってくる。とりあ
えず、糸井と同じく(笑)っておこう。

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