2009
09.09

五十嵐綾野さんの寺山修司論(連載24)

寺山修司・関係

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『毛皮のマリー』と白雪姫
五十嵐 綾野

戯曲『毛皮のマリー』は寺山修司主宰演劇実験室・天井桟敷の第三回目の公演のために書き下ろされたものである。第一回公演『青森県のせむし男』、第二回公演『大山デブコの犯罪』に次ぐこの作品は、寺山作品の中でも人気が高い代表作の一つである。
物語の主な登場人物は、男娼・毛皮のマリーと美少年・欣也である。外見は仲むつまじく暮らす母子である。本当は何の血の繋がりもない二人が「母子」という言葉の呪縛に取りつかれて芝居をしている。しかし、マリーと欣也を「母子を演じている」と見るのは、血の繋がりがないものは本当の母子ではないという狭い考えである。子供が子供を育てるという現代のような危ない状態ではない。男娼といえども、マリーは立派な大人である。危ないから家に閉じ込めると言ってしまえば、ただの歪んだ感情に思われるが、それは大事に思うが故のことである。『毛皮のマリー』は全て偽物で作られている。唯一、本物があるとすればこの愛情であろう。
『毛皮のマリー』はそれほど美しい話なのだろうか。いろいろな見方があるのだが、まず寺山の言う「性的なおとぎばなし」としての『毛皮のマリー』を考えたい。劇の冒頭部分に、その歪んだ愛情の恐ろしさについて、寺山はさりげなく会話に組み込んでいる。
マリー (浴槽に全身を浸し、女とまがうばかりの美貌の顔を、手鏡にうつしながら、うっとりと)鏡よ、鏡、鏡さん。この世で一番の美人はだれかしら?
下男  マリーさん、この世で一番の美人はあなたです。
マリー ほんとに?
下男  鏡はうそを申しません。
マリー まあ、よかった。白雪姫はまだ生まれてないのね。
マリーは「花咲ける40歳の男娼」という設定である。そのマリーが気取った声でのんびりと白雪姫の朗読をしているのは表面的にはファンタジーである。正直に言って微笑ましくみえない。優雅に浴槽に浸かりながら、下男に肌の手入れをしてもらっている。男娼に肌の手入れは不可欠である。女性の入浴シーンと違って、男娼というところに観客はひきつけられる。女装をしているというグロテスクさ。女性でも男性でもない男娼という存在が、見てはいけないものを覗いているという感覚と興味。取ってつけたような女声は童話の持つ妖しさとマッチしている。
なぜマリーは白雪姫の朗読をしているのだろうか。そこで思い出すのは、寺山が名作童話に対して復讐を誓っていたことである。この白雪姫の朗読を含んだ会話を聞き流すことは出来ない。白雪姫の朗読はこの冒頭部分のみだが、途中にはマリーが欣也に林檎を食べさせる場面がある。
これはマリーの自分が世界中の誰よりも美しくありたいという単純な願望ではない。ト書きに「女とまがうばかりの美貌」と書いてあることもあり容姿のことに目が行きがちである。原作・白雪姫で継母が恐れていたのは娘(白雪姫)の存在であった。
白雪姫の物語は簡単に言ってしまえば、血の繋がらない母子の愛憎模様である。これはそっくりマリーと欣也の関係と重なるのである。白雪姫は成長して大人になった欣也のことである。マリーは心のどこかでは、欣也の存在に怯えているのがわかる。そして、下男もその名前を言ったら何が起こるかもわかっている。
 おそらくこの下男は、数年後にはマリーの名ではなく欣也の名前を挙げるようになるだろう。『毛皮のマリー』に続きがあるとすればこのような恐ろしい展開になるかもしれない。欣也は設定上では18歳である。いくら家から出たことがなくてもこれからどんどん「良い男」になっていくのは目に見えている。反面、マリーはどんどん歳を取っていく。マリーが連れ込む愛人が欣也に目移りすることもじゅうぶんに考えられるのである。

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