2009
09.07

「ZED」を観る(連載34)糸井重里の「ほぼ日刊イトイ新聞」を読む(その9)

「ZED」を観る

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糸井重里の「ほぼ日刊イトイ新聞」より。
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「ZED」を観る(連載34)
(初出「D文学通信」1231号・2009年09月07日)
糸井重里の「ほぼ日刊イトイ新聞」を読む(その9)  
清水正

「シルク・ドゥ・ソレイユ」と
創始者の一人、ジル・サンクロワの秘密に迫る。(9)
〈解放〉は本当にあり得るのか。
ヒッピー文化とはいったい何だったのか。
わが青春の時代を振り返る。


ここで、もう一度「06. ひとつ、謎が解けた。」の二人の会話に耳を傾
けておきたい。
糸井 ぼくは、日本にいたけれども、
  同じ時代を経験していますから。
  たとえばウッドストックのニュースを観たり、
 音楽を聴いたり、映画を観たりして、
 さまざまなヒッピー文化に
  触れながら育ったんです。
(省略)
ジル 私は、ウッドストックには
  行けなかったんですけど、
  すでに何百万人も人が集まっていて、
 アメリカ側からノーと言われたんです。

対談が行われた時、昭和二十三年生まれの糸井は59歳、ジルは58歳であ
る。わたしは昭和二十四年二月生まれだから、彼らとは同じ時代の空気を
吸って生きてきたことになる。ただし、糸井が映画や音楽を通して〈さま
ざまなヒッピー文化〉に触れながら育ったのに対し、わたしは〈ヒッピー
文化〉に関係する音楽や映画にほとんど何の影響も受けずに育ってきた。
池袋の文芸座で何本かの映画を観たが、わたしの印象に強烈に残ってい
るのはエイゼンシュテインの『戦艦ポチョムキン』(1925年)『イワン雷
帝』(1944年)、ロジェ・ヴァディムの『輪舞』(1964年)、トニー・リ
チャードソン『マドモアゼル』(1966年)、フェリーニの『道』(1954
年)、『フェリーニの道化師』(1970年)、パゾリーニの『アポロンの地
獄』(1967年)、『王女メディア』(1969年)、『デカメロン』(1971
年)、今村昌平の『赤い殺意』などである。
わたしは映画青年ではなかったので、当時「一日に三本以上、かならず
毎日、映画館に通って映画を観ている」と豪語していた映画学科の学生に
は驚いた。別に感心したわけではない。半分呆れていた。わたしは〈いい
映画〉を一本観たら、続けてほかの作品を観る気にもなれない。
 これは映画に限ったことではない。文学においても同じことで、一人の
作家、一つの作品を徹底して味わい尽くすというのがわたしの読み方で、
読みおわったら、すぐに次の作品を読みはじめるなどということはない。
わたしは学生運動や革命運動、反戦運動などに対して、傍観者風に60、
70年代をやり過ごしてきたが、決して無関心だったわけではない。昭和43
年に日芸に入学して、すぐに学生運動に係わった一人の学友は「革命が成
就してから小説を本格的に書くのだ」と言っていた。わたしは、どんな状
況下にあっても書きつづけるのが作家だと思っていた。その信念は今も変
わらない。
大学紛争に明け暮れた一年間、わたしはひたすらドストエフスキーを読
み、批評しつづけた。人間の光と闇、神と悪魔、文芸座でひとり観た『マ
ドモアゼル』は、まさに美しい女の魔性が見事に表現されていた。わたし
はジャンヌ・モローの妖しい魅力に圧倒され、今でもその顔が鮮明に思い
浮かぶ。『輪舞』は男も女も、人間は結局は慾情のままに生きるのだとい
うことを、軽妙なタッチで描いていた。一人の女を愛し、失恋し、愛は永
遠だと思っていた二十歳ばかりの青年の純情は軽くいなされた。
最も衝撃だったのは『アポロンの地獄』である。すべては必然、偶然も
必然、十四歳の時に書いた「時間は繰り返す」をパゾリーニの映像作品で
再確認した。
 『道』のジェルソミーナの哀しい顔、彼女を金で買った大道芸人ザンバ
ノのあらくれた純情は、痛ましさを越えている。愛を巧みな言葉で表現で
きない男がいる。ジェルソミーナを失った無骨な芸人は酒に溺れ、海辺で
絶叫し、酔いつぶれるしかない。彼の芸は鍛え上げられた頑強な筋肉で、
胸に巻いた鎖を断ち切ってみせると言う、実にシンプルな力技である。
 自分など何の価値もないと嘆くジェルソミーナに、道に落ちていた小さ
な石を拾い上げて、この世に存在価値のないものなど一つもないのだと言
って励ます若いピエロがいた。彼は粗暴な芸人ザンバノと喧嘩し、殺され
てしまう。若いピエロはジェルソミーナの悲しみを痛いほど分かるのに、
なぜ無骨な大道芸人の悲しみに寄り添うことができなかったのだろうか。
からかい心や嫉妬心が、若いピエロの自滅を誘ったとも言えようか。
フェリーニの描く人間は、みんなどうすることもできない根源的な悲し
みを湛えている。『フェリーニの道化師』を観た時の衝撃、それははじめ
てサーカス小屋へ踏み込んだ少年の好奇と不安の眼差しを観客の誰もが共
有するからであろう。
 生きていることはすばらしい、まさに人生は〈夢と冒険〉の劇場であり、
人間の一人一人が、否、この世に生を受けたすべてのものが、この劇場で
かけがえのない役割を演じている。しかし、この劇場には深い悲嘆に嘆く
者があり、救いようのない苦悩にうちひしがれる者がある。崇高なる者と
同時に愚劣と卑劣を絵に描いたような人間もいる。そんなこんなのさまざ
まな人間の諸相を貫いて、フェリーニの眼差しは生きてある者の悲しみの
原質をとらえている。
人間の自由を束縛する国家、共同体、家庭がある。しかし、それらは同
時に平和と安全と癒しを保証している。各人に無制限の自由を保証する組
織はあり得ない。もしそういった理想の国家をつくりあげようとすればど
うなるか。
 先に少し触れた『悪霊』のシガリョフは、そのことを考え抜いて、つい
に〈理想の国家〉をまざまざと思い浮かべる。それはごくわずかの支配者
が、その他九十パーセントの人々を家畜同然とみなして統治する専制主義
的な国家である。〈無制限の自由〉を求めて突き進んだ先にあるのが、独
裁的国家だとすれば、最初からそんな自由は求めない方がいいということ
になる。
ヒッピーの理想は、あらゆる束縛体としての組織からの解放であり、自
由の体現ということにある。彼らにとって〈解放〉とは、既成の国家体制
に反逆すること、たとえば〈ベトナム戦争反対〉を唱えて抗議デモをした
り、反戦歌をうたって多くの人々に戦争の悲惨を訴えたり、または演劇、
音楽、映画作品といった公演・芸術創造を通して〈自由〉のすばらしさを
多くの人々と共有することである。特に音楽活動は、決められた場所に何
万、何十万、何百万という人々を集めることが可能で、その影響力ははか
りしれない。
しかし、〈解放〉の求め方はひとさまざまである。〈ユートピア〉をこ
の地上の世界に体現することはできない。可能なことは疑似ユートピアを
創出することだけである。大麻(マリファナ)、LSDなどの薬物による
現実からのトリップもまた一つの〈解放〉、宗教的瞑想(ヨガ、座禅な
ど)によって悟りを開こうとするのも〈解放〉、極端な場合は死(自殺)
が生からの〈解放〉ということになる。
 あくまでも現実の世界にありつづけながら〈解放〉を願うとすれば、同
じ解放思想を持った人々が集まって新たな共同体を形成するしかないが、
しかしその〈共同体〉にさまざまなかたちで束縛されることからは解放さ
れない。つまり、いずれにしても〈解放〉は同時に新たな〈束縛〉を生む
ということである。
性的解放を目指してフリーセックスを繰り返すうちに、そのセックスそ
のものが束縛ともなる。性的快楽をはてしなく求めれば、薬物依存に陥る
者も出てくる。現実世界は常に動いている。この持続する世界から〈解
放〉を求めて性的エクスタシーへと向かっても、それが〈死〉へと突入し
ないのであれば、再び現実へと還ってくるほかはない。
 性的エクスタシーもまた、結局は現実世界からの決定的な〈解放〉とは
ならない。ヒッピーが目指した理想を、何百人、何千人、何万人といった
規模で実現しようとすれば、当然、新たな組織の論理が始動することにな
る。
ウッドストックに何百万人もの人が集まったという事実は、ヒッピーの
解放思想が普遍性を獲得したということを意味しない。人間は野次馬根性
でいくらでも群がるし、一過性の思想に熱狂しやすいミーハータイプも多
い。自由を求める精神は、何百万人もの人間が集まる場所を求めて歩むの
ではなく、むしろ誰一人いない荒野をこそ目指すのではないだろうか。

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