2009
09.01

「ZED」を観る(連載28)糸井重里の「ほぼ日刊イトイ新聞」を読む(その3)

「ZED」を観る

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カタログより。糸井重里さん
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「ZED」を観る(連載28)
(初出「D文学通信」1225号・2009年09月01日)
糸井重里の「ほぼ日刊イトイ新聞」を読む(その3)  
清水正

「シルク・ドゥ・ソレイユ」と
創始者の一人、ジル・サンクロワの秘密に迫る。(3)
〈竹馬〉には、〈地〉から〈天〉へという上昇志向のみならず、
歩行による移動(水平志向)の側面がある


わたしも子供の頃、竹馬に乗って遊んだ経験がある。三十センチほど背
が高くなっただけなのに、何か自分が自分ではなくなったような気持ちに
なる。〈竹馬〉とはよく名付けたもので、二本の竹で作られた細長い脚は
たしかに馬の脚と似ている。その形状だけではなく、竹馬に乗って歩くと、
その歩き方もまた馬のようになる。目の位置も高くなるので、日常から逸
脱したような気分にもなる。高学年になって、高さ一メール以上の脚の竹
馬に乗った時は、落下の不安に心臓が破裂するような緊張感と共に、まさ
に天に昇ったような感覚に襲われた。
人間にはひとよりも高く飛び、速く走りたいという願望がある。この身
体的な願望は、やがてひとよりも成績をよくしたいとか、異性にもてたい
とか、金持ちになりたいとか、権力を握りたいとかいう世俗的な願望にす
りかわったりするが、要するにそれは自分を他の者よりも優越的な立場に
置きたいという欲求に基づいている。竹馬に乗って歩くという行為は、ひ
とよりも高い目線で周囲を見渡すことができるという点では優位性を獲得
する。
だが、そういった観点からだけでは説明のつかない感覚がある。それは、
〈人間〉が、竹馬に乗っただけで〈馬〉に変貌できるという、その変身の
感覚である。実に素朴ではあるが、この変身感覚を一度味わった者は、こ
の感覚を一生涯忘れることはないだろう。
竹馬を降りて、再び日常へと戻り、そのまま日常世界で生き続ける者が
大半であるが、稀には〈竹馬〉からのさらなる変身を遂げたいと欲求する
者がある。この変身欲求を現実の世界で充たし、それを生活の糧にしよう
とした者たちのなかに大道芸人がいる。生活の糧にするためには、その芸
がひとを魅了するものにまで昇華されていなければならない。まさにジル
が目指したものは、〈竹馬〉からのさらなるメタモルフォーゼである。
〈竹馬〉は二本の長い竹、ないしは棒を必要とする。〈竹馬〉に乗るこ
とで、ひとは優越と恍惚を感じることができる。〈地〉という日常の桎梏
から解放されて、まさに〈天〉に一歩でも近づいたような気持ちにさせる。
この上昇志向を徹底して実現しようとしたのがバベルの塔であった。これ
は神に対する反逆、自らが神に成り代わろうとする傲慢として厳しく罰せ
られることになる。
〈竹馬〉で面白いのは、〈地〉から〈天〉へという上昇志向のみならず、
歩行による移動(水平志向)の側面があるということである。日常から離
れきるのではなく、日常と深い関係を結びながら上昇(神に成り代わろう
とする傲慢な野望から、夢と冒険への旅立ちというファンタジックな願望
までを含む)志向をそれなりに満足させるのが〈竹馬〉である。〈日常〉
の観客に、ショーとしての〈夢と冒険〉という〈非日常〉を提供するアー
ティストとして〈竹馬〉乗りは最も適した種目であったと言える。
ジルが〈りんご〉採りの仕事の関係で〈竹馬〉に慣れ親しんでいたこと
は、彼がショー・グループを結成し、それを成功させる上で極めて重要な
ことであったことが理解できる。
象徴的なレベルで解読すれば、〈りんご〉という神によって食べること
を禁じられていたエデンの園・中央に映えていた〈禁断の木の実〉を〈竹
馬〉で移動しながら採っていたということは、ショーの本質の側面を鋭く
暗示していよう。日常を逸脱する行為のうちには、不可避的に〈神〉への
反逆という側面が含まれている。ジル少年が〈綱渡り〉の練習をしている
時に、父親から危ないから下りろと注意されたことは、この〈綱渡り〉と
いう行為自体のうちに、〈神〉や〈父〉なるものへの反逆、背反精神が宿
っていたことを示している。
ジルは直線的に、真っ向から、徹底して〈父親〉に反抗することはなか
った。〈竹馬〉はそれに乗っても再び〈地〉へと下りる。いったん上昇し
ても、次の瞬間には下りなければならない。この〈竹馬〉乗りの宿命が、
たとえば「ZED」の全演目に反映されている。
〈地球儀〉から舞い降りた女神も、やがて再び〈地球儀〉の腹の中へと
引き揚げられていく。ポール&トランポリンでは、垂直に立てられたポー
ルに、トランポリンを利用して高く飛び上がったアーティストたちが両手
や両足を使って掴まるが、彼らはポールの高さ以上の高見に到達すること
はできないまま、再びトランポリンへと落下するしかない。この数回に及
ぶ上昇と落下の運動そのものがこの演目の見所ともなっている。
バンキンはまさに複数のアーティストたちによる〈バヘルの塔〉そのも
のであり、構築された〈塔〉は完成を待たずに崩落する運命を持っている。
ジャグリングの火をつけられたピンはアーティストたちの手から手へと投
げられ投げ返される。このピンもまた上昇と落下の曲線的な水平運動を繰
り返している。ラッソは一本の綱を輪にして何度も跳躍を繰り返しながら
舞台上を水平に動きまわる。ジャグリングやラッソは基本的に上昇と落下
と水平移動という点で〈竹馬〉と共通している。
ハイ・ワイヤーやフライング・トラピスやバンジーなど、空中を舞台と
した演目も、アーティストたちの動きは上昇と落下の曲線的水平運動を基
本としている。どんなに高く上昇しても〈天〉へと昇り切ることはできな
い。アーティストたちは結局は曲線を描いてゆるやかに、或いは垂直的に
落下するほかはない。限りない天への上昇、地底への落下、そして天と地
を奈落を、ラッソの丸い輪のように繋ぐのは、観客の想像の世界において
ほかにはない。

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