2009
08.21

「ZED」を観る(連載17)

「ZED」を観る

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「ZED」のガイドブックより。
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「ZED」を観る(連載17)
(初出「D文学通信」1214号・2009年08月21日)
「Souvenir Program」を読む(その15)  
清水正

クリエイターたちと観客(批評家)
が主体的に交わること、
このことを「ZED」は改めて衝撃的に
考えさせてくれた作品であった。


「ZED」の舞台をどう見るか。観客の固定化された〈視点〉は観客の
数だけある。しかも観客一人ひとりが、舞台上に展開されるパフォーマン
スの微妙に異なったところを見ていることは容易に想像できる。
〈地球儀〉の底から青い衣装の女神が舞い降りた時、観客の眼差しは女
神の顔、女神の衣装、女神の姿全体、そのどこを重点的に見ているのか。
人間の眼差しは瞬間的に移動して、それらすべてを視野に入れながら、自
分の気になる部分へと向けられる。わたしなどは女神を吊るしているロー
プの強度や、〈地球儀〉内部で動き回っているスタッフの姿も気になった。
純粋に一観客としてショーを楽しもうとする気持ちはあるが、舞台を通し
てそれを作る側の演出意図や、セット、衣装、スタッフたちの動きなども
気になる。
「ZED」は盛り沢山の御馳走をテーブル一杯に広げて置いてある。否、
テーブルの背後にも、中空にも置いてある。この御馳走をいっぺんに食べ
尽くすことはできない。観ることを何回も重ねながら〈食べる〉ことを満
喫しようとする者があり、わたしのように執拗に批評を展開することで味
わい尽くそうとする者がある。
わたしは中央舞台の演技に魅了されながらも、背後の廊下舞台に登場す
るアーティストたちの演技も見落とすまいと細心の注意を払いつづけた。
「ZED」のクリエイターたちは、複数の舞台を自在に駆使する演出法で
観客の眼差しを多方面に向けさせる。舞台の脇役一人ひとりが、独自の主
体性を獲得して〈主人公〉を張っている。主人公ゼッドのもうひとりの影
の〈ゼッド〉がさりげなく全速力で廊下舞台を横切ったり、逆さまに歩い
て通りすぎる女性演技者がいたりと、舞台には様々な工夫が成されていて、
一瞬たりとも眼がはなせない。
わたしが劇場に足を運んでいつも思うことは、移動観客席の設置であ
る。一列全席が速度を変えながら、右に左に、あるいは中央舞台であれば
一周するのもいい。さらに上下運動や空中飛翔ができれば最高である。し
かも、物理的にコンピューター機器でマニュアル通りに操作されるのでは
なく、観客の独自の判断で自分の席が自在に操作することができたら、こ
んなに愉快なことはないと考えてしまう。
文芸批評の場合は、テキストに関して自在に再構築することができる。
しかも時間的制約はない。演劇やショーの場合は、上演時間の制約を脱す
ることはできないが、文芸批評の場合は評家の都合でどうにでもなる。一
頁読むのに何時間かけてもいいし、テキストにどんな照明をあててもいい。
後ろから読んでも、中途から読んでもいい。こういった自在な読みをショ
ー「ZED」に適用するとならば一度観終わってから、今、わたしが展開
しているような様々な角度から照明を当てて検証するしかない。
もし、観客席を自在に操作できれば、製作者側が意図したショーを観客
が主体的に再構築することが可能となる。これは観ることを想像・創造的
に再構築しようとするわたしの願望の一つである。が、これを実現するた
めには膨大な予算を必要とするだろうし、ショーを観客の主体の側に立っ
ても楽しもうとする人々が増えないことには多くの困難を伴うであろう。
移動観客席は現実的には容易に実現することがないであろうから、わ
たしは自分の想像の世界で様々な方向へ、さまざまな速度で、何台もの内
的〈カメラ〉を飛ばすしかない。フランソワ・セガンは舞台を映画の一場
面のように埋め尽くしているから、さしずめわたしは映画監督、撮影監督
になったつもりで、〈カメラ〉を自在に飛ばし、固定し、編集することが
できる。

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