2009
08.18

「ZED」を観る(連載15)

「ZED」を観る, ドストエフスキー関係

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「ZED」のガイドブックより。
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「ZED」を観る(連載15)
(初出「D文学通信」1212号・2009年08月19日)
「Souvenir Program」を読む(その13)  
清水正

前回、「インスピレーションなきクリエイターは存在しない」と書いた
が、インスピレーションなき批評家もまたその資格を失う。



観客(批評家)の眼差しは何を見るか。

前回、「インスピレーションなきクリエイターは存在しない」と書いた
が、インスピレーションなき批評家もまたその資格を失う。はじめに直観
ありきで、この直観のない読者や観客の言葉ほどつまらないものはない。
わたしが「ZED」に直観したのは、主人公ゼッドの、その〈ゼロ〉にあ
った。本来、姿のない〈ゼロ〉がゼッドとして舞台上に現出してきたこと
の、その挑発的、道化的な意味を探ること、そのプロセスそのものがわた
しの「ZED」批評となることを、わたしは予感(直観)していた。
批評はテキストを解体し、限りなく想像・創造力を発揮して再構築しな
ければならないという考えのもとで、ドストエフスキーや宮沢賢治の作品
を〈ウルトラ読み〉してきたわたしにとって、ショー「ZED」は文学作
品とは違った魅惑的なテキストとして現れたのである。わたしは今、毎日
のように「ZED」論を書き継いでいる。たった一度観ただけのショーを、
わたしは一日に何度も思い起こしながら、徹底的に味わい尽くそうとして
いる。
「ZED」を初めて観た時から、わたしは〈観客席〉のことを考えてい
た。「シルク・ドゥ・ソレイユ シアター東京」は二千人以上を収容でき
る大劇場であるから、当然のこととしてどこに座るかによって〈見えるも
の〉は変わってくる。わたしが座った席からは舞台全体が俯瞰できたが、
二回目はぜひ舞台近くの席に坐りたいと思った。アーティストたちの息吹
をなるべく近い場所から感じたかったし、わたしに最も不気味で異様なオ
ーラを感じさせた〈地球儀〉を下(底)から覗き見たいとも思ったからで
ある。
ショーの舞台作りにおいて、いかに観客の眼差しを釘付けにし、感動的
な場面を提供できるか。クリエイターやアーティストたちにとって、それ
はいつの時代においても最も重要な課題であったからこそ、さまざまな舞
台装置上の工夫が施されてきた。舞台を前面に置くか、観客たちの中央に
置くか、中空に置くか、その舞台を固定するか、場合によっては廻すか、
吊り上げるか、落下させるか、舞台の形を円形にするか、半円形にするか、
四角にするか、照明装置をどうするか、蝋燭の火で照らすか、高度の科学
技術の最先端機器を取り付けるか、音響装置、美術をどうするか……。ク
リエイターたちはいつも作品をベストに持っていくための工夫をおこたる
ことはなかった。
ところで、観客の側に立って言えば、〈観客席〉の工夫は、創り演じる
側の舞台上の工夫に較べればはるかに遅れている。大勢の観客が集まれば、
当然、平面的な観客席にあっては、後ろに位置する者は不利である。そこ
で、階段式の座席が作られ、前後の不平等はそれなりに解決されることに
なった。
さらに観劇用の望遠鏡が開発されることによって、アーティストたちの
演技を観客の思い一つで適宜アップで見ることもできるようになった。こ
の観劇用テレスコープを観客が手にすることができたことは、一つの革命
的な出来事であったと言える。つまり、テレスコープを手にした観客は舞
台観劇上の〈編集権〉の一つを手に入れたということである。
舞台全体において全アーティストが集合する場面において、主要な人物
の二人が会話する場面、その他においてテレスコープを持った観客は、誰
を、どこを、いつ、どのようにアップして見るかの選択権を手に入れたの
である。この意識を明晰に認識した者は、受け身の観客から、編集権(或
る限定的なものではあるが)を持った創造的な観客へと変わる。
わたしは「ZED」を固定化された観客席に座っておとなしく観ながら、
想像上の〈カメラ〉を何台も飛ばしていた。わたしは長年、文学作品や映
像作品を批評する過程で、一義的に固定化された自分の〈眼差し〉以外に
も、複数の〈眼差し〉を飛ばす習慣が身についている。「ZED」のよう
な極めてスケールの大きいショーを、一つの固定化された視点で観ること
自体が理不尽であろう。わたしが、今、たった一度しか観ていない「ZE
D」について批評し続けているのも、それが余りにも豊穣な幾層にも重な
る〈場面〉を作り出していたからである。
わたしの想像上の〈眼差し〉は何度、鋼鉄製の〈地球儀〉の真下へと降
りて行ったことだろう。とつぜん舞い降りた女神の、その瞳をどれくらい
の近さで覗き見たことであろうか。奈落へと落下したクラウンの姿を闇の
中で追い、空中を舞う天女たちと共に何度スリリングなスピード感溢れる
飛翔を繰り返したであろうか。多くの独創的なキャラクターの演技に立会
い、追い、逃れ、行動を共にしたゼッドの傍らに何度寄り添ったことであ
ろう。
ジャグリングの火が、いつ観客の胸に突き刺さるかを心配して、〈眼差
し〉は舞台近くの一観客の瞳に張りつき、〈地の誕生〉を意味するラッソ
の輪のなかを何度くぐり抜けたであろうか。しなやかで力強い筋肉の躍動
と熱い火の呼吸音を聞かんとばかりに、わたしの想像上の、聴覚・臭覚機
能を備えた〈眼差し〉はラッソの、バンキン(バヘルの塔)の、ポール&
トランポリン(天に向かって)の、ジャグリング(ケルヌーンの火)のア
ーティストたちに接近してはすばやく離れた。
「ZED」という多義的な、多くのアーティストたちが独自の〈声〉を
発する舞台においては、観客の観る〈視点〉もまた不可避的にアクロバチ
ックにならざるを得ない。わたしは思う存分〈観劇の多義性〉〈観劇のア
クロバット〉を楽しませてもらった。一度の観劇が〈百〉にも〈千〉にも
なるというのが、わたしにとっての「ZED」の最大の魅力ともなってい
るのだろうか。

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