チェーホフ『退屈な話』を読む(4)

清水正のチェーホフ論

不眠症と志ん生落語の効用
さて、小説創作上の小難しい論議に深入りすることは避けて、この老教授の記す日常のいくつかを見てみることにしよう。
目下の生活様式にかんして語れば、何はさておき、まず最近なやみつづけている不眠症に言及せねばならぬ。もしわが輩に向って、現在きみの生存の主要にして基礎的な特徴を構成するものは何かと問う人があれば、わが輩はそくざに不眠症と答えるであろう。昔ながらの習慣で、わが輩は午前零時を期して服を脱ぎ、寝台に横たわる。寝つくのはすぐだが、午前一時を回るころにはふっと目ざめ、しかもまるで寝たおぼえがないような気持ちである。やむなく寝床を出てランプをともす。一時間ないし二時間、わが輩は部屋を隅から隅へ歩き回り、とうに見慣れた絵や写真をとっくりと鑑賞する。歩きあきると机に向って腰をおろす。それなりわが輩は、考えるでもなく何の意欲を感ずるでもなく、身じろぎもせずに坐りつづける。
老教授の不眠症の描写を読んでいると、まるでわたしのことを書かれているような気分になってくる。わたしが批評文を本格的に書きはじめたのは十九歳、ドストエフスキーの『白痴』について七十枚書いたのが最初である。その頃から十年間は夜型の生活が続いた。とにかく夜に寝るなどということを考えたことすらない。夜はひたすら本を読み、執筆していた。もっぱらドストエフスキー論を書いていたが、ドストエフスキーについて昼間原稿を書くなどということは思いもしなかった。わたしにとってドストエフスキーは紛うことなき〈夜〉の作家であり、夜にならなければドストエフスキーについて書く気などおきはしなかった。
老教授が不眠症で夜寝れないということに嘘偽りはないだろう。が、ただ一つ、彼は嘘をついている。つまり、彼は夜に執筆していたということである。確かに執筆の間に無為の時を過ごすことはある。とりたてて読みたいとも思わない本を手にとって、ぱらぱらと頁をめくってみる、そんなことを繰り返しながら一時間や二時間はすぐに過ぎていく。夜中の時間の進み方というものはあんがい早いもので、集中して本を読んだり、執筆したりしていると、すぐに朝が来る。
近頃、わたしは夜中に原稿を書くことはない。原稿を書くのは通勤の電車の中と喫茶店のみで、家に帰ったらいっさい仕事らしいことはしない。漠然とテレビを見たりするだけで、新聞すら読まない。とにかく眼が悪くなったせいで新聞を読むのがおっくうになった。習慣でいちおう手にはとるのだが、だいたい大きな活字の見出ししか読まない。老教授の時代にはラジオもテレビもなかったのだから、ここに書かれているようなことで時間を潰すほかはなかったのであろう。わたしが床につくのは夜中の二時か三時だが、その間、いっさい仕事はしない。かなり怠け者のようにきこえるだろうが、何もしないことにはそれなりの理由もある。ものを書くという仕事は妙に神経を興奮させるもので、執筆活動で生活をたてている人はそれでいいだろうが、勤めに出なければならない者にとって、夜中じゅう起きて仕事をし、昼間寝ているわけにはいかない。そこでわたしは敢えて家ではいっさいものを書かないことにしたのである。家で何も書かないということが、電車の中での集中的な執筆を可能とした。書き続けたい時は山手線をぐるぐる回っていればいいということになる。
さて、老教授の不眠症はよく書けている。書いているのは小説の設定上はニコライ・ステパーノヴィチであるが、実際にはチェーホフが書いている。チェーホフはおそらく若い頃から不眠症だったのだろう。だいたい物書きになるような人で、夜中にぐっすり眠れるような人は稀であろう。想像力が存分に発揮できるのは、どうも夜中のような気がするのだが、まあこれも個人差があるので確かなことは言えない。
二年ほど前、不眠症がひどくなったことがあった。とにかく眠ろうとすればするほど意識がはっきりしてくるのだから始末におえない。勤め人にとって不眠症というのはまったく厄介である。わたしはたまたま大学に勤めているので、午前中に授業を組まないかぎりは、時間的にかなり余裕があるようなものの、どうしても朝早く出勤しなければならない時がある。例えば入試の時がそうである。年に数回、朝早く出勤するだけのことで体調をこわすことがある。そこでいろいろと工夫することになる。前日まったく眠らず、身体をへとへとに疲れさせ、とにかく当日は眠ることにする。が、習慣というのは恐ろしいもので、そんな付け焼き刃の戦略に身体が素直に従うわけもない。結局二日間寝不足で出校する羽目になったりする。
ある夜、古今亭志ん生のテープをかけて床についたときがあった。なんと、その日はぐっすり眠れて、目覚めのときに久しぶりに爽快感を味わった。志ん生落語に不眠症を治癒する効果があることを知ったその日以来、今夜はぐっすり寝たいと思う時には必ず志ん生落語のテープをかけることにしている。老教授にもぜひすすめたかったものである。
志ん生落語がなぜ不眠症に効果的なのか。大袈裟な言い方と思うひとがいるかもしれないが、落語は全世界の肯定、人間のあらゆる側面(悪も欲もすべて含めて)の肯定であり、そこには深い断念、諦念が潜んでいる。落語は絶望をも快楽に変換できる全肯定精神に満ちている。それを理屈や議論ではなく小さな落とし話にまとめあげてさらっと処理しているところが、言わば日本文化の粋なところと言えようか。わたしなどは、ドストエフスキーの小説などは十分に〈落語〉になりえると思っている。否、ドストエフスキーばかりではない、それを〈落語〉として読める、聞けるひとにとってはすべての小説が、哲学が落語になりえるのである。話は逸れたが、要するに落語はその肯定精神によってストレスを揉みほぐす効果を発揮する。わたしは志ん生落語が特に好きなので、効果抜群なのである。

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