寺山修司・関係

五十嵐綾野さんの寺山修司論(連載⑱)

t4.jpg


美輪明宏『毛皮のマリー』について
 五十嵐 綾野
 
 2009年4月1日ルテアトル銀座にて、作・寺山修司 演出/美術・美輪明宏『毛皮のマリー』が再演された。この作品は、1967年に寺山が美輪さんのために台本を書いたことで有名である。私が寺山の演劇を見たのは今回が初めてである。初日ということもあり、席は満員である。ロビーにも人が溢れていた。圧倒的に女性が多い。年齢層は幅広いようだ。美輪さんのファンだろうか。グッズ売り場では、美輪さんの著書が飛ぶように売れている。寺山の著書やDVDも販売しているのだが、手に取る人があまりいないのが寂しい。
 私は前から14列目の真ん中の席だった。舞台全体が見渡せる。蓄音機から聞えてくるようなシャンソンが流れている。ボックス席の巨大な蝶の飾り付け。客席と舞台の境界線を曖昧にしているのを感じた。客席を舞台に取り込むのは寺山の手法である。寺山の演劇では、常にお香の香りが漂っていたと聞いたことがある。さすがにそれはなかったが、嗅覚に訴えるというのは人間の本能に直接刺激を与えると思う。
 一幕目。まずパステルカラーの蝶に驚いた。華やかだ。寺山の演劇といえば暗い色合いが浮かぶ。パステルカラーより、きつい原色というイメージだ。以前衛星放送で、1983年に演じられた『毛皮のマリー』を見たが、これほど明るくなかった。
 特に『毛皮のマリー』は寺山作品の中でもお気に入りだ。本で散々読んだ作品である。だから、頭の中でたくさん膨らませていた。やはり、台詞のタイミングや話し方を実際に見て、脚本を読んでいるだけでは何もわからないと痛切した。どんなに読み込んでも越えられない。
 『毛皮のマリー』といえばエログロナンセンスが目玉である。主人公である男娼の毛皮のマリー、半ズボンで蝶を追いかける美少年の欣也、美少女の紋白、醜女のマリーと亡霊たちの悪夢のような乱痴気騒ぎ。白雪姫、マリリン・モンロー、八百屋お七などの大勢のコスプレがラインダンスをする。もちろん全員男性である。そしてこの劇の観客のほとんどが女性であるという現実。倒錯性が面白い。「見世物」を追求していた寺山の世界観が凝縮している。このような寺山の美意識と美輪明宏という比類なき存在のタッグは、世界中を探しても見つからないだろう。
 観客を始め、人はこのような悪趣味なドタバタ騒ぎの方に目が行ってしまう。この『毛皮のマリー』が言いたいことはそれだけではない。親子愛である。劇の後半ではこれにスポットを当てた展開になる。美輪さんらしいメッセージである。むしろマリーなのか美輪さんなのか、一体化してしまってわからなくなる。これが寺山の作品だということを忘れてしまうほどの展開に驚きの連続である。
 欣也を応接間に閉じ込めて、自分と同じように育てようとするマリー。憎み恐れていながらも、最終的にマリーの側に帰ってしまう欣也。思いの強さや、母性と言ってしまえばそれまでだが、どこか悲しい。そもそも男性のマリーに向かって母性を問うのはおかしいのかもしれない。
 背景が突然キノコ雲に変化する。少し前までは、蝶が舞う美しい世界であった。それが一面瓦礫の山。その中で佇む親子二人。聖母子像、マリアとキリストをイメージしている。ラストは、華麗なクジャクを前に金粉が降り注ぐ。目を細めたくなるほど眩しい。美しいといえば美しいのだが、あまりにも現実から離れていた。無償の愛こそすべてという感じである。あの眩しさは一生忘れられない。
 とんでもないものを見てしまった、というのが正直な感想である。華麗で、神々しくて、グロテスク。美輪さん本人もパンフレットで語っていたが、今回が最後の『毛皮のマリー』になるそうだ。とても残念なことである。寺山の世界観や倒錯性は真似しようとしても難しい。一歩間違えれば、みっともないことになる。寺山の理解者でもあった美輪さんだから出来たことである。美輪版毛皮のマリー。間に合ってよかった。
 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です