2009
08.18

「ZED」を観る(連載14)

「ZED」を観る, ドストエフスキー関係

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「ZED」のガイドブックより。フランソワ・セガン
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「ZED」を観る(連載14)
(初出「D文学通信」1211号・2009年08月18日)
「Souvenir Program」を読む(その12)  
清水正
〈独自の声〉が舞台を混乱に招くことなく、
さらなる統合へと昇華され、
最後には観客を巻き込んでの大合唱へと至る、
その道程そのものがショー「ZED」の醍醐味である。


クリエイター、アーティスト、彼ら一人ひとりが、〈創造主〉のインスピ
レーションを全身全霊で受け止め、ショー「ZED」をすばらしいものに
作り上げようとする意思がヴィヴィッドにつたわって来る。
今までガイド&ファウンダーのギー・ラリベルテ、ライター・&ディレ
クターのフランソワ・ジラール、そしてディレクター・オブ・クリエイシ
ョンのリン・トランブレー、「ZED」の主要な三人のクリエイターの言
葉を検証してきた。
今回はその他のクリエイターたちの言葉を見ていきたい。「ZED」の
クリエイターたちは一人一人が自分自身の言葉を持っている。「Souveni
r Program」にはセット・デザイナーのフランソワ・セガン、衣装デザイ
ナーのルネ・アプリル、アクロバティック・パフォーマンス・デザイナー
のフロランス・ポ、アクロバティック装置デザイナーのスコット・オズグ
ッド、振付のジャン=ジャック・ピエ、デボラ・ブラウン、作曲・編曲の
レネ・デュペレ、証明デザイナーのデーヴィット・フィン、サウンド・デ
ザイナーのフランソワ・ベルジュロン、メイクアップ・デザイナーのエレ
ニ・ウラニス、プロダクション・マネジャーのマイケル・アンダーソン等、
十一名のコメントを載せている。
セット・デザイナーのフランソワ・セガンは次のように語る。
  セットデザインのコンセプトに大きなインスピレーションを与えてくれ
たのは、アストロラーベと呼ばれる古代の天文観測儀。また私は、舞台をあ
たかも映画の一画面のように埋め尽くしたいと考えました。美的表現とい
う点では、デザインは、盛期ルネッサンスの絶頂と機会時代の夜明け見想
起させるものとなっています。

まず注目したいのは〈インスピレーション〉という言葉である。初めて
「Souvenir Program」を一通り読んだ時に、わたしは「ZED」のクリ
エイターたちのうち、このセガンと衣装デザイナーのルネ・アプリル、作
曲・編曲担当のレネ・デュペレ、それにリン・トランブレーが佐藤友紀の
インタビューに応えて〈インスピレーション〉という言葉を発しているこ
とを興味深く思った。
インスピレーションや直観はクリエイターにとって最も重要なことであ
る。インスピレーションによってクリエイターは壮大なヴィジョンを得る
ことができる。極端なことを言えば、インスピレーションなきクリエイタ
ーは存在しない。自分の力と経験だけに頼ったクリエイターは、ひとの魂
を揺り動かすことはできない。天と地を貫く一瞬の閃き、人知を超えた何
ものかからの啓示、そういったものがなければ経験や技術はその力を存分
に発揮することはできない。
「ZED」が観客の魂を魅了するショー足りえているのは、ライター・&
ディレクターのフランソワ・ジラールやディレクター・オブ・クリエイションの
リン・トランブレーのみならず、各担当のクリエイターたちがインスピレー
ションを重視する者たちであったことが大きい。
舞台芸術に限らず、多くのクリエイターやスタッフを必要とする芸術に
おいては、脚本家、監督、ディレクター、プロデューサー、アーティスト
たちの、作品に対する基本的なヴィジョンが一致していなければならない。
そこが文学(小説、詩歌、批評)のように一人の執筆者によって成立する
芸術とは決定的に異なっている。映画のような総合芸術において、カリス
マ的な監督が、自分自身の独創的なヴィジョンを強引に作品化するような
場合にあっても、彼は撮影、音響、照明、衣装、美術、その他映画作りに
係わるすべての者たちに自分のヴィジョンを明確に伝える努力を怠ること
はできない。自分のヴィジョンを他のクリエイターやスタッフに正確に、
情熱的に伝える能力も監督には必要である。
「Souvenir Program」に掲載されたクリエイターたちの言葉を読んで
いると、彼らがライター・&ディレクターのフランソワ・ジラールのヴィ
ジョンをよく理解した上で自分自身の独自の能力を最大限に発揮しようと
しているかがひしひしと伝わってくる。まさに彼らはバフチンの言う「そ
れぞれに独立して溶け合うことのない意識たち、そのそれぞれに重みのあ
る声の体位法を駆使したポリフォニイ」としてのショー「ZED」の作り
手たちなのである。
バフチンはドストエフスキーの主人公たちを「創造主と同格にあって、
彼に動ずることなく、むしろ彼と戦う能力のある自由な人間」とも書いて
いる。この〈創造主〉をガイド&ファウンダーのギー・ラリベルテやライ
ター・&ディレクターのフランソワ・ジラールに置き換えれば、その他の
すべてのクリエイターたちを〈主人公〉に置き換えることができよう。否、
クリエイターたちばかりではない、ゼッドをはじめとするすべてのアーテ
ィストたちが、〈創造主〉と戦う能力のある〈自由な人間〉として、独自
の演技力を発揮している。
クリエイターやアーティストたちが独自の〈声〉を発しながら、舞台が
大いなる一に統合されているのは、彼らがギー・ラリベルテの言う「世界
の均衡に欠かせない調和、ハーモニー」を何よりも大切にしながら〈人間
の生の本質〉に迫ろうとしているからであろう。彼らクリエイターたちの
コメントを聞き、彼らアーティストたちの演技を観れば、そこに微塵の手
抜きもないことが分かる。

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