「ZED」のガイドブックより。リン・トランブレー
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「ZED」を観る(連載13)
(初出「D文学通信」1210号・2009年08月17日)
「Souvenir Program」を読む(その11)
清水正
今回はディレクター・オブ・クリエイション(DIRECTOR OF CREATION)のリン・トランブレーの言葉を検証したい。
リンは次のようにコメントを寄せている。
私にとって、このショーの創作に参加することは、
それぞれの独自の宇宙と世界観を持った人々との出会い
そのものでした。新しいショーの創作には、各人の文化、
価値観、想像力の解放、交流、発見が必要です。
新作をつくる過程では、様々な想像力やビジョンを集め、
そこからユニークでリアルな新しい世界をつくり出すことが
いつも課題になります。
「躍動する詩の中へ・・」の中の末尾に
変化を引き起こす西風が、二つの世界の間を吹き抜けた時、
私たちの心の奥深くで声がいざなう・・「友よ、生きることを恐れる
な」と。
とあった。今、リンの言葉を引用してこの言葉がすぐに立ち上がった。
生きることに絶望し、何の希望を持てない人々がいる。何の罪もないの
に病に倒れる者があり、銃弾に傷つき、命を落とす者がある。何の罪もな
い者に病を与える〈或る何ものか〉がある。何の罪もない者に銃弾を発す
る者がある。世界は不条理と悲惨に満ちている。イヴァン・カラマーゾフ
は、数々の悲惨な事例を列挙し、神のつくりあげた世界ヘの入場を拒んで
狂気へと突き進んだ。
「ZED」を作り上げた人々は言う「友よ、生きることを恐れるな」と。
ジラールの肖像写真は腕組みをしていたが、リンは我が身を抱くように
軽く両腕を重ねている。リンはいったい何を抱きしめているのか、何を抱
きしめようとしているのか。リンは言う、ショー「ZED」に参加すると
いうことは「それぞれ独自の宇宙と世界観を持った人々との出会いそのも
の」であった、と。
まさにこれはドストエフスキーの文学の特徴をポリフォニィと指摘した
ミハイル・バフチンの言葉と重なる。
それぞれに独立して溶け合うことのない声と意識たち、そのそれぞれに
重みのある声の体位法を駆使したポリフォニイこそドストエフスキイの小
説の基本的性格である。多くの性格や運命がひとりの作家の意識の光に照
らされて展開するが、そこではそれらの世界と等価値の多くの意識たちが、
その個性を保持しつつ、連続する事件を貫いて結び合わされる。実際ドス
トエフスキイの主人公たちは、作者の発想のそもそもから、 ただ単に作者
の言葉の対象たるにとどまらず、個々それぞれに意味を持った言葉の主体
なのだ。 主人公の言葉はしたがって、そこでは性格描写とか筋の運びの機
能として使われているのでもなく、作者自身の思想的立場の表現(例えば、
バイロンの如く)に使われているのでもない。主人公の意識は全く作者と
は別な作者の意識だが、同時にそれは対象化されてもいず、閉されてもお
らず、作者の意識の単なる客体ともなっていない。その意味においてドス
トエフスキイの主人公は伝統的な小説の主人公のいわゆる客観的な形象と
は違う。(ミハイル・バフチン著『ドストエフスキイ論・創作方法の諸問
題』新谷敬三郎訳)
独自の自分自身の言葉を発する〈主体〉が、もう一つ別の〈主体〉と対
話的に関わりながら、全体としては調和の世界を実現する。『カラマーゾ
フの兄弟』の最後の「カラマーゾフ万歳!」は、まさに二(複数)が大い
なる一という調和(ハーモニー)に達した時に発せられた言葉であった。
が、〈出会い〉は二が一になるとは限らない。〈出会い〉がさらなる対
立を深める場合も稀ではないし、結合した一がさらなる分裂を予告する場
合もある。アリョーシャを囲んだ少年たちが「カラマーゾフ万歳!」と大
合唱をしても、イヴァン・カラマーゾフの神に対する反逆の牙が溶けてな
くなったわけではない。淫蕩三昧な生活を貫徹して最後には私生児スメル
ジャコフに殺害されたフョードル・カラマーゾフの魂が、「カラマーゾフ
万歳!」の合唱で癒されるわけでもない。
猫と鼠が一つの狭い檻のなかで、独自の〈声〉を発するということは、
結局は猫が鼠を食い殺すという決定的な事実で幕を下ろす。肉食獣のライ
オンは、その獲物でしかないシマウマと仲良く暮らすわけにはいかない。
この事実を現実の次元で解決することはできない。人間が生きているとい
うことは、他の多くの生き物を殺して食しているということを意味する。
ヒューマニズムは、取り敢えず人間はすべて民族、宗教、肌の色、能力
などにかかわらず自由と平等を享受することができるという愛の思想であ
るが、この思想に他の生物を適用すれば、この愛がいかに人間中心的なも
のであるかはすぐに了解できる。
リンの言う「価値観、想像力の解放、交流、発見が必要」なのは、〈新
しいショーの創作〉を作るための過程においてであって、現実において創
造的な効果を期待することはできない。猫と鼠がどんなに心を開いて対話
を繰り返しても、結論は腹をすかした猫が鼠を食い殺してしまうという、
この〈事実〉をどうすることもできない。
宗教上の、それぞれの絶対的な〈神〉を、対話的関係の磁場において
〈相対化〉することはできない。〈相対化〉に甘んじた〈神〉を〈絶対〉
とすることはできない。
リンの言う〈ユニークでリアルな新しい世界〉は〈ショーの創作〉の世
界であって、現実の世界においてそのまま適用することはできない。わた
しはリンの肖像写真を見ながら、彼女が抱え込んでいる虚無を感じる。言
い方を換えるなら、底知れない虚無を抱えているからこその、リンの〈新
しいショーの創作〉にかける情熱を感じるということである。
「ゼッド」の冒険も、天と地というまったく異なる、
一見正反対の二つの世界が出会うことが特徴です。
この二つの世界は、初めは対立しますが、
やがて互いを発見し、最後には、心を開いていきます。
〈正反対の世界〉が存在して、対立、抗争を繰り広げているのが現実の
世界である。この〈二つの世界〉を一つに統合し、お互いの立場を理解し、
大合唱を可能としたのは『カラマーゾフの兄弟』の第一部であり、そして
ショー「ZED」のエンディングである。
一つの仕事を成し終えたアーティストたちが中央舞台に駆け集まり、手
を繋ぎ、両手を高く天空に挙げ、観客の万雷の拍手に応えている。ここで
は背後に潜んでいるクリエイター、スタッフ、そして観客全員が、各々の
〈一〉を尊重しながら、大いなる一へと統合された歓喜の瞬間を味わって
いる。
いったいショー「ZED」の何が、こんなにもひとを感動させるのであ
ろうか。現実においては、対立する二が、さらなる対立を生み、憎悪と敵
意をあらわにしているというのに……。「ZED」にはそれを創造する側
にも、観る側にも、最後には等しく〈大合唱〉をしたくなるように、予め
〈魔法〉が仕掛けられているのであろうか。
わたしの想像裡にゼッドが、二十一世紀日本の首都東京に現出した大魔
術師の相貌を持って浮上して来た。彼はわたしの瞳を覗き込み、ニッと微
笑して闇の中へと消えていった。