「ZED」のガイドブックより。フランソワ・ジラール
ここをクリックする 「清水正の本」 「清水正の著作一覧」
「ZED」を観る(連載⑫)
(初出「D文学通信」1209号・2009年08月16日)
「Souvenir Program」を読む(その⑩)
清水正
今回は「作・演出」(WRITER AND DIRECTOR )の
フランソワ・ジラールの言葉を検証したい。
今回は「作・演出」(WRITER AND DIRECTOR )のフランソワ・ジラール
の言葉を検証したい。
ジラールは次のようなコメントを寄せている。
私が何よりも実現させたいと願っていることは、
アーティストと観客の皆さまとの出会いを可能にし、
その出会いが忘れがたく印象的なものとなるように
すること、そして二者の間に対話を生み出すことです。
その意味でも、この日本でのシルク・ドゥ・ソレイユの
ショーの演出を担当することになったのは、
願ってもない機会でした。
ショー「ZED」を観た者でハラハラドキドキ、魂の躍動を感じなかっ
た者は一人としていなかっただろう。次々に登場するアーティストたちの
アクロバチィクで高度な演技に魅了され、観客は時を忘れて発見と冒険の
旅を続ける。ジラールが願ったアーティストと観客の〈出会い〉は見事に
成功したと言えよう。
敬愛する「ゼッド」のアーティストたちなしでは、
このショーをつくることはできなかったでしょう。
彼らがいたからこそ、毎朝目覚めると劇場に戻って
彼らとの素晴らしい旅を続けたいと思いました。
私は、アーティストたちの演技を、観客である皆さまの
瞳のなかで輝かせ、耳のなかで響き渡らせるように
したいと願い、その実現に情熱を傾けてきました。
この劇場の暗い座席で何カ月も過ごし、自らを観客の
立場に置き、あたかもたった今劇場に入ってきて、
自分の席に向かって歩いている一人の観客に
なったつもりで考えました。期待で胸をふくらませ、
魔法が起こるのを心待ちに席をつく観客として、
彼らの演技を一秒一秒、見つめようとしたのです。
この素晴らしい世界に私を招き入れてくれた
シルク・ドゥ・ソレイユに心から感謝いたします。
ジラールはショー「ZED」の演出意図を具体的に語らない。ジラール
がどのような人生観、世界観を持って、何を目的に「ZED」を演出した
のか。アーティストと観客の出会いと対話、これは「ZED」でなくても、
すべての舞台に当てはまる。ジラールのコメントは〈挨拶〉の次元を超え
ていない。
尤も、この〈挨拶〉の中にジラールのアーティストたちに対する尊敬と
感謝の気持ちは存分に表明されている。ショーの演出家は、演技者やスタ
ッフたちとの心の繋がりがあって、はじめてその任務を果たせる。
さらにジラールは、観客の立場に立ってアーティストたちの演技を見て
いる。観客の目線と期待に限りなく身を寄せて、舞台を演出構成すること
はショービジネスの基本である。演出家の思想やヴィジョンが大多数の観
客のそれと余りにもかけ離れていた場合、ビジネスとしては成功しない。
莫大な資金を投入して専用の劇場を建設し、世界各国から有能なアーティ
ストたちとスタッフを集めた「シルク・ドゥ・ソレイユ」の演出家として
は、一人勝手な独創性を発揮することは前提としてはじめから許されてい
ない。
ジラールが語る〈観客〉は不特定多数の観客を指している。この〈観
客〉は〈期待で胸をふくらませ、魔法が起こるのを心待ちに席につく観
客〉である。わたしの中にも間違いなくこの〈観客〉は存在している。し
かし、観客の中にはショー「ZED」の演技者や演出家に嫉妬を覚えたり、
劇場全体を爆破してやろうというテロリストが潜んでいないとは限らない。
だからこそ、多くの観客が集まる劇場においてはセキュリティ・チェック
を厳しく行わざるを得ない。
「ZED」の観客は、老いも若きも、男も女も、そのすべてがアーティ
ストたちの演技に瞳を輝かせ、舞台に釘付けになる。ジラールが願ったこ
とは、嫉妬と憎悪の暗い情念を抱え持った者や、破壊衝動に駆られた者に
さえも、ショー「ZED」の魔法をかけることだったと言えるかもしれな
い。観客の嫉妬や憎悪や破壊衝動を昇華する、さらに激しいものが舞台上
で表現されなければならない。きれいごとだけの舞台が観客を深い感動に
誘うことはない。
ギー・ラリベルテの言う「世界の均衡に欠かせない調和」に達するため
には、〈天〉は〈天〉、〈地〉は〈地〉、〈叡智〉は〈叡智〉、〈狂気〉
は〈狂気〉のその姿を明確にさらけ出さなければならない。現実のテロリ
スト以上のテロリズムが舞台上で炸裂しなければ、テロリストを魔法にか
けることはできない。
ジラールが〈劇場の暗い座席〉で何ヵ月も過ごし、自らを観客の立場に
置いて考えたということは、彼が善良な市民だけの立場に立って考えてい
たことを意味しない。観客は奈落の底にまで降りていくことはできないし、
〈地球儀〉の中心を通って天へと昇ることもできない。
演出家は、観客に見せてはいけないものは決して見せないものだ。観客
が眼前に観るものは、地上の舞台と、〈地球儀〉の球体下部と、その間の
空中舞台で演じられるショーである。この限定された時空でのショーを通
して、見えざる世界への飛翔を可能にするのは、それはひとえに観客のひ
とり一人の独自の想像力にかかっている。
演出家ジラールが、はたして批評家としてのわたしの〈立場〉にも立
っていたかどうかは、「ZED」批評の完結を待つほかはない。