「ZED」を観る ドストエフスキー関係

「ZED」を観る(連載⑩)

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「ZED」のガイドブックより。ギー・ラリベルテ
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「ZED」を観る(連載⑩)
(初出「D文学通信」1207号・2009年08月14日)
「Souvenir Program」を読む(その⑧)
清水正
  「Souvenir Program」を読むと、わたしがショー「ZED」を観て批
評衝動に駆られた理由がすぐに了解できた。「The Creators」のひとたち
のコメントがどれもすばらしいのだ。順を追って検証(対話的検証)を進
めていきたいと思う。
まずはガイド&ファウンダーのギー・ラリベルテ
言葉を引用しよう。


世界に新たな太陽が昇り、
私たちは想像力のフロンティアでくりひろげられる
新たなる旅へ皆さまをご招待いたします。

ここで言う〈新たな太陽〉とは、わたしたちが通常の現実世界で恩恵に
授かっている自然の太陽ではない。それは〈私たち〉、つまり制作し演技
する者たちと、それを観、体験する観客たちの、まさに〈想像力のフロン
ティア〉に昇る〈新たな太陽〉なのである。それは現実以上の熱と光を発
し、人間をはるかに自由で幸福な状態へと導き、照らしだす〈太陽〉なの
か、それとも、それは或る限定された劇場内に昇る、束の間の美しい幻想
を抱かせるたけの人工的な太陽に過ぎないのか。
紙面右上にギーの人懐っこい暖かな笑顔がある。彼が製作者側の人間と
して、自信たっぷりに発見と冒険と成長の〈新たなる旅〉を観客に約束し
ているのは確かなようだ。ギーの笑顔の両眼には、苦難と悲惨に満ちた世
界を一度遍歴した者の祈りと温もりが感じられる。
運命を指し示すアルカナ(タロット)は、
私たちの目の前でさまざまに組み合わせを変えながら
「一緒に冒険にでよう」と呼びかけています。

タロットに人間の運命の諸相を見るということは、そこに描かれた図柄
から限りなく想像力を働かせる自由な精神の働きがなければならない。自
身の存在を一義的に固定化し、他者へと開かれた窓を心の内に持たない者
はやがて硬直化し萎びてしまう。タロットに登場するさまざまな人物やも
のに象徴的な多義性を感じる精神は、想像の世界を自在に飛翔し、内的宇
宙を豊穣なものへと変えることができる。
ゼッドがタロットの〈愚者〉からヒントを与えられたキャラクターであ
ったということはきわめて重要である。ゼッドはゼロ(0)であり、オー
(〇)である。彼は本来姿なき〈風〉であり、世界全体を包み込むところ
のオー(〇)である。世界を創始し、展開させ、幕を下ろし、さらなる創
世を約束する全能の存在である。この存在が一人の好奇心と冒険心に溢れ
た一人の〈聖なる愚者〉・ゼッドとして舞台上に現れ、さまざまなキャラ
クターと出会い、関係を結び、新たな世界の立会人としての役目を全うす
る。ゼッドは〈新たな世界〉の創造的〈語り手〉であり、その世界のすば
らしさを観客にアピールする宣伝マンでもある。
三人称小説において〈語り手〉の果たす役割は大きい。スケールの大き
い小説においては、〈語り手〉を〈無形の説話者〉(この言葉を最初に使
用したのは坂口安吾で、後にロシア文学者の江川卓はゼロの語り手という
言い方をした)として設定することは有利である。〈無形の説話者〉は限
りなく全能の神の視点を獲得している(あるいはそのような振りをするこ
とができる)。語り手が一作中人物として登場して来た場合、小説で語ら
れる世界は、その語り手の〈主観〉を通過したものとなり、神的な普遍性
を獲得することは不可能となる。
ドストエフスキーは『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』において〈アン
トン・г〉や〈私〉という一人物を語り手として設定したが、小説世界の
具体的な展開は〈神的な視点〉から書かれた場面が大半を占める。
ゼッドは言わば〈有形の説話者〉として舞台に登場している。ゼッドは
様々な個性的なキャラやカーニバル時空(祝祭時空)に立会うことを義務
づけられた登場人物であり、〈主人公〉とは言っても、常に独創的なキャ
ラのわき役に甘んじている。言い方を換えるなら、ゼッドは舞台の中央に
名目上は存在する〈主人公〉だが、実際においては不断にその周辺を忙し
く駆け回っていなければならない道化的キャラである。
「一緒に冒険に出よう」と呼びかけているのは誰なのか。ガイド&ファ
ウンダーとしてのギーなのか、それとも最初から観客席や舞台を自在に歩
き回り、観客をユーモアたっぷりに挑発し続けていた二人のクラウンなの
か。クラウンが書物のなかに吸い込まれた後は、ゼッドが、眼前に展開さ
れる〈夢と冒険〉の世界の〈旅人〉となって、観客一人一人の思いを体現
する者となっている。ゼッドは、観客一人一人の鏡像として、次々に展開
される〈新たな世界〉の発見者、立会人として、驚愕と歓喜を味わい、次
なる展開に熱い期待をこめて舞台狭しと駆け回る。
「ZED」を観た者にはすでに自明のことだが、ゼッドは〈新たな世
界〉を発見、成長するために舞台を駆け回っている存在であって、世界を
破滅させるために登場しているのではない。彼は対立した複数の世界を一
つに結びつけるという使命を帯びた〈聖なる愚者〉であり、その役割を全
うする。彼は身に包んだ白い衣装を黒の衣装に代えることはなかった。彼
は、悪魔の側につくことは許されない。彼は神と悪魔の両極に魂を引き裂
かれる存在であってはならなかった。彼は世界の調和のために、〈新たな
世界〉に現出し、その世界のすばらしさをアピールする。

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