「ZED」を観る ドストエフスキー関係

「ZED」を観る(連載⑨)

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「ZED」のガイドブックより
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「ZED」を観る(連載⑨)
(初出「D文学通信」1206号・2009年08月13日)
「Souvenir Program」を読む(その⑦)
清水正
「「ZED」の世界が『カラマーゾフの世界』に通底する 。
わたしが「ZED」を観て直観したのは、
「ZED」とドストエフスキーの作品世界との
根源的な共通性だったのであろうか。
ゼッドの相貌にはムイシュキン公爵と
アリョーシャ・カラマーゾフの相貌が
重なっているように見える。


人間の経験の真髄を謳い上げるこの叙情的な冒険物語の中で、以前は調和
のなかった二つの世界が、ゼッドを通じて、再び一つになるのだ。

この言葉を読むと、わたしの中では『カラマーゾフの兄弟』の最後の場面
が蘇ってくる。淫蕩三昧な日々を送っていたフョードルは、長男ドミートリ
イと妖艶な女グルーシェンカをめぐる骨肉の争いの末にスメルジャコフによ
って殺されてしまう。ゾシマ長老の死後の死臭によって信仰心をぐらつかせ
たアリョーシャはグルーシェンカの純粋無垢な精神に触れて再生する。「神
がなければすべては許されている」という思想をスメルジャコフに吹き込ん
だイヴァンは、「父殺しの本当の犯人はあんただ」とスメルジャコフに言わ
れて狂気に陥る。フョードルに妻を寝取られたスネギリョフは、実はフョー
ドルの子供である息子イリューシャの死に慟哭する。見習い修道僧アリョー
シャの信仰は、今後幾多の経験のなかで絶えず試みられていくことになろう。
しかし、取り敢えず『カラマーゾフの兄弟』一巻は幕を閉じた。作者ドス
トエフスキーは次のように書いて、あの世へと旅立っていった。ここでは最
終場面の一部を引用しておく。
「ああ、子供たち、ああ、愛すべき親友たち、人生を恐れてはいけませ
ん! 何かしら正しい良いことをすれば、人生は実にすばらしいのです!」
「そうです、そうです」感激して少年たちがくりかえした。
「カラマーゾフさん、僕たちはあなたが大好きです!」どうやらカルタシ
ョフらしい、一人の声がこらえきれずに叫んだ。
「僕たちはあなたが大好きです、あなたが好きです」みんなも相槌を打っ
た。多くの少年の目に涙が光っていた。
「カラマーゾフ万歳!」コーリャが感激して高らかに叫んだ。
「そして、亡くなった少年に永遠の思い出を!」感情をこめて、アリョー
シャがまた言い添えた。
「永遠の思い出を!」ふたたび少年たちが和した。
「カラマーゾフさん!」コーリャが叫んだ。「僕たちはみんな死者の世界
から立ちあがり、よみがえって、またお互いにみんなと、イリューシェチカ
とも会えるって、宗教は言ってますけど、あれは本当ですか?」
「必ずよみがえりますとも。必ず再会して、それまでのことをみんなお互
いに楽しく、嬉しく語り合うんです」半ば笑いながら、半ば感激に包まれて、
アリョーシャが答えた。
(原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』エピローグよ
り)
ここでアリョーシャは間違いなく、対立する諸世界を一つに繋げる役割を
果たしている。「カラマーゾフ万歳」という言葉は、文字通り〈人間のあら
ゆる側面〉を肯定し賛美する言葉である。ニーチェは、アポロン対ディオニ
ュソスを包むところの大いなるディオニュソスという言葉で、あるがままの
全世界の事象を力強く肯定した。イヴァン・カラマーゾフは、神そのものの
存在は認めたが、神の創造した世界は不条理に満ちているとして、その世界
への入場を拒んだ。しかし同時にイヴァンは、この不条理に満ちみちたこの
世界に対して「事実にとどまるほかはない」という諦めにも似た認識を示し
た。
ニーチェの永遠回帰と全世界のディオニュソス的肯定、キリスト教のアー
メン(神の御業のままに)、仏教の輪廻転生、イヴァンの「事実にとどまる
しかない」、そしてアリョーシャを囲んだ子供たちの間から発せられた「カ
ラマーゾフ万歳」・・・これらの声が今、一つになってわたしの耳に聞こえ
てくる。
「天と地の狭間で宙吊りになっているこの謎に満ちた世界」を彷徨い、挑
発し、誘惑し、誘惑され、さまざまな試みに遭いながら、ニーチェのように
大いなるディオニュソス的肯定の言葉を発することができるのか。
『カラマーゾフの兄弟』が書かれてから百年以上の歳月が流れた。
その後人類は二回の世界戦争を起こした。戦争の悲惨の最中で、ゼッドは、
わたしは、大いなる現実肯定の言葉を発することができるのだろうか。
 フランクルの『夜の霧』を読みながら、
アウシュビッツの地獄を想像世界で体験しながら、ゼッドは、わたしは人間
のすばらしさと、人間の卑劣・愚劣、そのすべての側面を肯定することがで
きるのだろうか。
 かつてわたしは最初のドストエフスキー論の著作で、イヴァン・
カラマーゾフの「事実にとどまるほかはない」という言葉にのみ共鳴
できると書いた。大いなる痛み、大いなる苦しみを味わっている者の前で、
あらゆる事象を肯定できる〈声〉を発することはできない。ゼッドが〈鏡〉
をかざしてわたしに迫ってくるのであれば、わたしもまた鏡を貫いてゼッド
の〈本当の姿〉を映し出すことになろう。
それにしても、「ZED」の解説者の最後の言葉
「友よ、生きることを恐れるな」(Fear not to live,my friend?)は、
アリョーシャの言葉「ああ、愛すべき親友たち、人生を恐れてはいけません!」
と見事に重なる。
  「カラマーゾフ万歳!」は「「ZED」万歳!」の声に重なる。アリョー
シャは最後に笑いながら言う「さ、行きましょう! 今度は手をつないで行
きましょうね」と。コーリャは感激して絶叫する「いつまでもこうやって、
一生、手をつないで行きましょう! カラマーゾフ万歳!」と。少年たちは
全員がその叫びに和した、と書いてドストエフスキーは『カラマーゾフの兄
弟』に幕を下ろした。
  わたしの中で、ショー「ZED」のエンディングの光景が鮮やかに蘇る。
すべてのアーティストたちが中央舞台になだれ込み、手を繋ぎ、観客の万雷
の拍手に応える。
 「シアター東京」の劇場内に「「ZED」万歳!」「カラマーゾフ万歳!」
「シルク・ドゥ・ソレイユ万歳!」の声が響きわたる。
   わたしが「ZED」を観て直観したのは、「ZED」とドストエフスキー
の作品世界との根源的な共通性だったのであろうか。ゼッドの相貌にはムイ
シュキン公爵とアリョーシャ・カラマーゾフの相貌が重なっているように見
える。

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