2009
08.13

「ZED」を観る(連載⑧)

「ZED」を観る, ドストエフスキー関係

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「ZED」のガイドブックより
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「ZED」を観る(連載⑧)
(初出「D文学通信」1205号・2009年08月12日)
「Souvenir Program」を読む(その⑥)
清水正
「「ZED」の世界が『カラマーゾフの世界』に通底する
解説家は、ピエロにも似た詮索好きなゼッド、彼は「私であり、あなたで
ある」と断言する。続いて「ゼッドは、鏡をかざして私たちの本当の姿をそ
こに映し出し、人間のあらゆる側面と、人間がもつすべての知恵と愚かさと
を、すべての強さと弱さという形で表現する」と語る。


聞きようによっては実に恐ろしい言葉である。〈人間のあらゆる側面〉と
くれば、人間は創造的、発展的な側面のみならず、破壊的、頽廃的な側面を
も備えている。神を志向する人間が、同時に悪魔の唆しに乗ったりもする。
神の前に祈る人間が、憎悪と殺意を抱えて呪うこともある。日々の暮らしを
平凡に過ごしていた人間が、戦争に駆り出されて平然と敵の人間を殺したり
もする。
人間のあらゆる側面に徹底して照明を与えた作家にドストエフスキーがい
る。その代表的な作品『罪と罰』『白痴』『悪霊』『未成年』『カラマーゾ
フの兄弟』を読了した後で〈人間のあらゆる側面〉という言葉に直面すれば、
内面世界の奥深いところから戦慄が駆けのぼってくる。ドミートリイがアリ
ョーシャに向かって語った言葉を、未だ誰一人として否定できた者はいない。
ドミートリイは〈神に情欲を授けてもらった虫けら〉について語り、次の
ように続ける。
俺はね、この虫けらにほかならないのさ、これは特に俺のことをうたっ
ているんだ。そして、俺たち、カラマーゾフ家の人間はみな同じことさ。天
使であるお前の内にも、この虫けらが住みついて、血の中に嵐をまき起すん
だよ。これはまさに嵐だ、なぜって情欲は嵐だからな、いや嵐以上だよ!
美ってやつは、こわい、恐ろしいものだ! はっきり定義づけられないから、
恐ろしいのだし、定義できないというのも、神さまが謎ばかり出したからだ
よ。そこでは両親が一つに合し、あらゆる矛盾がいっしょくたに同居してい
るからな。俺はひどく無教養な人間だけれど、このことはずいぶん考えたも
んだ。恐ろしいほどたくさん秘密があるものな! 地上の人間はあまりにも
数多くの謎に押しつぶされているんだ。この謎を解けってのは、身体を濡ら
さずに水から上がれというのと同じだよ。美か! そのうえ、俺が我慢でき
ないのは、高潔な心と高い知性とをそなえた人間が、マドンナ(訳注 聖母
マリヤのこと)の理想から出発しながら、最後はソドム(訳注 古代パレス
チナの町。住民の淫乱が極度に達し、天の火で焼かれた)の理想に墜しちま
うことなんだ。それよりもっと恐ろしいのは、心にすでにソドムの理想を抱
く人間が、マドンナの理想をも否定せず、その理想に心を燃やす、それも本
当に、清純な青春時代のように、本当に心を燃やすことだ。いや、人間は広
いよ、広すぎるくらいだ、俺ならもっと縮めたいね。何がどうなんだか、わ
かりゃしない。そうなんだよ! 理性には恥辱と映るものも、心にはまった
くの美と映るんだからな。ソドムに美があるだろうか? 本当を言うと、大
多数の人間にとっては、ソドムの中にこそ美が存在しているんだよ・・お前
はこの秘密を知っていたか、どうだい? こわいのはね、美が単に恐ろしい
だけじゃなく、神秘的なものでさえあるってことなんだ。そこでは悪魔と神
がたたかい、その戦場がつまり人間の心なのさ。
(原卓也訳『カラマーゾフ
の兄弟』第三編「好色な男たち」三「熱烈な心の告白・・詩によせて」よ
り)
善、正義、倫理、道徳といった肯定的な側面は、悪の力によって、善悪
観念の磨滅によってその拠って立つ根拠をなし崩しにされる。ロジオン・ラ
スコーリニコフの非凡人の思想を、思想の次元で論破できた者はいない。ス
ヴィドリガイロフの淫蕩を、ルージンの功利主義を、ソーニャの売春を、マ
ルメラードフのアル中を誰も否定できない。
十九世紀ロシアの首都ペテルブ
ルクに降臨したムイシャキン公爵は、「真実美しい人間」の造形を作者によ
って意図されていたにもかかわらず、彼はナスターシャを殺害したロゴージ
ンの共犯者にとどまった。彼は現実の世界において何ひとつ奇蹟をおこすこ
とはできなかった。福音書に現れるイエスは、『罪と罰』で題材にされた
「ラザロの復活」のように、死んで三日もたった者を生き返らせる奇蹟を起
こすことができた。しかし、ムイシュキンは余命いくばくもないイッポリー
ト少年の結核を治す力さえ備えていなかった。
彼は対立する二(たとえばナ
スターシャとロゴージン、たとえばロゴージンとムイシュキン自身、たとえ
ばナスターシャとアグラーヤなど)を一に結合するためにではなく、二の対
立をさらに深め、最後には破滅に追いやるために、わざわざスイスの療養所
からペテルブルクに派遣されて来た、何か或る邪悪なる者の相貌を潜めてい
る。
新約の神イエス・キリストは愛と赦しを体現する者としてのみこの地上の
世界に降臨してきたとは思えない。「ゲラサの豚」のイエスは、一人の男に
封印されていた〈悪鬼ども〉をわざわざ開放している。彼はこの地上の世界
に平安をもたらすためにではなく、不幸と悲惨を、一を二に割る対立と抗争
をもたらすために降臨したきたようにも思える。
彼は超一流のスキャンダリ
ストであり、その破壊力を思う存分行使することのできる霊的存在であり、
同時に逮捕され、裁かれ、鞭打たれ、六時間の十字架上での人間的な苦痛に
耐えなければならなかった弱者でもあった。つまりイエス・キリストこそが
〈愚者〉の〈王〉であり、〈人間〉の姿を借りて地上世界に降臨した〈神の
子〉であったということになる。この両義的な存在であったイエス・キリス
トが〈白い衣装〉に身をまとったゼッドと重なって来るのは当然と言えよう
か。
『悪霊』のニコライ・スタヴローギンは完全に善悪観念を磨滅させてしま
っている。もはやこの青年にはゼッドの〈発見〉もなければ〈成長〉もない。
つまり〈人間のあらゆる側面〉を遍歴してきたニコライが対立する二を一に
結合させることができずに、虚無の直中に漂っているということこそが問題
となる。
ゼッドが「私であり、あなたである」なら、「鏡をかざして私たち
の本当の姿をそこに映し出」す者であるなら、彼もまたロジオン・ラスコー
リニコフと、スヴィドリガイロフと、ムイシュキン公爵と、ニコライ・スタ
ヴローギンと、そしてカラマーゾフの兄弟たちとの対話を欠かすことはでき
ないだろう。

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