魂を揺さぶる言葉、黒井千次と松浦寿輝の作品

清水正の文芸時評

哲学的問題や神学上の議論と等価な〈日常〉
作家は百年に一人出ればいい、十九世紀にトルストイとドストエフスキーの巨大な作家が二人出たので二十世紀は一人の作家も出なくていい、などと普段授業で言っていた者が、どういう巡り合わせか文芸時評をすることになった。小林秀雄は若い頃に文芸時評をやり、その後はもっぱら好きな作家を対象にして批評を展開した。わたしの二十代、三十代は専らドストエフスキー、四十代の十年間は宮沢賢治の童話を批評をしてきたから、言わば小林秀雄とは逆のことをすることになったわけだ。若い頃はドストエフスキー以外の小説など全く読めなかった。トルストイは三十歳を越えて漸く読めるようになった。日本人の書いた小説と言えば、二、三の作家を除けば大学で教えている学生の卒論制作ぐらいであったといっても過言ではない。そんなわたしが、まずは「新潮」に掲載された新年短編小説特集の十六編の小説を読んで、おや、日本の現代小説もあんがい面白いではないか、と思った。中にはじっくり時間をかけて批評してもいいなと思う作品もあった。
 
これから文芸時評を展開する上で、わたしが心掛けたいと思ったことをいくつか書き留めておきたい。取り上げる小説は、まずわたしの心(魂)に訴えかけるものがあること、評者の心をざわつかせ何か言葉に出してひとに読むことを促したくなるようなものとしたい。つまらない作品を一刀両断する批評の面白さもあるだろうが、原則的には魅力のある、色々な意味で興味深い作品を取り上げていきたい。限られた枚数の中で的確に筋を紹介し批評することは難しいが、なるべく平易な言葉を使って作品の魅力を浮上させたいと思っている。
 現代小説家のモチーフの一つに〈日常〉がある。世界貿易センタービルが自爆テロで崩壊した、その意味をさぐることよりも、どうやら自分が生きている狭い狭い日常的空間を舞台として、そこに生きる平凡な人間の心理や感情をさりげなく描くことの方に価値を置いているようだ。そこには壮大な哲学的問題や神学上の議論もない。換言すれば、そういった問題と等価なこととして〈日常〉が据え置かれているということだ。黒井千次の「隣家」に「アフガニスタンの戦火を巡る記事を読みながら、一向に内容が頭にはいらない。演説するブッシュ大統領の写真を眺めるうちに、ホワイトハウスにも隣家はあるのだろうか、と唐突な思いが頭を掠めた」という文章がある。黒井は十分に九月十一日の歴史的テロ事件を意識しながらも、あくまでも〈日常〉にこだわっている。隣家の老夫婦が外出して深夜帰宅するまでの一週間を、主人公の男は様々な妄想をして過ごす。テロ事件も様々な解きがたい謎を孕んでいるが、この主人公にとっては長年隣に住んでいる老夫婦の存在こそが、未知のもの、不気味なものとして浮上してくる。短い小説の中で、普通に生きている人間の、その〈普通〉の謎を浮上させる手際は見事と言える。老夫婦は本当に帰ってきたのか、小説の中ではっきりと記された〈帰宅の事実〉が、実は主人公の妄想ではなかったのかと、読み終えてまで、ふと読者に思わせるその工夫も手慣れた名手の技と見た。
 今回、わたしが最も面白く読んだのは松浦寿輝の「虻」である。〈わたし〉の饒舌な語りに載せて、松浦はかなり深く文学の深部に降下している。俯せに、腹這いにならないと眠れない主人公が、ある朝、一匹の虻が仰向けに引っ繰り返って死んでいるのを発見して、その姿は「まるで、何ものかに捧げられた慎ましい贄のようだった」と語る。主人公は河原枇杷男の「死ぬや虻死のよろこびは仰向きに」の俳句を引用し、「観察眼っていうけど、見てる人はちゃんと見ているもんだ。それにちょっと触れると、世界の全体が気味悪く振動するっていうような、小さな小さな細部をね、一点をね。ちゃーんと見ている奴がいる。怖いねえ」と語る。この言葉は文学の本質をさりげなく突いている。ものごとの細部に宿る神秘を凝視する眼差しのないものに小説を書くことはできない。さらに主人公は「虻みたいなつまらない虫けらだって、仰向けに死んで、恍惚として、悦びとともに、何かに自分を捧げているいるんじゃないですかね。何かにね、自分自身をね……」とも語る。このように語る主人公は語りの終わり近くで、自分が必ず「俯せになってくたばるだろう」と予言している。この短編小説の中には引用して紹介したい魂を揺さぶる言葉が溢れている。主人公が仰向けに死んでいる〈一匹の虻〉から、マンテーニャの「死せるキリスト」にまで連想を働かすその想像力には、作者松浦の類稀な才能を感じる。いずれにせよこの短編小説には〈俯せの死〉〈仰向けの死〉〈虻の死〉〈キリストの死〉〈わたしのキリスト観〉など、改めて時間をかけて検証したい問題がぎっしり詰まっている。
 松浦は「文学界」に「半島」、「群像」に「あやめ」も発表している。後者はトラックに轢かれて死んだ木原という男の語りによって構成されている。生を仮初の幻燈劇と見る自意識の堂々めぐりが、ドストエフスキーの地下生活者ばりの饒舌体で語られていて興味深かった。(「図書新聞」2002・1 ・19)

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