チェーホフ『退屈な話』を読む(3) …【老教授ニコライの肖像】

清水正のチェーホフ論

チェーホフ『退屈な話』を読む(3)
老教授ニコライ・ステパーノヴィチは自身の肖像を次のように描いている。
わが輩は、六十二歳になる老人で、頭はつるりとはげ、歯は総入れ歯、不治のtic 〔顔面神経痛〕を病んでいる。名前が輝かしく美しいだけ、それだけわが輩じしんはくすんで醜い。頭と手は衰弱のためにぶるぶるふるえ、首はツルゲーネフのある女主人公のようにコントラバスの柄ににて、棟はぺしゃんこで、背幅は狭い。話をしたり講義をしたりすると、口が横っちょへひんまがり、微笑を浮かべれば・・顔じゅうに老人じみた生気のないしわが走る。わが輩のみじめな顔つきにはおよそ印象ぶかいところはないが、tic を起した時ばかりは何かこう一種特別の表情があらわれ、それがわが輩の顔を見るすべての人に俊列な、どきりとする思いを呼び起すに違いない。・・曰く、『この先生、どうやら長かないな。』
ニコライ・ステパーノヴィチの肖像画は〈老教授〉のパロディではないかと思えるほどに、その醜さが誇張して描かれている。この肖像は、六十二歳の老教授が鏡に映った自分自身の顔や身体をそのまま報告しているというよりは、やはり老教授よりははるかに歳の若い作者チェーホフの残酷な眼差しがとらえた肖像と言った方がいいかもしれない。医学部で学んだチェーホフは、ニコライ・ステパーノヴィチのような老教授の一人や二人には日常的にお目にかかっていたのではなかろうか。わたしも、どちらかと言えば、学生の年齢よりははるかに老教授の方に近づいており、長生きすれば間違いなく彼のような身体的醜悪さを晒すことになるだろう。いや、今だってそう彼と変わりないかもしれない。
大学などに勤めていると、ここに描かれた老教授のような存在は確かに存在するように思えるが、しかしよく振り返ってみると、ニコライ・ステパーノヴィチのように見事に〈老教授〉になった存在はそうそう見当たるものではない。彼は自分を「六十二歳になる老人」と書いて、自分の老いぶりをいくぶんか誇張して表現しているが、今日の日本の〈六十二歳の大学教授〉で心の底から自分を〈老人〉と思っている者は稀であろう。まだまだ若い者には負けないぞ、などと思って年寄りの冷や水を自覚なしに垂れ流している者の方がはるかに多い。が、そうは言っても、十九世紀ロシアの老教授ニコライ・ステパーノヴィチは、百年の時代を超えて今日の老教授の姿をも的確に映し出していると言えよう。
講義のしぶりはあい変らず堂に入ったもので、昔と同様に二時間ぶっ通しで聞き手の注意を引きつけることができる。わが輩の熱のこもった態度、文学的な叙述の妙、ユーモアが、わが輩の音声の欠陥をけっこう隠してあまりあるが、その実、わが輩の声たるや、ひからびて妙にきんきんし、偽善者そっくりの歌うような節まわしである。一方、文筆のほうはだいの苦手で、わが輩の脳髄の文才をつかさどる部分が、がんとして働きを拒否してしまった。記憶力は衰える、思考は一貫性を欠くで、せっかくの思考を紙に書きつけるたびに、思考の有機的な結合に対する感覚を失ってしまったのではないか、構文も単調なら語句も貧弱でおずおずしているのではないかという気がする。多くの場合、わが輩が書くのは真に書きたいこととは違い、終りを書く時は冒頭の部分をきれいさっぱり忘れている。しばしばわが輩はありふれた単語を忘れ、かと思うと余計な文句やあらずもがなの挿入句を使うまいとして、いつも猛烈な精力をついやす、・・つまるところ、いずれも知的活動力の減退をありありと証拠だてているわけである。
さて、この文章を書いているのは「文章のほうはだいの苦手」という老教授ニコライ・ステパーノヴィチである。彼の手記という設定で書かれた『退屈な話』はチェーホフの代表的な作品の一つである。ということは老教授の書いた手記は〈作品〉として十分に価値のあるものということになる。読者としては、彼の「知的活動力の減退」をどこまで信じたらいいのか、なかなか微妙なところである。もしこの作品を老教授の手記ではなく、あくまでも語り手なり作者なりが老教授に成り代わって彼の内的外的生活を描写するという設定ならば、彼の「文章のほうはだいの苦手」も「知的活動力の減退」もそのまま信じられる。が、これほど説得力のある〈手記〉を書き記すことのできる老教授は文章力も達者、知的活動力もかなり旺盛ということになる。

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