2009
07.29

わが青春の一モメント─ドストエフスキーやつげ義春を読んでいた頃

つげ義春・関係, ドストエフスキー関係

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わが青春の一モメント─ドストエフスキーやつげ義春を読んでいた頃─①
(初出は『つげ義春の快楽』D文学研究会・1997年
 再録は『つげ義春を読め』鳥影社・2003年)
清水正

つげ義春の漫画を初めて読んだのは二十歳の頃である。
つげ漫画を紹介してくれたのは「ドストエーフスキイの会」の総会で
知り合った近藤承神子さんである。
もし記憶に間違いがなければ、わたしが近藤さんと最初に会った
のは、水野忠夫氏が「ドストエーフスキイの会」の例会報告をした
新宿厚生年金会館の会場である。
わたしは新聞の紹介記事で「トストエーフスキイの会」の存在を知り、
その日はじめて例会報告の会場へとかけつけた。
講演が終わった後に、わたしは最初の著書『ドストエフスキー体験』
(清山書房・一九七0年一月)を水野氏に進呈したのだが、
その際、近藤さんが
「わたしにもその本をおゆずりいただけないでしょうか」
と声をかけてこられ、
後日、拙著を郵送したのである。


わたしの処女出版『ドストエフスキー体験』は二十歳の時に『罪と罰』
『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』論をまとめて限定五百部として刊
行した。この本はあっという間に売り切れた。当時は、今と違ってドストエ
フスキーは熱狂的に読まれていた。
ついでに書いておけば、この本は大隅会館での「ドストエーフスキイの会
総会」の折に、小沼文彦氏に二冊、江川卓氏に一冊購入していただいた。こ
のとき、同じ本を二冊も購入する小沼氏を不思議に思ったが、後で伺ったと
ころ、氏は「本を二冊ずつ購入するのは当たり前ですよ」と言われたので、
ほう、研究者とはそういうものか、と妙に納得した。
  しばらくして、近藤さんは懇意にしていた赤羽にあった豊島書房の岡田富
朗氏にかけあって『ドストエフスキー体験』の増補改訂版を出す話をまとめ
てくれた。この改訂版は翌年、わたしが大学四年の時に『停止した分裂者の
覚書・・ドストエフスキー体験』一九七一年九月)として上梓される運び
となった。当初、本のタイトルは『ドストエフスキー体験・・停止した分裂
者の覚書』であったが、椎名麟三に『私のドストエフスキー体験』(教文館
・一九六七年)というタイトルの本があり、紛らわしいのでどうにかならな
いかという申し入れが岡田氏からあったので、急遽、サブタイトルとタイト
ルとを入れ換えて現行のものとした。 後から近藤さんに伺った話であるが、
近藤さんは豊島書房の岡田氏にずいぶん長いことつげ義春の本を出さないか
と薦めていたそうである。次いで近藤さんは、南北社から『内部の人間』を
刊行して文芸評論界に新風を吹きこんでいた秋山駿氏に注目し、彼の本を出
さないかと薦めた。が、どういうわけか岡田氏はその話には乗らなかった。
近藤さんの推薦が実現したのは、三回目、それも将来どうなることやらさっ
ぱり見当もつかないようなわたしの本であった。
『停止した分裂者の覚書』は予想に反してか、それとも予想通りと言おう
か、とにかく売れなかったらしい。しばらくしてこの本は神田の三茶書房に
ゾッキ本のようなかたちで平積みされていた。確か、最初は四百円ぐらいで
あった。定価千円の本が半額以下で置かれることは、著者にとってはたいへ
ん屈辱的なことであったが、その後、この本は五百円になり、七百円となり、
十五年ぐらいたって漸く定価の千円にまでなった。
  受講生の一人が古書店でアルバイトをしているのだが、彼の話によると昨
年のある古書目録に三千円で出ていたそうである。彼はさっそく入手しよう
と電話してみたが、あいにくと売れてしまっていたということである。つい
四、五年前まではよく早稲田の古本屋などでも見かけたものだが、近頃は本
当にお目にかかれなくなった。この本に関しては手紙や葉書で直接問い合わ
せを受けたりもするのだが、どうしても欲しいひとはやはりこまめに古本屋
を歩いてみてくださいというよりほかはない。
 ところで、この本に対するわたしの思い入れは異様に深い。現在わたしが
書いている本を何冊も読んでいる人でも、この本を読むと何か違った感触を
持つのではなかろうか。当時、わたしは憑かれたようにドストエフスキーを
読み、憑かれたようにドストエフスキーについて書いていた。

近藤さんは当時「ドストエーフスキイの会」の会員で、もちろんドストエ
フスキーの熱心な読者であったが、それ以上に坂口安吾やつげ義春に熱中し
ていたようである。。特につげ義春に対する思い入れは深く、しばらくする
と近藤さんはわたしに青林堂版『つげ義春作品集』(著者サイン入・一九六
九年四月)をプレゼントしてくれた。
 わたしはこの本によってはじめて、つげ義春の漫画に出会うことになった。
それから、わたしは何回も何回も、繰り返し繰り返しつげ義春の漫画を読み
続けてきた。
 わたしはつげ義春に関しては一ファンでいることに充足していたので、彼
の漫画について一本を上梓することなど考えたこともなかった。ところが、
「江古田文学」22号(一九九二年八月)で最初のつげ義春特集を組んだ後、
近藤さんから「あなたのつげ義春論がなかったことが残念」という葉書をい
ただいた。はじめは、オヤッと思っただけであったのだが、それなら書いて
みようか、という気持ちにもなった。
  わたしの最初のつげ義春論である『つげ義春を読む』(現代書館・一九九
五年十一月)は平成五年十二月二十二日の午後から毎日のように書きすすめ、
半年後に書き終えた。出版者の意向もあって全一二00枚の内九00枚分を
刊行することになった。幸いこの著書は好評だったので、第二弾が企画され
た。最初の本で収録できなかった『やもり』『海へ』『少年』『別離』『大
場電機鍍金工業所』についての作品論と、新たに書き下ろした『四つの犯
罪』『おばけ煙突』『腹話術師』『海辺の叙景』『紅い花』論を加えて刊行
した『つげ義春を解く』 (現代書館・一九九七年七月)がそれである。

二十歳当時の体重は四十三キロ。身長は一メートル七十三あるので、それ
こそ骨に皮がついているだけのような痩せ方であった。冗談でなくよく生き
ていたと思うほどである。しかもその身体で大学から歩いて三十分(当時は
競歩走者のような歩き方をしていたので十五分ぐらいしかかからなかった)
ほどの所にあるダンボール工場でアルバイトをしていた。
 その工場の労働者たちは鹿児島県出身の者が多かった。中学を出るとすぐ
に集団就職でこの工場に来たらしい。みんな肺をやられていた。西日が射す
と、工場内の粉塵が恐ろしいほどに宙を舞っていた。休み時間に「今年はそ
ろそろ国に帰ろうかな」と言う人がいる。「毎年帰らないんですか」と聞く
と「もう、五年帰ってないな」と、遠くを見るような顔をして呟くように
言う。「子供も大きくなっただろうな」と言って黙って薬を呑み込んでいる。
彼が休み時間に決まって言うセリフは「おれは昔は胸囲一メートルあってな
……」。あれからもう二十八年もたつというのに、このセリフを言う彼の顔
が鮮明に蘇ってくる。
   朝でも昼間でも工場長の目を盗んでは焼酎を飲んで働いていた元大工のオ
ッさんは、新しくアルバイト学生が入ってくると小姑的陰湿さでいじめまく
っていた。何しろダンボール工場の作業は単純である。印刷、裁断、ホチキ
ス、梱包だけである。アルバイトがやるのは裁断時のダンボールのミミ折り
と、そのたまったダンボールを次の作業工程の場所まで運ぶこと、それに製
品となったダンボールを重ねて縛ることだけである。
  この元大工のオッさんが自慢できる唯一のことは腕っぷしの強いことであ
る。彼は酒を飲んでバカ力を発揮し、裁断されたダンボールを厚さ一メート
ルぐらい平気で担ぎあげてしまう。何しろ彼の生きている意味のすべては担
ぎあげるダンボールの量にこめられているから、それは鬼気せまるものがあ
る。アルバイト学生は、とうぜんのことながら少しづつ何回かに分けて運ぼ
うとする。が、力自慢のオッさんにはこれが許せない。気の毒なことにこの
中央大学の学生アルバイトはおもっいきり厭味を言われることになる。
どういうわけかこのアルバイト学生はしょっちゅう怒られたり、工場
の労働者の中で一番歳の若い男(おそらく二十歳ぐらいだったろうか)にナ
イフを持って追いかけられたりしていた。このぶっそうな若い男がある朝、
事務所に使っていた家の廊下にすわって誰に言うともなく呟いた、「オッさ
ん、昨日の夜、マスこいてた」。
  オッさんは寡黙な工場長の目を盗んで焼酎をかっくらい、新米のアルバイ
ト学生をいびりつづけ、そしていつもいつも執拗に女の悪口を吐いていた。
罵りの言葉ではもっとも汚いバカアマとか、とてもここでは書けないような
罵詈雑言を吐いていた。この女嫌いのオッさん、ある日とつぜん女の悪口を
言わなくなった。どういうことかと思っていたら、さっそくぶっそうな若い
兄ちゃんが教えてくれた。「オッさん、このあいだ見合いしたんだ」。なる
ほどなるほどと思っていたら、何日かして再びオッさんが女の悪口を言いだ
した。
 工場の裏手にはどぶ川が流れていて、小さな橋がかかっている。それは、
かぐや姫のヒット曲「神田川」をテレビで特集したとき、そこに映しだされ
ていた光景とよく似ていた。午後三時の休み時間にお茶と甘菓子がひとつ出
る。食べ終わると、その小さな橋に出てどぶ川の流れを漠然と眺めていたり
する。見合いしたばかりのオッさんが煙草のけむりを鼻からふきだしながら
そのどぶ川を静かに眺めていた。その寡黙な後ろ姿はまるで高倉健だった。
  ぶっそうな兄ちゃんが言っていた。どういうわけか、この兄ちゃん、オッ
さんのことをよく知っていた。オッさんは昔結婚していて、二十歳ぐらいに
なる娘が一人いる。オッさんは腕のいい大工でけっこう幸せな生活をしてい
た。が、どういうわけでか妻と娘とわかれなければならなくなった。オッさ
んの酒が原因なのか、それとも妻がいい男をつくってオッさんを捨てたのか。
それはだれもわからない。
 力自慢のオッさんと同じ部屋に寝起きしていたぶっそうな兄ちゃんは、オ
ッさんのマスかき現場や、オッさんの昔話なんかをそれとなく報告してはす
ぐに、その場を離れていってしまう。よくこの兄ちゃんは、少し離れた所に
ひとり座って、愛用のナイフで木の枝をいつまでもいつまでも削っていた。
この兄ちゃん、自分のことは一言も語らなかった。
  朝、工場につくと、必ず新聞を読んでいる小太りの男がいて、「・・のこ
と知っているか」とアルバイト学生に聞く。「知らない」と答えると、ふん
ふんと妙に納得した顔をしている。
  結核の手術で胸に大きな傷跡を持つ長身の男は(何しろ夏は異様な蒸し暑
さなので、男たちは全員上半身裸で作業をする。もちろん、冷房などという
気のきいたものは設置されていなかった)、工場長以上の寡黙な男で、わた
しは断続的に一年半ばかりこの工場で働いたが彼が口をきいているのを見た
ことがない。彼の弟は東京外国語大学の学生で、夏休みにはアルバイトで来
ていた。兄とは全く性格が反対で、工場前の道をきれいな女の人が通ったり
すると、この人アホかいなと思うほど恥も外聞もなく口笛を吹いたりした。
しかし、この軽薄な弟が兄を語る時には妙にしっとりしていた。「兄貴が結
核までして学費をかせいでくれた」。
 寡黙なこの男は、見合いして嫁さんを貰った。嫁さんも工場で働くように
なった。工場で働く女性は彼女だけなので、みんな(オッさんとアルバイト
学生は例外)冗談を言ったり、お尻を触ったりする。そのたびに彼女は笑い
ながら「いやらしかね」を連発する、わたしが唯一おぼえた鹿児島弁がこの
「いやらしかね」。
昼の時間は十分ほど歩いた食堂で食事をする。当時の昼のテレビは前田武
彦が司会する番組が人気で、ちょうどコント55号が売り出してきた頃で
ある。バイト料は一時間百円、わたしは好きな日、好きな時間働けばいいと
いう条件が気にいってずっと続けていた。

時代は政治的季節、わが日大芸術学部もその例にもれず、連日デモを繰り
返していた。授業は行われず、校舎も活動家によって封鎖された。わたしは
ノンポリ中のノンポリ、授業がなければダンボール工場に通っていた。大学
前の路地に何十人もの機動隊が潜んでいたこともあったが、わたしは平然と
その前を歩いて工場に通った。
 わたしが大学に入学して入ったクラブは「文学クラブ」、当時は今の中講
堂の前あたりに臨時の部室が作ってあって、授業の合間に部員がその部屋
にたむろしていた。広さは畳二畳分もなかったのではなかろうか。とにかく
汚く狭く、木作りのベンチ以外何もなかった。授業で記憶に残っているのは、
入れ歯をガチガチいわせて何をいっているのかさっぱり分からない老教師の
授業のみ。休講も多く、何をしに大学に入ったのかさっぱり分からなかった。
授業がないので部室で煙草でもふかしているよりほかはなかった。先輩のひ
とりが「ここを大学だと思っちゃいけないよ」と真面目な顔で言ったのを妙
にはっきりと覚えている。それからしばらくして世に言う大学紛争がはじま
った。
 「文学クラブ」では機関誌を出していた。紛争前に一号だけ発刊した。わ
たしはこの機関誌に最初のドストエフスキー論を書いた(十枚位は書いたの
だろうか。確かな記憶はない)。この機関誌、わら半紙のような粗末な紙を
使って作成してあったが、とうの昔になくしてしまった。
  紛争が始まった頃、第一回目の「文学クラブ」の会合があった。江古田の
飲み屋の二階で宴会が行われたと記憶するが、鮮明に覚えているのは先輩部
員のほとんどが芸闘委のメンバーで政治の話ばっかりしていたことである。
たぶん酔っぱらっていたと思うが、「政治の話じゃなく、文学の話をしよ
う」と言った記憶がある。先輩たちから見れば生意気な奴に見えただろう。
  真っ黒なサングラスをかけたキザな先輩が「きみは何をやってるの」、わ
たし、ぶっきらぼうに「ドストエフスキー」、キザ先輩「ドストエフスキー
って、小林秀雄がやってるじゃない」。当時、ドストエフスキーと言えば
小林秀雄、小林秀雄と言えばドストエフスキーだった。

誰でもそうだろうが、青春時代に出会った人間は忘れがたい。
大講堂でのマンモス授業の折、最前列に座ったわたしの右隣にNKがいた。
彼は二、三十枚の原稿用紙に書いた小説をわたしに見せた。それは中学生位
のおませな少年が隣家に住む人妻と関係を持つというポルノまがいの小説だ
った。NKは寡黙な男で、いつもサングラスをかけていて笑った顔など一度
も見せなかった。彼は一月ほどダンボール工場でわたしと一緒に働いたこと
がある。一週間ほど働いて金が手にはいると、彼はすぐにトルコ風呂(今の
ソープランド)に行く。ある日、黙ってトルコ嬢の名刺を見せてくれたこと
がある。トルコ嬢と馴染みであることが、彼にとってはひとつの自慢だった
のだろうか。
 初夏のある夜、わたしは彼と二人で工場を出た、その帰り道でのことであ
る。夜になってもサングラスをはずそうとしないNKに向かって「なんでい
つもサングラスなんかかけているんだい」と聞いてみた。彼はぼそっと呟い
「世界がいつも黄昏時に見えるから」。
  それから三年が過ぎ、わたしたちは卒業をまじかにひかえていた。二階の
文芸棟のテラスから中庭を眺めているわたしに向かって、NKが静かに歩み
寄って来た。彼の髪型は眩しいほどのリクルートカット、眼鏡はまるで優等
生がかけているような透明ガラスのものにかわっていた。「おれ、就職きま
ったから」そうひとこと言って、彼はわたしの前から姿を消した。
  あれからもう二十五年がたつ。彼が今どういう生活をしているのか、わた
しはまったく知らない。
  七、八年前だったろうか、校友会会報の記事にNKの名前があった。彼は
二十年近くもたってとつぜん芸術学部校友会の総会に顔を出したのだ。わた
しは当時、校友会の学内常任理事であったにもかかわらず、総会をいつもさ
ぼっていた。NKの名前を発見した時にはさすがに総会を欠席したことを悔
やんだ。
  文学クラブの機関誌に「鬼瓦」という小説(十枚あるかないかの短編)を
書いた同級生がいた。鬼瓦が雨に濡れて哀しい、といったばからしいほどシ
ンプルな小説で、忘れようにも忘れられない作品である。彼は大学紛争がは
じまるとすぐに芸闘委に参加、積極的に運動に踏み込んでいった。彼は「革
命が成就した後に文学をする」と言っていた。
  紛争は瞬く間に鎮圧された。大学はあたかも何もなかったかのように授業
が再開された。学生は学生証を提示しなければ登校を許されなかった。彼は
とうぜんのこと、学生証提示は大学当局による不当な弾圧だとしてそれを拒
否した。彼は除籍処分になった。大学近くの喫茶店で彼が二、三人の仲間と
たむろしているのを何回か見たことがあるが、一度も口をきいたことはない。
そのうち彼のすがたは完全に江古田の街から消えた。
 三年浪人して文芸学科に入学、文学クラブに所属して唯一の小説「鬼瓦」
を発表、大学紛争(もちろん彼に言わせれば闘争)にかかわり除籍処分(も
ちろん彼の側から言えば自主退学)。彼の鬼瓦のような大きな不精髭の顔は
ときたまわたしの脳裏をかすめていく。
  大学四年のある日、わたしは友人のYKの下宿を訪ねようとしていた。大
学前の路で同級生の男に会った。どういうわけでかわたしはこの男(名前は
当時から知らなかった)を誘った。この男もNKと同じく寡黙であった。行
きの電車の中で、おそらくわたし一人が一方的にしゃべり、彼はもっぱら聞
き役に回っていたのだろう(わたしはたいていの場合、相手を聞き役にして
しまうのである)。
  YKの部屋でわたしたちは、と言ってもわたしとYKの間でだが、ドスト
エフスキーを語り、アルベール・カミュを語り、ロブ・グリエを語り、ラン
ボーを語り、ル・クレジオを語り、詩を熱く語った。帰りの電車の中で、寡
黙な同級生は「おれは今まで何をしてきたんだろう」と呟いた。その呟きが
あまりにも寂しくわたしの耳に響いた。わたしは彼の名前を知らず、顔さえ
覚えていない。が、この一言を忘れることはできない。


ダンボール工場で働いた金で、古本を買い、喫茶店に入ってそれを読む。
一杯のコーヒーと煙草と古本・・これが何よりも幸せな束の間の時。買いた
い本を、やっと手に入れた時の快感はなんとも言えない。が、わたしが四十
三キロの身体に笞うってダンボール工場でアルバイトを続けたのは、実は自
分の本を出したかったことにある。十七才の時にドストエフスキーの『地
下生活者の手記』を読んで以来、わたしはドストエフスキーにとり憑かれて
しまった。大学に入ってからはもっぱらドストエフスキーの作品について批
評し続けた。まず最初に本格的にとりかかったのは『白痴』についてである。
 当時、何を、どのように書けばよいのか、まったく見当もつかないような
状態であったが、とにかく『白痴』について書かれた代表的なものには眼を
通すことにした。ベルジャーエフの『ドストエフスキーの世界観』、グロス
マンの『ドストエフスキー』、カーの『ドストエフスキー』、それに日本の
ものでは小林秀雄の『白痴』論である。闇の中を手さぐりしながら一歩一歩
あゆんでいったという感じである。わたしの最初の『白痴』論は七十枚ほど
書きあげたが、その当時のわたしにとって原稿用紙七十枚はずしんと重かっ
た。
 『白痴』に関して書かなければならないどのような必然性があったのか。
当時わたしはそんなことに思いをよせる余裕もなかった。ただ書かずにはい
られなかった。おそらくわたしに書くことを促したのは〈失恋〉である。体
重が四十三キロに激減したのもその直接的な原因は〈失恋〉である。〈女と
は何か〉この問いがわたしの永遠のテーマとなったのだ。
  〈女とは何か〉・・永遠の愛を誓いながら、ある日とつぜん心がわりして
しまう女とはいったい何なのだ、ひとりの女がわたしの前から去っていった
時、わたしの中で〈言葉〉はとめどなく雪崩現象を起こして崩壊していった。
「言葉だ、言葉だ、言葉だ」シェイクスピアのことばが深く胸に響いた。
  「わたしはもうおしまいになってしまった人間なんですよ」・・ラスコー
リニコフにお前はいったい何者なのだと問われたとき、ポルフィーリイはこ
う答えた。わたしはすでに二十歳にしてポルフィーリイに化身したつもりで
ドストエフスキーを読んでいた。一度「おしまい」になってしまわなければ、
批評などできない。ドストエフスキーを読み、ドストエフスキーの作品につ
いて論じることは、自分が「おしまいになってしまった人間」であることを
証明することでもあったのだ。
  わたしは〈ポルフィーリイ〉にでもなったつもりでナスターシャ・フィリ
ッポヴナを分析批評してみたかったのであろうか。ロゴージンやトーツキ
イを翻弄するナスターシャの気まぐれを通して、わたしは〈女〉を検証しよ
うとしていたのだろうか。
  『白痴』論を書き終えた後、わたしは矢継ぎ早に『カラマーゾフの兄弟』
論・百三十七枚、『悪霊』論・九十枚、『未成年』論・七十枚、そして『罪
と罰』論・七十枚を書き終えた。ドストエフスキーの作品論を書き続け、ダ
ンボール工場でバイトをし続けてわたしの大学一年は終わろうとしていた。

  が、本を出版する費用はまだ足りなかった。所沢駅からバスで三十分のと
ころにゴム工場があって、そこでアルバイト学生を募集していた。そこは当
時としては破格のバイト料で一時間二百五十円であった。わたしはそこで、
袋に詰められた金具を数える仕事をした。一袋に金具がいくつ入っているか、
それを五時間も六時間も数えるだけの仕事である。隣の仕事場には精神を病
んだ早稲田の学生がリハリビでわたしと同じような仕事をしていた。
  リハリビ学生と一緒の仕事場に、ひとりの若い女性の工員がいた。このひ
とはおそらくまだ十代だったと思う。とにかく可愛らしい顔だちの女性であ
った。わたしは〈失恋〉して以来、自分を「おしまいになってしまった人
間」で、もう二度と恋などしないだろうと思っていた。ところが、その女性
を眼にするだけでわたしの胸はときめいてしまうのである。ときめく胸の鼓
動、それを妙に冷静に眺めている自分がいる。〈胸の鼓動〉と〈意識〉が一
致しない。そのころわたしは水原弘の「黒いはなびら」が日本一うまく歌え
る男だと思っていた。
  帰りの送迎バスの中でその女性と二言三言、話す機会があった。「大学で
何してるの」「ドストエフスキー」「えっ、ド、ドス、ド、ドなに?」わ
たしはこのとき、ドストエフスキーは日本人にとってそれほど発音しやすい
名前ではないことを知った。ましてやフョードル・ミハイロヴィチ・ドスト
エフスキーなんて……。

我孫子の自宅から所沢郊外のゴム工場まで、往復五時間かけたバイトをど
のくらい続けたのか。確かな記憶はないのだが、一カ月ぐらいだったろうか。
が、いずれにしてもそれでも本出版の費用には足りなかった。
 我孫子駅で降りる。階段をあがる。ふと眼をあげると、そこに美しいスラ
ッとした二本の脚があった。当時はミニスカートが流行っていた。こんなに
美しい脚のひとがいるのか、と思いながら階段を昇りきって、そのひとの後
を歩いていると、その後ろ姿がどこかで見覚えがある。声をかけると同じ中
学、高校に通っていたIKだった。IKとわたしは、中学一年のとき隣同士
の席であった。IKは脇に本を抱えていた。「なに読んでるの」「『カラマ
ーゾフの兄弟』」
  IKは駅前の不二屋でケーキを買う。その後、我孫子で一軒しかない喫茶
店に入り、話す。『罪と罰』の話を一方的に三時間ぐらい話して店を出る。
家の方角が違うので、そこで別れようとしたら、IKの新築した家はわたし
の家と同じ方向で、しかも歩いて二分ぐらいの所にあった。
 IKと出会う前、わたしは『青春の終わり』という小説を書いていた。が、
IKとつきあうことになったので、この小説は未完成のまま放置されて今日
に至っている。
  わたしの最初の本『ドストエフスキー体験』は一九七0年一月に出た。発
行所になっている清山書房は私の名字の清と友人のYKの名字の山を繋げた
ものでYKが名付けた。本は土電印刷という高知の印刷所で作ってもらっ
た。限定五百部。本が家に届いた日、わたしはIKのいる前でダンボール箱
を開けた。わたし自身が画いた表紙絵のドストエフスキーの顔が眼に眩しか
った。

思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯氣は今いづこ
雲の間に月はゐて
それな汽笛を耳にすると
竦然として身をすくめ
月はその時空にゐた
それから何年經つたことか
汽笛の湯氣を茫然と
眼で追ひかなしくなつてゐた
あの頃の俺はいまいづこ
今では女房子供持ち
思へば遠く來たもんだ
此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであらうけど
生きてゆくのであらうけど
遠く經て来た日や夜の
あんまりこんなにこひしゆては
なんだか自信が持てないよ
さりとて生きてゆく限り
結局我ン張る僕の性質
と思へばなんだか我ながら
いたはしいよなものですよ
考へてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔戀しい時もあり そして
どうにかやつてはいくのでせう
考へてみれば簡單だ
畢竟意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさへすればよいのだと
思ふけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯氣や今いづこ

暗唱していた中原中也の詩(「頑是ない歌」)を低く小さく口の中で呟き
ながら、わたしはダンボール工場からの帰り道を急いでいた。何かを追うよ
うに、何かに追われるように、わたしは急いでいた。

時代は大学紛争で沸き返っていたが、わたしの時代に対する目は冷えきっ
ていた。わたしはヘルメットとゲバ棒で革命が成就するなどとは思っていな
かったし、彼ら活動家の余りにも無邪気な考え方に歩調を合わせる気など微
塵もなかった。
  活動家など馬鹿ばかりがなれる、馬鹿でなければ行動を起こすことはでき
ない、一杯のお茶が飲めれば世界なんぞ滅びてもいっこうにかまやしない…
…十七才でドストエフスキーの地下男の洗礼を受けて二十歳になった男が、
どうして単純極まる革命幻想になど酔うことができようか。マルクス、エン
ゲルスの「共産党宣言」などは中学一年生あたりが読んで共感するのならま
だしも、二十歳にもなって大真面目に読んでいるのはみっともない。
 悪は外部にのみあり、社会制度を整備すれば悪は完璧に封じ込めるなどと
考えること自体が幼稚すぎる。悪は人間の内部にこそ巣くっており、人間は
この悪を善などよりはるかに愛しているのである。善ばかりが大きな顔をし
てこの世界を闊歩しはじめたらどうなるか。人間としてのまともな感情、美
を愛し、芸術に惹かれる魂を持ったすべての人間たちは、そんな善などすぐ
さま放り投げてしまうに違いない。この世に、万人が幸福だと思えた社会は
存在しなかったし、今後も存在しない。


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