寺山修司・関係

五十嵐綾野さんの寺山修司論(連載⑭)

t2.jpg


寺山修司と青いサンダル
 五十嵐 綾野

 寺山修司は靴を履かない。その代わりに愛用していたのは、デニム素材の青いサンダルだ。いつでもどこでも、海外に行った時にさえ履き続けた。サンダルといってもビーチサンダルのようなものではない。このサンダルのかかと部分は約10センチ。ぽっくりのような形をしている。寺山の身長は166センチだったと言われているので、176センチの目線で世界を見ていたことになる。周囲の人にも「世界が違って見えるから。」という理由でサンダルをすすめていたという。
 「ファッションは足もとに表れる」と言われるように、男女に関係なくファッションに興味がある人にとって、靴は大きなポイントになる。その時の気分や状況によって靴を履き替える。中には履くことよりもコレクションに情熱をかける人もいる。街を歩いていて、髪型やメイク、洋服はお洒落にしているが靴まで行き届いていない人が意外といる。
 靴のほとんどは皮や布で足をしっかり固定している。それに対して、サンダルには固定しているのは靴底ぐらいで、足全体を完全に覆っていない。窮屈さを思えば、サンダルの方が楽である。靴にまつわる風習も存在している。アラブでは靴で叩いたり、靴を投げつけたりすることは最大の屈辱を表す。記者会見中のブッシュに、イラク人の記者が靴を投げつけた事件が昨年大きく報道された。靴が示していることは、履物だけではないということだ。
 寺山は『靴の民俗学を読む方法』の中で靴に対して、マザーグースの童謡を引用しながら「小さく窮屈なマイホームの喩であり、せせこましい自分だけの固定観念の象徴」と語っている。靴にはどうしても窮屈さが付きまとう。性的な象徴でもある。合わない靴を履いた時の痛みは格別だ。痛くなったら、ひたすら痛みに支配される。それこそ、脱ぎ捨てて放り投げたくなる。それでも裸足で歩くことはできない。だから、泣く泣く家に帰ることになる。家に帰れば、この痛みから解放されるという一心で帰る。ここには靴=家の法則がある。
 寺山は自由でありたいために、靴を履かないのかもしれない。靴にそれほどの呪縛を感じてしまうのも、寺山の心理状況がギリギリであることを示している。世の中では自分にぴったりの靴を探そうとする人の方が多いだろう。ところが寺山は探すことをせずに、初めからサンダル履きでいることを選んだ。家の呪縛という理由からサンダルを履いているわけではない。かかとの10センチ。ここにも何かがありそうだ。
 10センチ違うとかなり視界は変わる。私は10代の頃、厚底靴しか履かない時期があった。この厚底靴というものは、ハイヒールとは違った履き心地である。10センチ以上ある厚底靴をゴツゴツいわせながら、平気で走り回っていた。自分でも驚くことに、足に疲れを感じない。しかし、今は全く履いていない。厚底靴では怖くて歩けないのだ。嫌いになったわけではない。履きたくても、足が受け付けない。体が変わってしまったのか、心が変わってしまったのか。少し寂しい気持ちだ。
 寺山には大柄のイメージがあったが、裏にはかかと10センチのサンダルがあった。人の上に立つには大きい体つきの方がいいかもしれない。海外ではなおさらだ。それ以上でもそれ以下でもない、この微妙なかかとの目線に寺山は存在している。あるいは、ただの身長コンプレックスだった可能性もある。
 靴は体の一部である。ぶかぶかの靴を履いて歩くことは、体にもよくない。自分にぴったりの靴を履いて、しっかりと地面を踏み締めて歩くことが大切である。それはよくわかる。だからといってサンダル履きで生きた寺山を批判しようとは思わない。強い意志さえあれば、靴だろうがサンダルだろうがしっかり歩いて行けると信じている。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です