2009
07.27

小林秀雄の三角関係(連載8)

小林秀雄

%E5%B0%8F%E6%9E%97%E7%A7%80%E9%9B%84600.jpg
2008年夏 ロシアへの旅
ここをクリックする  「清水正の本」 「清水正の著作一覧」 
小林秀雄の三角関係(連載8)

(初出「D文学通信」1193号・2009年06月15日)
清水正
妹から見た兄・秀雄
小林秀雄の妹、高見澤潤子は『兄 小林秀雄』(昭和六〇年三月 新潮
社)の中で「夫に死なれ、病弱であまり働くことの出来ない母にとって、頼
りになるものは一人の息子の兄しかなかったのに、息子とむきあってじっく
り話す時間もなかった母は、どんなに淋しかったろう。そんなことを思いや
りもせず、自分勝手なことをしている兄を、私は怒り、恨んでいた」と書き、
次のように続けている。


特に中原中也の愛人、長谷川泰子と同棲することになって、母と私を残
して、家を出ていった時は、ひどい兄としか思えなかった。引越荷物の手伝
いを、ぷりぷりしながらやった。特に、兄の着物やシャツをよりわけて重ね
ているやせた母をみて、兄のしうちを恨めしく思った。
それまでに、父がもっていた骨董や古い掛軸や書物など、少し金目のも
のは、ほとんど売ってしまったが、残っていたガラス戸棚、天井にとどくく
らいの高さで、上が本棚になっていて、下は沢山のひき出しのついた立派な
戸棚も、中の本も全部、兄の新居のために、その時、金にかえられてしまっ
た。中の本は父のもので、日本古典の全集などもあった。
兄がいなくなったあと、私の家は、全くがらんとしてしまって、何もか
もなくなってしまったような感じであった。
(20~21)
小林の父は大正十年三月二十日に死んでいる。小林が十九歳の時である。
小林は一年浪人して、大正十四年に東京帝国大学仏蘭西文学科に入学した。
病弱だった母にしてみれば、一人息子の秀雄に期待し、頼りにするのは当然
だが、秀雄は友人の愛人を略奪して新居を構えた。母よりも、妹よりも、愛
人との暮らしを優先させたのであるから、潤子の怨み節を責めることはでき
ない。
兄に対して理解を寄せるようになった経緯を、潤子は次のように書いてい
る。
兄たちが谷戸に来て、三カ月もたたないうちに、突如として、兄は、愛
人をその家に残したまま、行方をくらました。私たちは、本当に心配した。
大阪のある寺から、私あてに、手紙がくるまで、本当に心配した。手紙をよ
んで、私は、急にぐっと兄が自分に近くなった気もちであった。その手紙は、
初めて、兄がはだかになって、私にぶつかって来た何ともいえない悲惨なも
のであった。悲惨な、疲れ切った状態のかげに、しみじみと伝わってくる兄
らしい、深い愛情を、はっきりと現わしていた手紙であった。
(21)
小林の潤子宛ての手紙には次のように書かれていた。
僕はとうく・逃げ出した、気まぐれでもなんでもない、如何にも仕様がな
いのだ。僕が今迄にどの位ひどい苦しみ方をして来たか幕を通して彼方のも
のを見る程度にはお前にも解つてゐる筈である、僕は実際出来るだけの事を
した、馬鹿しい苦しみだ、あゝ今度で終つて欲しいものだ、
こゝはお寺です。日蓮宗の立派なお寺だ。俺はまるで牢屋から逃げて来た
囚人の様に広い縁側に蹲つてぽかんとしてゐる。池を蛇が器用に泳いで行く。
若し俺は悪い事をしたのなら神様が俺を悪い様にしてくれるだらう、若し
俺に罪はないのならいゝ様にしてくれるだらう。兎も角俺は恐ろしく疲れた、
春の陽といふものはこんな色をしてたつけなあと眺めてゐる。
心配しない様に、お母さんも心配しない様に、
佐規子が来ても断じて相手になるな、僕の出奔に就いては断じて口外して
はならぬ、うるさいから、うるさく言ふ奴もあるまいが、皆んな放つておけ
放つておけ。
今の処如何する当もない、お寺に置いてくれゝばこゝに凝つとしてゐる、
当分東京には帰らない、働く口があったら働く、
兎に角心配してはならない、信じる人が今の処兄貴だけなら兄貴を信じる
がいゝ。色々と心配をかけたなあ、疲れたから又書く、
谷戸の家はまだ放つて置くがいゝ、今月の家賃が払つてないが金が出来た
ら払ふ、
(22)
小林は泰子(佐規子)のところを逃げ出した。母や妹が一番知りたいこと
を小林はのっけからずばりと書いた。その理由も端的で、弁解がましさは微
塵もない。逃げ出した当人が「気まぐれでもなんでもない、如何にも仕様が
ないのだ」と書いているのであるから、第三者がつべこべ言ってもはじまら
ない。小林は泰子との三年間の同棲生活において「出来るだけの事をした」
と思い、泰子との暮らしで味わった苦しみを〈馬鹿らしい苦しみ〉と思って
いる。そこに泰子に対する未練の感情はない。
小林は女を友人から奪うことのできる男であり、その女を捨てることもで
きる男であった。この、泰子を捨てて、自分の心のうちをさらけ出してくれ
た兄に妹の潤子が心を開く。小林の手紙をおそらく潤子は涙なくしては読み
きれなかったであろう。小林の肉親を気遣う心情は痛いほど伝わってくる。
が、小林の言葉を、泰子と中也の三角関係の渦の中でとらえてきた者にとっ
ては、冷酷な眼差しをそそがなければならない面もある。
小林は泰子を大島旅行に誘ったり、見舞いに来た泰子に一緒に住もうと口
説いたりした。小林の言葉は、泰子の口から中也へと伝えられることはなか
った。つまり小林の言葉は、二人だけの内密な言葉として相手の胸にささや
きかける。三年ものあいだ濃密に関わってきた女の所から逃げ出して身を隠
してしまった男から、まず誰よりも先に妹の自分に手紙が届く、もうそれだ
けで潤子は十分なのである。泰子よりも、中也よりも、誰よりも先に、手紙
をくれて、心のうちを打ち明けられれば、そこに新たな兄妹の絆がうまれ、
妹の自分がいちばんの理解者となるのである。
器用に泳いで行く〈蛇〉
小林は泰子を捨てて来た自分を〈牢屋から逃げて来た囚人〉に形容してい
る。泰子との生活は牢獄であり、小林はそこから逃げてきた脱獄囚というこ
とになる。この囚人がお寺の縁側にうずくまって「池を蛇が器用に泳いで行
く」のをぽかんと見ている。泰子から逃げて〈立派なお寺〉に身を寄せてい
る小林は、自分自身の姿をその〈蛇〉に見なかったであろうか。小林は見た
光景をそのまま書いて何のコメントもつけない。それだけに小林の言う〈悔
恨の穴〉を覗き見た思いもする。
先にも指摘したように、小林は泰子を奪ったことを何ら反省していない。
どんなに悔恨の穴が深かろうが暗かろうが、そこに反省の風が吹くことはな
い。小林は、善悪の彼岸にあって、ただただ恐ろしく疲れている。しかし小
林はどんなに疲労困憊していても、〈父〉のようにたくましい。小林は妹と
母に確固たる指示を下している。「佐規子が来ても断じて相手になるな、僕
の出奔に就いては断じて口外してはならぬ」これは命令である。小林に何の
迷いもない。小林は母と妹が自分の下した命令に従うことを微塵も疑ってい
ない。現に、妹は兄の命令に従って、泰子(佐規子)に本当のことを何も伝
えなかった。小林一家の絆は、秀雄と泰子の関係が切れたことによって、よ
り強くなった。特に潤子は、兄秀雄から胸のうちを打ち明けられたことによ
って、妙に絆を強めていく。
兄の親不幸は、私よりひどかったようにみえた。夜、家にいる時は、大
抵三、四人の文学青年と酒を飲んで、大きな声で議論をやっていた。その仲
間に、いつの間にか、小柄な、前髪を眉までたらしたおかっぱの、青白い顔
をした少年がくるようになった。少年はよく酒を飲み、よく泥酔した。家の
三毛猫をみかけると、
「やい、哲学者!」
とよびかけて、つかまえようとするが、いつも逃げられていた。酒っ気
のない時は、別人のようにおとなしくて、神妙に私に挨拶した。その少年が、
その頃十七か十八だった詩人の中原中也であった。
中原中也は、二、三度、自分よりずっと年上らしい、背もずっと高い美
人の女性と一緒に来た。中原と同じように、真黒な髪を額にたらしたおかっ
ぱの頭をして、顔は大きすぎる感じだったが、目も大きく、日本人ばなれの
したはでな顔つきであった。彼女は中原の愛人で、映画のマキノ・プロダク
ションの大部屋の女優をしていたとかしているとか、兄からきいた。
(76)
兄は大島から帰って来てすぐ、ひどい腹痛をおこして苦しみ出した。腸
捻転だというので、入院して手術をしなければならなかった。入院費など出
せない状態だったので、医者の世話で、泉橋の施療病院に入院した。患者が
いっぱいベッドを並べている、粗末な、だだっ広い部屋の片隅に、兄は寝か
されていた。手術後二度目に私が行った時、ベッドの側に、中原の愛人が腰
かけていたのに、私は驚いた。
(77~78)
今となっては、当時の兄と彼女との関係は、彼女だけが一番よく知って
いる筈である。私も、彼女が語った記事をよんで、やっとその頃の二人の関
係を知ったわけである。彼女は、兄だけのことではなく、中原のことも、私
や私の母のこと、私たちの家のこと、また兄と別れた後のことも、語ってい
る。ところが、それが随分まちがっているのである。昭和五十八年五月号の
「文藝」にのった「小林秀雄の思い出」というインタビューの記事などは、
率直にいって、少々彼女は、ぼけているのではないかと思われるほど違った
ことを言っている。以前の対談の記事も、潔癖症からだけではなく、どこか
他にも、欠陥があるのではないかとさえ疑いたくなるような所が随分出てく
る。
しかし、若かった中原も兄も、そうした普通でない、変った所のある女
にひきつけられたのだろう。男からみたらどう感じるかわからないが、女の
私からみたところでは彼女は一向色っぽさもなければ、優しい柔かさももっ
ていなかった。ごつごつした大柄の女で、美人ではあったが、男のような乱
暴な口をきき、少しも美しさの感じられない、そぐわない、奇妙な服装をし
ていた。頭のいいようなことをいう時もあったが、自分でいっていることが、
本当に自分で解っていないようないい方をしたりして、しみじみと話しあう
のことの出来ない人であった。私には、
「冨士ちゃん、冨士ちゃん」
といって、ひとのいい親しさをみせてくれるのだが、つかみどころのな
い人であった。
兄が彼女からにげ出して、関西からよこした手紙にも、
「あの女には心情といふものが欠除してゐるのだ、全々欠除してゐるのだ
……」
と書いてあるが、これは真実であって、兄もこれが解るまで、三年もか
かったのである。
(83~84)
兄は彼女に、その頃、
「あなたは中原とは思想があい、僕とは気があうのだ」
といったそうである。
しかし兄は、彼女にぞっこんほれこんで、その頃は彼女の本当の人物を
みる目がなかったように思う。若かったのと、俗な言葉でいえば、あばたも
えくぼというように、彼女をかなり買いかぶっていたようである。「恋はく
せもの」とはよくいったもので、あとになって兄も目がさめたように解った
筈だが、彼女は思想も心情もまるでもち合せていない人だったのである。兄
だけが一方的に真剣な愛情をもっていた。純粋であり、若い情熱と正常さを
もっていた。おそらく兄は、自分の真実な熱情と正常さで彼女を教え導きな
がら、病気もなおし、人間的に、人格的にひっぱり上げようと、一生懸命に
努力したにちがいない。そのために出来るだけ我慢し、辛抱し、堪えて堪え
ぬいて、彼女の成長に努力したのだろう。しかし、力つきたのである。
(8
8 )
兄は、前からそのつもりだったのか、それとも、女に裏切られたと思っ
たからなのかはわからないが、大島で死のうと思ったのである。兄が何も私
にいわなかったからといって、これほど思いつめた兄の気もちを、全然知ら
なかったことを、私はすまないと思う。事情が解ってから、この時の兄の気
もちを、本当に可哀そうに思う。
しかし神は、兄を見すてなかった。兄もその時、神に対する深い畏れを
感じた。死のうと思った時、自分の生命は、自分の所有物ではない、自分勝
手には出来ないものだという、おごそかな気もちが、その堪え難い悲痛な思
いの上におおいかぶさった。自分を超えた、人間を超えた神を感得したので
ある。
(91)
ここに引用した潤子の文章は、兄を尊敬し、小林家の名誉を守らなければ
ならないという使命感にかられたもののようにも見える。友人の愛人を略奪
した罪深い兄のイメージはまったくない。ここに描き出される兄秀雄は、母
を気遣い、妹を気遣う優しい兄であり、病気の泰子に対してもどこまでも誠
実に対応した男ということになる。泰子が兄秀雄や泰子や中也に関してばか
りでなく、小林の家族のことまで話して本にしたことに抑えきれない怒りも
あったようだ。

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。