寺山修司とタモリ
五十嵐 綾野
タモリは寺山修司のモノマネをしていたことがある。これは思想模写と呼ばれ、その後のモノマネに多大な影響を及ぼしたと言われている。有名な話だが、私にとっては寺山情報の中の単なる一つに過ぎない。残念ながらテレビで見た記憶もない。今はもうやることはない。改めてじっくり見たいと思い、インターネットで探すと意外と簡単に見つかった。
最初はそれほどでもないが、途中から寺山口調に変化する。何かが憑依した感じであり、恐山のイタコを思い浮かべた。声は寺山に似せているのではなく、タモリの地声のままだ。流れるような話し方と抑揚が似ている。話している内容も、寺山が話していた言葉ではなくタモリが勝手に考えているようだ。寺山が話しそうな単語を上手くつなげている。聞けば聞くほど不思議な気分になる。タモリでも寺山でもない全く別の人間がそこにいる。
寺山本人はこのモノマネについてどう思っていたのだろうか。単なるモノマネではなく一番の批評だ、と嫌がるどころか評価していたという。タモリが話していることは、寺山と全く関係のない作り話だ。タモリの批評の目から見た寺山像だから、逆によく似たのかもしれない。
寺山の青森弁は独特の訛りだと言われる。生まれたのは、青森県弘前市である。戦争で父親を亡くし、母子で三沢市に身を寄せた。中学から高校までは、青森市にある叔父の家で過ごした。このように一か所で長期にわたって滞在していないことも理由の一つにあげられるだろう。
青森には、津軽弁、南部弁、下北弁という言語が存在している。以前、太宰治の津軽弁の朗読を聞いたことがあるが、これは全く聞き取れなかった。外国語を聞いているようで驚いた。昨年、青森県を訪ねた時、地域によって違う訛りのことを体感した。三沢市の地元の人と話したときは「寺山っぽい。」と密かに思ったりした。若い人はそうでもないが、年配の人の中にはわからなくて焦ったことはあった。にこやかに話しかけてくるので笑顔で答えるのだが、一瞬耳がどうにかなったのかと思った。
寺山の訛りは津軽弁なのか南部弁なのか下北弁なのかを特に意識したことはない。聞き分けることは無理である。結局、どの言語でもいいと思ってしまう。あの訛りは寺山自身の思想から来ていると思うからだ。タモリが寺山のモノマネをしようと思ったのも、この思想に興味を持ち共感したからだ。大学に入学してからずっと、東京に住んでいたのだからいくらでも標準語を使いこなせるようになったはずだ。著書の中では、「故郷を捨てろ。」と声高にしていたが、寺山はそれが絶対に出来ないことを知っている。その訛りを都会人に嘲笑されたとしても、それを捨てたら寺山には何もない。寺山から、東北を取り上げたら、何も残らないのだ。
東京にいるときは標準語を使うが、地元に帰ると方言に戻すというように使い分ける人がいる。寺山がもし、このようにしていたら有名になることはなかったように感じる。ただ、これほど寺山は青森弁にこだわっているが、それは話すときだけに限られている。書いている文章は標準語だ。寺山が頭の中で考えている時はどのような言語なのだろう。思考が青森弁だとすれば、文章に直すときに標準語で書き直すのだろうか。寺山は終生、訛りが抜けなかったという。寺山の場合は抜きたくなかったという方が正しい。本当は標準語がペラペラだった可能性は大きい。いつも標準語を使っているより、ここぞという時に青森弁を使った方が印象深い。
例えば『家出のすすめ』を思い浮かべてみる。青森側からの目線なのか東京側からの目線なのかはっきりしない。それは言語の問題が根底にある。読みやすさを思えば標準語だが、青森弁版『家出のすすめ』があったらもっと面白くなっただろうと少し残念な気持ちだ。
五十嵐綾野さんの寺山修司論(連載⑬)
