2009
07.22

小林秀雄の三角関係(連載4)

ドストエフスキー関係, 小林秀雄

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2008年夏 ロシアへの旅
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小林秀雄の三角関係(連載4)

(初出「D文学通信」1189号・2009年05月25日)
清水正
小林が泰子を残して姿を消したことを知った〈口惜しき人〉中也はいった
いどのような気持であっただろうか。大岡昇平に面白い証言が残っている。


私は十九歳になったばかりで、本当に心配をした。中原に釣り込まれて、
小林に憤慨さえしたくらいである。中原は河上徹太郎も今日出海も佐藤正彰
も、小林の仏文の仲間を全部疑っていた。私もそんな気がして来た。
二日ばかり経って、渋谷駅前を歩いていたらタクシーへ乗って中原が来
かかった。男の相客と何やら笑いながら話している。私はその後の様子を聞
こうと思って駈け寄った。中原は私を認めて、笑いながら手を振り、タクシ
ーは走り続けた。
停るだろうと思われた地点を越しても走り続けるので、諦めて立ち止っ
た頃、タクシーは大分先でやっと停った。中原は窓を開けて
「駄目だ。まだわからん」
とか何とか言った。これから駒場の辰野先生の家へ相談に行くところだ
という。相客は澄まして、向こうを向いていた。これが佐藤正彰だった。
中原の浮き浮きした様子は小林の行方と泰子の将来を心配している人間
のそれではなかった。もめごとで走り廻るのを喜んでいるおたんこなすの顔
であった。中原はそれまで随分私をうれしがらせるようなことをいってくれ
たのである。うっかり出来ないぞと思ったのは、この時が初めである。
(100
~ 101)
大岡昇平の伝える中也はまさに〈おたんこなす〉である。だが、そのこと
を誰が責められるであろうか。中也にしてみれば、小林の失踪は彼の敗北以
外の何も意味してはいない。自分の女泰子を小林に奪われた中也にしてみれ
ば、小林の逃亡は叫び声を発したくなるほどの快感であったろう。敗北感に
苛まれ、未練たらしく泰子につきまとっていた中也は、このときはじめて復
讐を果たした者だけが味わうことのできる勝利感に陶酔したことだろう。大
岡が中也の浮き浮き様子に、彼の鬱屈した内的ドラマを垣間見たとしても不
思議ではない。小林の失踪は、だれが何と言おうと、中也にしてみれば卑怯
者のすることである。泰子を奪ったのも、泰子の潔癖症を進行させたのも、
それはかつての友人で、信頼する者を裏切った〈敵〉と化した小林である。
ここに引用した大岡の文章だけでは、大岡と中也、大岡と泰子との微妙な
関係は浮上してこない。しかし中也、泰子、小林の三角関係に、さらに大岡
の彼らに対するのっぴきならない感情も複雑に絡み合っていたことはそれな
りにうかがえる。いったい、中也はどういうことを言って大岡をずいぶんう
れしがらせたのか。具体的にどういうことで大岡は「うっかりできないぞ」
と思ったのか。詳しいことはわからないが、いずれにしてもここで大岡は、
泰子を略奪した後で小林が味わわなければならなかった〈三角関係〉の泥沼
に、彼もまた一歩を踏み込んだ足指の妙な感触を覚えたのであろうか。たと
え中也が泰子と小林のことで、どんなきれいごとをならべたところで、大岡
が目撃してしまった〈もめごとで走り廻るのを喜んでいるおたんこなすの
顔〉が瞬時に伝えたものをくつがえすことはできない。男と男をつなぐ文学
上の絆などたかがしれたものであることは、中也の女を奪った小林のことで
十分に証明されている。他人の不幸と権力はいつでも蜜の味がするとはよく
言ったものだ。詩人としての自負は人並みはずれて持っていた中也だとして
も、当時彼が交際していた連中(河上徹太郎、今日出海、佐藤正彰)は東大
仏文に在籍する高学歴者であったことに違いはない。中也がひとしれずコン
プレックスを抱いていたことを敢えて否定する必要もないだろう。そんな中
也が、小林の失踪によって大いなる歓喜を覚えたとしても、それはごくあた
りまえの心理である。泰子の将来より、小林の行方よりも、とにかく小林が
泰子のもとから逃亡してしまったという紛れもない事実が、口惜しき人・中
也の精神を一時とはいえ解放し、有頂天にしたのである。
当時、十九歳であった大岡は自ら記したように、置き去りにされた泰子の
ことや、姿を消してしまった小林のことをほんとうに心配したのであろう。
だからこそ、中也の浮き浮きしたおたんこなすの顔を目撃して失望もし、ひ
とをやすやすと信じてはいけないとも思ったのであろう。
小林は泰子を奪い、そして棄てた男である。中也は女を奪われた男であり、
未練たらしく自分を棄てた女につきまとった男である。この男の精神の内実
は、他人の目撃談よりは、彼自身が記したものに端的に表れているであろう。
先に引用した「我が生活」の後を見てみよう。
私はさよならを云つて、冷えた靴を穿いた。まだ移つて来たばかしの家
なので、玄関には電球がなかつた。私はその暗い玄関で靴を穿いたのを覚え
てゐる。次の間の光を肩にうけて、女だけが、私を見送りに出てゐた。
靴を穿き終ると私は黙つて硝子張の格子戸を開た。空に、冴え冴えとし
た月と雲とが見えた。慌ててゐたので少ししか開かなかつた格子戸を、から
だを横にして出る時に、女の顔が見えた。と、その時、私はさも悪漢らしい
微笑をつくつてみせたことを思ひ出す。
・・俺は、棄てられたのだ! 郊外の道が、シツトリ夜露に湿つてゐた。
郊外電車の轍の音が、暗い、遠くの森の方でしてゐた。私は身慄ひした。
停車場はそれから近くだつたのだが、とても直ぐ電車になぞ乗る気には
なれなかつたので、ともかく私は次の駅まで、開墾されたばかりの、野の中
の道を歩くことにした。・・・・・・・・・・・・・

中也は「我が生活」を「私はほんとに馬鹿だつたのかもしれない」と書き
始めた。たしかに中也はムイシュキンがドゥラーク(おバカさん)と呼ばれ
ていたような意味で〈馬鹿〉であった。中也を裏切った〈敵の男〉と、昨日
まで同棲していた女のために、中也は持ちきれずに残していった荷物(ワレ
物)をわざわざ彼らの新居にまて届けてやっている。まさに絵に描いたよう
なお目でたき人であり、善良な人である。こんな無垢な男を裏切った〈親し
い友〉が、後に二回も『白痴』論を書いた小林秀雄であったことを忘れては
ならないだろう。
ここに引用した文章は、同棲していた女と親友に裏切られた男の赤裸々な
姿が直截的に伝わってくる。暗い玄関で穿いた〈冷えた靴〉の感触、次の間
の光を肩に受けて見送りに出ていた泰子のその姿、硝子張の格子戸を開けた
ときに見えた冴え冴えとした月と雲、すべての言葉を失った、見棄てられた
孤独な男が見た光景と感触が、見事に表現されている。泰子に見せた〈さも
悪漢らしい微笑〉・・、こんなあまりにも悲しい顔を見せられた泰子と見送
りに出なかった小林が、いったいどんな会話を交わし、いったいどんな睦み
あいをしたのであろうか。泰子の回想によっては感じられなかった、裏切り
者たちの疾しさ、罪深さは、中也のこの文章によって鮮やかに浮上する。
〈さも悪漢らしい微笑〉に泣けてくる。この精一杯のやせ我慢、虚勢に心
動かされない母性はなかろう。泰子は三歳年下の中也に母性として接するこ
とはできなかったのであろうか。泰子の回想を読んでいると、中也は亭主気
取りでいたらしいから、泰子自身は中也よりも子供っぽかったのかもしれな
い。実は母親を求めている中也が虚勢を張って亭主気取りし、泰子は本当の
父親的な存在を求めて小林に走ったが、結果としてこの〈父親〉はわがまま
な娘を棄てて家出してしまった。中也は再び亭主気取りで泰子の面倒を見る
ことになる。泰子にとって、いったい誰が本当の父親なのか。中也も小林も、
結局はひとりのわがままな男であって、とうてい〈父親〉の役割など演じき
れなかったということであろうか。
泰子は、自分が棄てた男の〈さも悪漢らしい微笑〉をどのように受け止め
たのであろうか。中也が泰子一人に送られて、暗い玄関で冷たい靴を穿いた
時、かつての友人を裏切った男はどのような靴を穿いていたのだろうか。不
思議なことだ。中也は自分を裏切った男の内部世界などに微塵の注意も払っ
ていない。否、中也にとって小林の気持など今さら詮索する必要などまった
くなかった。小林は裏切り者であり、敵であり、自分を〈口惜しき人〉にし
た張本人である。中也は無垢な人間が、まず何よりも自分の孤独を抱きしめ
るように、世界中の悲しみを小さな胸一杯に詰め込んで、最も愛する女の顔
に〈さも悪漢らしい微笑〉を送る。これを普通の言葉で言えば、優しさとい
う。
中也は裏切り者の、疾しさ一杯の丸めた背中に斧を振りおろす代わりに、
もう一人の裏切り者に微笑を返す。おそらく中也の微笑は、相手の胸に届く
ことはなかったろう。もし、届いていればこんなに残酷なこともない。中也
の微笑を脳裡に焼き付けた女が、どんな顔を小林に向けたのであろう。どん
な気持ちで小林の胸に飛び込んでいったのだろう。
新しい、私の下宿に着いたのは、零時半だつた。二階に上ると、荷物が
来てゐた。蒲団だけは今晩荷を解かなければならないと思ふことが、異常な
落胆を呼び起すのであつた。そのホソビキのあの脳に昇る匂ひを、覚えてゐ
る。
直ぐは蒲団の上に仰向きになれなくて、暫くは枕に肱を突いてゐたが、
つらいことだった。涙も出なかつた。仕方がないから聖書を出して読みはじ
めたのだが、何処を読んだのだかチットも記憶がない。なんと思つて聖書だ
けを取り出したのだつたか、今とあつては可笑しいくらゐだ。
(331 ~332

中也が聖書などを取り出して、どこをどう読んだのかも記憶になかったこ
ろ、中也という厄介者を送り出した泰子と小林はいったいどのような時を過
ごしたのだろうか。それは当事者の二人にしか分からない。否、小林は、中
也が帰りぎわに泰子に見せた〈さも悪漢らしい微笑〉を知らず、泰子は小林
の疾しさ一杯の胸に巣くった憎悪と嫌悪の内実を知らない。かつての友人の
女を略奪した男は、疾しさ以上の烈しい嫌悪を、自分が裏切った男に注がな
いとは限らない。憎悪の念を両腕にこめて、斧を振りおろそうとたくらんで
いたのは小林の方であっかもしれないのだ。
気の弱さ・・これのある人間はいつたい善良だ。そして気の弱さは、気
の弱い人が人を気にしない間、善良をだけつくるのだが、人を気にしだすや、
それは彼自身の生活を失はせる、いとも困つた役をしはじめる。つまり彼は、
だんだん、社交家であるのみの社交家に陥れられてゆくのだ。恰度それは、
未だあまり外界に触れたことのない、動揺を感じたことのない赤ン坊が、あ
まりに揺られたり驚かされたりした場合に、むしを起す過程と同様である。
そして近代人といふのは、多いか少ないかこのむしなのではないか? 殊に
急劇に物質文明を輸入した日本においてさうではないか?

わたしはこの文章を読みながら、ドストエフスキーの初期作品の一つ『弱
い心』の主人公ワーシャ・シュムコフを想いだした。ワーシャは体の一部が
曲がっている、いわば不具者として設定されている。この青年に、とつぜん
思いもかけなかった幸福が訪れる。美しい娘が婚約者として彼の前に現れた
のだ。彼は有頂天になって仕事も満足にこなせない状態に陥り、しまいには
発狂してしまう。善良で心が弱かったばかりに、突然訪れた幸福にもちこた
えることができなかったのだろうか。ワーシャの発狂に一番とまどいを覚え
たのは彼と同じ部屋を借りていた親友アルカージイであった。彼は陽気でお
しゃべりな青年であったが、同宿人の発狂に立ち会ってからは、まったく人
が変わったように陰鬱な青年になってしまった。筋書きだけを追えば、たい
へん分かりやすい小説だが、主人公ワーシャの発狂の謎にいったん立ち止ま
れば、はてしのない深淵を眼前に見る思いがする。ワーシャの発狂の原因を、
ある者は十九世紀ロシアの首都ペテルブルクの非人間的・官僚的な冷酷さに、
ある者はワーシャの心の弱さそのものに求めた。が、わたしはそれ以上に、
友人アルカージイの過剰なお節介に、その原因を見た。ワーシャは友人のお
節介(余計なお世話)を拒むことができなかった。なぜなら、ワーシャは、
中也が的確に述べていたように、気の弱い、善良な人間だったからである。
ドストエフスキーの人物は、たいていの場合、ほどほどということがない。
熱いか冷たいか、どちらかであってほしい、というヨハネ黙示録の神の要請
に忠実な激しい人物たち、すなわち〈生温くない人たち〉がドストエフスキ
ーの諸人物の特質である。ワーシャとてその例外ではない。彼の〈弱い心〉
は発狂という極限にまで到達せずにはおれない。彼は自らの〈発狂〉を突き
つけることで、親友アルカージイの〈お節介〉に抗議したのである。この作
品を熟読すれば、ワーシャがアルカージイに烈しい憎悪の眼差しを送ってい
た場面をよもや見逃すことはないだろう。ワーシャはアルカージイを殺すこ
とができなかったから、自分自身を発狂させることで殺したとも言えるので
ある。
中原中也が『弱い心』を読んでいたかどうかは知らないが、彼がここに引
用した言葉は、かなり的確にワーシャの発狂の謎に迫っている。気の弱い人
間は善良で、こういった人間は「人を気にしない間、善良をだけつくるのだ
が、人を気にしだすや、それは彼自身の生活を失はせる」のである。ワーシ
ャにもし美しい娘が婚約者として現われなければ、彼は親友アルカージイの
過剰なお節介に悩まされることもなかっただろうし、〈社交家であるのみの
社交家〉に陥ることもなかったであろう。婚約者と出会うまでのワーシャは、
まさに〈未だあまり外界に触れたことのない、動揺を感じたことのない赤ン
坊〉であった。ところがとつぜん現れた婚約者によって「あまりに揺られた
り驚かされたり」したので、〈むし〉を起こしてしまったのである。この
〈むし〉は治療を完全に拒む〈発狂〉というかたちで現れた。親友アルカー
ジイの友情によって癒されるような〈むし〉であれば、もちろんワーシャの
親友にこそ向けられた憎悪・殺意・復讐は失敗したということになる。
近代にあつて、このむしの状態に陥らないためには、人は鈍感であるか
又、非常に所詮「常に目覚めてあれ」の行へる人、つまりつねに前方をみつ
めてゐる、かの敬虔な人である必要がある。
(332 )
なるほど、ワーシャも鈍感であり、善良でさえなければ、婚約者と一緒に
未来をみつめ、しっかりと一歩一歩を踏みしめて、誰からも後ろ指などささ
れず、たとえ貧しくともそれなりに幸福な暮らしを送っていけたに違いない。
ワーシャは心が弱すぎた。自分の幸福のために、親友アルカージイのお節介
を断固として拒むことができなかった。アルカージイの友情の性格は悪意と
同じものであるが、しかし本人がそのことに気づいていないだけにことは深
刻となる。現にワーシャはその〈友情〉によって〈発狂〉という最悪の〈む
し〉を起こしてしまった。
アルカージイは自己と他者とが愛情とか友情によって完璧に結びつくこと
ができるのだという神話の世界に生きていた。ワーシャが燕尾服を着て、か
しこまって婚約の話をしようとしているのに、胴締めにして冗談にしてしま
った。ワーシャの真剣を真剣に受け止めることができなかった。アルカージ
イは、自分とワーシャはいつも一心同体だと信じて疑わなかった。ここに魔
の淵が横たわっていた。
ワーシャはワーシャであって、決してアルカージイではない。にもかかわ
らず、アルカージイはワーシャの婚約者は自分のそれでもあるかのように振
舞った。いわば、アルカージイはワーシャの幸福を横取りする勢いで、ワー
シャと婚約者の間に強引に介入してきた。しかもそれもこれも、すべてはワ
ーシャのためという名目で、無邪気に行われるのだ。アルカージイのような
存在(友人)は、弱い心の、善良な人間にとっては自分の存在基盤を狂わし
破壊する脅威そのものなのである。ワーシャの不安と恐怖の原因はアルカー
ジイそのものであるのに、彼はその最も恐るべき敵を唯一の友人としていた
ところに、彼のどうしようもない救い難さ、狂気へと突っ走るしかないジレ
ンマがあった。
私が女に逃げられる日まで、私はつねに前方をみつめることが出来てゐ
たのと確信する。つまり、私は自己統一ある奴であつたのだ。若し、若々し
い言ひ方が許して貰へるなら、私はその当時、宇宙を知つてゐたのである。
手短かに云ふなら、私は相対的可能と不可能の限界を知り、さうして又、そ
の可能なるものが如何にして可能であり、不可能なものが如何に不可能であ
るかを知つたのだ。私は厳密な論理に拠つた、而して最後に、最初見た神を
見た。
然るに、私は女に逃げられるや、その後一日々々と日が経てば経つ程、
私はたゞもう口惜しくなるのだつた。・・このことは今になつてやうやく分
るのだが、そのために私はかつての日の自己統一の平和を、失つたのであつ
た。全然、私は失つたのであつた。一つにはだいたい私がそれまでに殆んど
読書らしい読書をしてゐず、術語だの伝統だのまた慣用形象などに就いて知
る所が殆んど皆無であつたので、その口惜しさに遇つて自己を失つたのでも
あつたゞらう。
とにかく私は自己を失つた! 而も私は自己を失つたとはその時分つて
はゐなかつたのである! 私はただもう口惜しかつた、私は「口惜しき人」
であつた。
(332 ~333 )
小林は中也の女を奪っただけではなかった。小林は中也の自信満々の自己
統一をも奪ってしまった。大袈裟な言いかたをすれば、小林は中也の信じて
いた〈神〉を奪ってしまったのだ。自己統一の平和を奪われた中也は、いわ
ば精神の危機に襲われている。ワーシャが発狂したようには、中也は自己を
破綻させはしなかったが、その精神の実質は近似的である。
かくて私は、もはや外界をしか持つてゐないのだが、外界をしかなくし
た時に、今考へてみれば私の小心・・つまり相互関係に於てその働きをする
・・が芽を吹いて来たのである。私はむしに、ならないだらうか?
(333 )
何か、分かりにくい文章であるが、女を友人に奪われて自己の統一を破壊
された、精神の危機に直面した中也の内面に寄り添うことのできる者なら、
彼の言わんすることは了解できるだろう。
婚約者の出現によって(それは中也が泰子を小林に奪われたことと同様の
事件であった)自己の統一をなくしたワーシャは、まさに内部世界を破壊さ
れて、外界をせわしく駆けまわる〈社交家〉と変わり果てた。ワーシャは上
官から命じられていた浄書を期限に間に合わせることができなかった。連日
夜遅くまで机に向かっていたにもかかわらずである。ワーシャはノートにイ
ンクのついていないペンを走らせていたのである。
自己統一の平和を破壊された、詩人中也もまたインクのついていないペン
を走らせた経験を持ったことであろう。「私はむしに、ならないだらうか
?」という言葉は、精神の危機の予兆を感じた者だけが記すことのできる言
葉である。中也は、インクのついているペンを持って、しかし多くの言葉を
抹殺したはずである。ワーシャが憎悪のこもった血走った目でアルカージイ
を見たように、中也が小林の疾しさ一杯の背中に殺意のこもった眼差しを注
いだとしても不思議ではない。
私は苦しかった。そして段々人嫌ひになつて行くのであつた。世界は次
第に狭くなつて、やがては私を搾め殺しさうだつた。だが私は生きたかつた。
生きたかつた! ・・然るに、自己をなくしてゐた、即ち私は唖だつた。本
を読んだら理性を恢復するかと思つて、滅多矢鱈に本を読んだ。しかしそれ
は興味をもつて読んだのではなく、どうにもしやうがないから読んだのであ
る。ただ口惜しかつた!「口惜しい口惜しい」が、つねに顔を出したのであ
る。或時は私は、もう悶死するのかとも思つた。けれども一方に、「生きた
い!」気持があるばかりに、私は、なにはともあれ手にせる書物を読みつゞ
けるのだつた。(私はむしになるのだつた。視線がウロウロするのだつた
。)
が、読んだ本からは私は、何にも得なかつた。そして私は依然として、
「口惜しい人」であつたのである。
(334 )


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