2009
07.17

五十嵐綾野さんの寺山修司論(連載⑪)

寺山修司・関係

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五十嵐綾野さんの寺山修司論(連載⑪)


寺山修司と消しゴム
五十嵐 綾野

寺山修司の詩には存在を消すための道具として「消しゴムで消す」という記述が出てくる。誰もが使ったことのある消しゴム。1977年には短編実験映画として「消しゴム」という作品を制作している。寺山の作品に共通する「過去および記憶の修正」というテーマによるものの一つだ。そこで問題になるのは、消しゴムは消し去るという行為はもちろん、それ自身は決して増えることはないということだ。生み出すものではない。
映画『田園に死す』に、「現在の自分が三代前のおばあさんを殺したら、現在の自分はいなくなるのか」という問いが出てくる。これは単純に考えるとすればタイムパラドックスというSFの世界の問題になっていく。実際寺山は、時間軸を無視して、自身の実存上の問題としてのみ考えている。簡単に言えば、範囲が狭い。「過去および記憶の修正」という試みを果たすことは、自分の存在を消した上で修正に入るはずだ。ところが、表面的に寺山は消したままで止まっている。修正しようとすると、本来の「私」に限りなく近づく。修正されたと思っているだけで、修正されていないのだ。
寺山は、「偉大な思想もたかが一個の消しゴムによって世界から消失してしまうことへの好奇心があった」と言う。寺山の言う「消失」は、消え去るという意味よりも、「忘却」という意味で使用されている。思想ではなく、人間を「忘却」することは可能なのか?
例えば、実験映画『消しゴム』においてはスクリーンの上の映像を消し去っている。バックに流れるピアノと打楽器の不協和音が、胸をざわつかせて気持ち悪い。この不安定な曲が、徐々に一般的な消しゴムとしての消しゴムではないという別の次元に連れて行く。この作品には二つの映像消去が出てくる。
まず一つ目は曲に合わせて、海辺を映した映像に皺がより始める。皺というよりシミと言った方がわかりやすいかもしれない。そのシミが画面の端から、じわじわと全体に広がっていく。対象がいきなり消されるのではなく、徐々に消えるというのはだんだん忘れていく記憶のようだ。
二つ目は、老婦人のクローズアップした顔を何者かの超越した手により消去するという、ある意味とても奇抜な場面が出てくる。スクリーンが紙であるかのごとく、ゴシゴシと消されていく。この手は、老婦人の手なのか、誰の手なのか。顔を消すということは、その人のアイデンテイティが失われてしまうということだ。のっぺりと白塗りにされた顔も、また同じである。記憶の修正とアイデンティティの消失した世界の無機質なもの悲しさを訴えてくる作品だ。
寺山は、完璧に「忘却」するということについて追い求め続けていたと言える。どの作品にも、どこかに必ず表れている。このことは、最後の海辺で輪回しをする少女に表れている。この遊戯は、ひたすら倒れないように輪を回し続けるというどちらかといえば、寂しい遊戯だ。途絶えることなく回り続ける輪と寄せては返す波からは、永遠性を感じる。「記憶の修正」は無限に続いていく。
バックの不協和音も弱まることなく、むしろ勢いが強くなりながら終了する。最初と最後の場面が海辺であるということは偶然ではないだろう。そうすると、最初からやかましく鳴り響いていた音楽の謎も解ける。もう一つ、これは「記憶の修正」という試みが未完成に終わってしまった作品とも言えるだろう。
忘れたいと思えば思うほど忘れにくくなる。人間はコンピューターのように、単純に上書き保存をすればすむわけではない。消しゴムで消去するという行為は、原始的である。機械と違って一度消したら、それっきりになる。消しゴムは何も残さないというが、消した後のカスについてはどうなのだろうか。消しゴム事態よりもむしろそのカスにこそ思想が含まれていると考えた方が面白いと思う。

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