車谷長吉の「贋世捨人」

清水正の文芸時評

人間の生きてある現実を容赦なく暴く
先日、二十年振りに友人と会った。彼は高校時代の一年後輩であるが、今は四国のさる大学に教授として奉職している。久しぶりに会った彼の口からとつぜん奥さんの死が告げられた。三年前、検査の結果、脳の中央部に癌が発見された。担当の医師は、彼と奥さんに、手術の成功率は60~70%、もし手術しなければ一年半の命と宣告した。帰り、二人はコンビニに寄って食材を買い求めた。奥さんは小学生の娘と息子に食事を与え、子供たちが寝静まった後、一晩中ずっと泣いていた。熟考の末、手術を決意。手術は失敗、植物人間になった後、息を引き取った。彼はそれから朝五時に起き食事の支度をした。洗濯、掃除、今まで奥さんがしていた仕事を彼は全部背負い込んだ。夜は夜で、講義の準備に追われた。ある日、奥さんの死を知らされたドイツの友人が飛行機でかけつけた。彼女は子供たちに向かって「このままではお父さんが病気になってしまう。あなたたちも自分でやれることはやりなさい」と諭した。その日から子供たちは自分のことはぜんぶ自分でやるようになった。彼は涙を流し、とつとつと語った。わたしもまた泣いた。池袋の居酒屋で、二十年振りに会った二人は、泣き虫のオジサンになっていた。わたしは上田榮子の「海鳥のコロニー」(「文學界」6月号)を取り上げた図書新聞のコピーを彼に差し出し、帰りの飛行機の中ででも読んでくれと言った。彼の語りは現実に基づいていることもあり、わたしの心を震わせずにはおかなかった。彼の語りと同様の魂の震えがなければ文学とは言えまい。上田榮子の作品を取り上げたその月に、彼の辛い話を聞くことになったその因縁を感じたりもした。
 今回はまず「新潮」7月号に発表された車谷長吉の「贋世捨人」を取り上げたい。この生島嘉一を主人公とする〈私〉小説は四二0枚だが一気に読んだ。作者は読者の襟首を掴み、自分の方に引きつけ、俺の顔を見ろ、目をそらすとぶん殴るぞ、これぞ文学魂の宿った顔だ、分かったか、と言わんばかりの迫力で書きすすめている。この小説を二度、三度読み返して感慨にふけることはないだろうが、この小説には作者の情念(怨恨)がたっぷり込められており、読みはじめたら途中で放棄できない力を備えている。
 この小説には多くの人物が登場する。田中角栄、児玉誉士夫、小佐野賢治ら大物の政治家や黒幕から「現代の眼」の鬼頭院社長や編集部員、作家の大江健三郎、文芸評論家の川村二郎や小林秀雄、高校時代の同級生や大学時代の親友、関係した女たち、父母や弟妹、板場の親方や仲間たちなど、それらすべての人々がきちんと名前と簡単な略歴、性格まで記されている。まるで作者は自分と係わったすべての人間ひとりひとりを歴史に刻印したいかのようだ。意外とくどいという印象がないのは、作者が人物に対し、きちんと一定の距離を保っているからであろう。
 生島は先天性蓄膿症で、手術は中途半端に失敗、その頃から人を殺したい欲望を抱く。小説でも書かなければ人の二人や三人は殺していても不思議ではない。それが文学というものだ。彼は〈こけた人〉〈狂言回しの猿〉〈世の中の落伍者〉〈人から馬鹿な奴と後ろ指指される奴〉〈いったん死んだ男〉〈くすぼり〉(世の中の底辺を這いずり廻り、いつも燻っている奴)〈その場その時の虚栄心だけで生きて来た人非人〉〈業を背負った人間〉である。彼は〈はみ出し者の怨念〉を抱きながら小説を書きつづける。「新潮」編集者土方寧男との偏執狂的関係は圧巻である。「桁外れな運命的な才能がある」と褒め殺した土方は、生島の原稿を連続十三回もボツにする。生島は「美しい女に性的に思いッ切りいじめて欲しいという欲望がある」と告白しているが、このマゾ的傾向は〈美しい女〉に限っていなかったのではないか。いずれにしてもマゾ的執念、血なまぐさい怨念が彼の深部にマグマのように息づいていることだけは確かだ。
 生島が初めて女郎屋で買った女は出島泰子、小学時代の貧しい同級生であった。以来、彼は「女に対する恥辱と恐れと罪悪感が、真っ赤に焼けた烙印を捺されるように、心に刻印され」二度と女は買うまいと思う。彼は美人の雑誌編集者笹田悦子や飲み屋の手伝いをしていた大上晶子などに惚れるが失恋する。一見、無頼に生きているように思える生島だが、この小説で抱いた女は泰子だけである。彼はこと女に関してはストイックであり、ロマンチストである。「泰子は私の魂の原罪である」と書く生島は、世捨人・西行や破壊僧・一休の生き方に憧れつつも、世を捨てきれず、破壊者に徹しきれない。が、彼は紛れもなく求道者である。自分を〈贋世捨人〉と厳しく規定した生島は、〈世捨人〉として名を残した者たちの欺瞞を嗅ぎつけている。彼は小説を書きつづけることで、人間の生きてある現実(その深い闇)を容赦無く、厳しく暴いていくことであろう。
 作家は〈血腥い怨念〉が、〈宿縁〉が、〈業〉がなければ勤まらない。小説を書くとは「風呂桶の中に釣糸を垂れて、魚を釣り上げようとすること」「瓢箪で鯰を捕らえようとすること」である。生島は、小説を書くことは「広告と同様、騙しである。併し広告の騙しは商品を売り付ける手段であるのに対し、小説の場合は、嘘を書くこと、つまり騙しそのものが目的である。その意味で、小説を書くという悪事には救いがない」とも書いている。生島にとって救いようのない〈悪事〉とは、泰子との関係、つまり〈私の魂の原罪〉を描くことだろう。「女の存在理由は、一つしかない。男に押し倒されて、股を開くことである。ほかに何があろう」と言い切ってしまう生島が、はたして〈魂の原罪〉に届く釣糸をどのように垂らすのであろうか。
 同じ「新潮」に発表された岩阪恵子の「雨通夜」は味わい深い短編である。夫昌男の育て親である伯母の通夜での出来事を妻史子の視点からスケッチした小品であるが、岩阪らしい繊細な神経が怪しく行き届いている。史子は夫の身内とはうまくいっていないらしい。通夜の場で史子は孤立している。遺体の伯母と体面し、白布を元通りにしようとしたとき〈黒褐色のなにか小さなもの〉が目の隅をよぎった気がする。史子は夫の頭の向こうの壁を、また〈なにか黒っぽいもの〉が動いた気がする。食卓の上のスーパーの袋を持ち上げようとしたとき、とつぜん〈黒褐色の大きなゴキブリ〉が現れる。史子はさらに、夫の頭のすぐ上の天井にじっと貼りついている〈ゴキブリ〉を目にして「さっき伯母の遺体のある部屋で見かけた小さな黒い影は、伯母の侘しい魂なんぞではなく、ゴキブリだったのかもしれない」と思う。しかし、この叙述の直後には死んだ伯母の言葉が挿入されている。作者は史子が見る〈小さな黒い影〉を死んだ伯母の〈魂〉、〈ゴキブリ〉、そして史子の内部に根深く潜んだ〈悪意〉〈憎悪〉〈狂気〉の隠喩としても描いている。通夜の席では、ふだん現れない親族間の確執が浮上する。史子は日常の中で精一杯正気を装っているうちに、いつの間にか治癒不可能な狂気を招き寄せてしまったかにも見える。岩阪はこの作品においても日常に潜む狂気を、さりげなく、静かな筆致で見事に描きだしたと言える。
(「図書新聞」2002年7月6日)

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