ドストエフスキー関係 清水正ゼミ(「文芸研究Ⅰ」)

清水ゼミ・罪の意識のないロジオンが愛によって復活するとはどういうことか?

清水ゼミ・罪の意識のないロジオンが愛によって復活するとはどういうことか?
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中野沙羅  罪の意識のないロジオンが愛によって復活するとはどういうことか
細井麻奈美 ラスコーリニコフの崩壊と、罪と罰の誕生


罪の意識のないロジオンが愛によって復活するとはどういうことか
中野沙羅

この課題を聞いた時、私の頭によぎったのはドストエフスキーの本の中にたびたび出てくるキリスト教的な世界観である。ゴルゴダの丘で処刑されたキリストは復活する。彼のおこなった布教活動は、それを罪として認識されて、彼は罰せられたのだ。キリストも、ラスコーリニコフと同様に罪の意識はない。つまり、ラスコーリニコフは聖書の中のキリストになぞらえて作られた登場人物であるといっても過言ではないだろう。
罪の意識、それは人それぞれによって違う。虐待をする母親は、自分が重大な罪を犯しているという意識はない。虐待された子供には、自分を守ってくれるはずの大人が自分を傷つけたという鮮烈な記憶を刻みつけられ、生涯にわたってそれを負い続ける。子供は自分の母親がなにか罰をうけなければならない、という意識を持たない。なぜなら、母親からすれば全ての原因は自分にあるのではなく子供にあるという意志が働いているからだ。そして子供はその意志をはっきりと感じ取るのだ。
「飴と鞭」という言葉がある。親はこの言葉をうまく活用して自分は「暴力」という行為を子供にしている、という意識からの離脱を試みる。
そして、虐待を働かれた子供もその行為に悪い意識がないのだから、再びそれを行う。私はこれを「虐待の連鎖」と呼ぶ。
話をもどそう。
私の最近読んだ漫画に、このようなセリフがあった。
あたしは馬鹿だから、よくわかりませんけどね。罪を背負った人間が本当に必要なものは罰じゃなくて、許される苦しみを知ることなんじゃないかって思うんです。            
「おやすみプンプン」第五巻より抜粋
この場面は、不倫を犯した一人の男が夜にタクシーに乗って海へ行く。その時、堤防でタクシーの運転手が男に向かって言ったセリフである。
この瞬間、「あ、これって罪と罰だ」と思った。そして、このタクシーの運転手に私は共感を覚えた。
罪の自覚がないのにそれを犯す。本人はそれを罰せられるとは思わないだろう。なぜなら、本人には「罰」をいう意識はないからだ。だが、その行為は「罪」であると外的に定められる。すると、どうなるか。彼は、その行為を償うために「罰」を与えられる。
しかし、罰せられている間よりも、それを許し受け入れてくれる人間がいるということに、私は意味があると思うのだ。その人間は、本人の罰から解放されてからの帰るべき場所である。そして、罰が終わるのを待ち続けるのである。罪を犯した人間は、自分が待たれているとは思わないだろう。しかし、待っている人間が居る、というのはその罰を受けている牢獄が、彼の死に場所ではない、ということだ。
スヴィドリガイロフは、死に場所を見つけてしまった。なぜなら、本作品内で、彼を待つ人間はいなかったからだ。ラスコーリニコフ、彼には帰る場所があった。そして、何を犯しても彼を許す人間が居た。だから、彼は生きているのだ。
どうして、人間は罪を犯すのだろうか。そして、人間はどうしてそれを許し続けるのだろうか。私が現段階で考えるに、このことがドストエフスキーの本作品で言いたかったことではないだろうか、と思う。
それは、永久のテーマだ。それは、どうして人間は戦争をし続けるのだろう、そしてそれをやめては、平和協定を結び、また殺しあうのだろうかと問うのと同じことだ。
本作品で、ラスコーリニコフは罪を犯す人間として描かれる。対照的に、ソーニャは罪を許す人間として描かれている。
殺人が重い罪だとか、そういったことはどうだっていい。罰する人間がいるとかいないとかそんなこともどうだっていい。ただ、そこに「罪を犯す人間」と「許す人間」がいる。その要素だけで、作品の世界は成り立っていると言っても過言ではないだろう。
許し、それは限りない包容力、つまり愛がないと出来ない行為である。ラスコーリニコフは、罪を犯すことで一度死んだ。しかし、ソーニャによって許されることで復活するのだ。それは、人類が生まれてから幾度も繰り返してきた輪廻であると思う。この輪廻の中で、人類は生きているのだ。それは、逃れようもないものである。そこから逃れようとした人間は、自殺してしまったのだから。
ラスコーリニコフには、これからやり残していることが沢山ある。彼が生き続けること、それは人類が許され続けることなのだ、と私は思う。
細井麻奈美
ラスコーリニコフの崩壊と、罪と罰の誕生

 『罪と罰』には重苦しい空気がよどんでいる。冒頭から、「七月はじめ、めっぽう暑いさかりのある日暮れどき」とあるせいだろうか。ラスコーリニコフの苦悩とどんよりした暑さは、切り離せないものになっている。なんとなく、暗い赤と黒をまぜたような、気味の悪い色が『罪と罰』という感じがする。
 しかしエピローグでは、印象ががらりとかわる。明るくて、清潔で、輝かしい。もちろんラスコーリニコフの監獄生活はひどいものだろう。ゴキブリの浮いた食事が出るというし、受刑者からはあやうくリンチされそうになっていた。極寒のシベリヤでの労働は、明るくて輝かしいものとはほど遠いにちがいない。プリヘーリヤが亡くなったことが語られるのもエピローグだ。それでもエピローグは、私にとって、まぶしくて消え入りそうなほどの白を思わせる。なぜだろうか。
まずエピローグは、それまでの部分と異なり、ラスコーリニコフの内面にまでもぐりこんだ目線で描かれていない。時間も空間も超越した視点、いってみれば神様の視点で語られている。ラスコーリニコフの独白もなく、近況はソーニャによって説明される。だから監獄生活の生々しさや、ラスコーリニコフの思考や感情が読者に伝わってこないのだろう。
 そしてやはり、ラストの「復活」の印象があまりに強すぎる。裏切られたような気にさえなる。あのラスコーリニコフが、愛に目覚めるなんて!
 ラスコーリニコフと愛。これほど奇妙な組み合わせもない。私たちのよく知るラスコーリニコフは、周囲の人たちの愛をうるさがっていたのに。どうしてソーニャだけを愛したのだろう。神を疑いながら神を信じたがっていたラスコーリニコフに、神を感じさせてくれる人だったからだろうか。
宗教はむずかしいので、現代の私の感覚で考えてみる。私は男女を問わず、自分とは正反対の人にひかれる。どんなことでもかまわない。たとえば、自分にとって苦手なことがその人にとっては得意だとか、自分は憎んでしまったのにその人は笑っていたとか。とにかく、「自分とはちがう!」と感動できるなにかを持っている人に出会うと、尊敬がうまれる。楽になるとか、救われるといってもいい。そういう感動の体験は、だれにでもあるのではないだろうか。この感覚をラスコーリニコフにあてはめてもいいのなら、愛と復活は結びつけられる気がする。自分が本能的に必要としている相手、いっしょに生きていきたいという相手を自覚した瞬間は、たしかに「愛=復活」かもしれない。それが罪をおかした人(金貸しの老婆を嫌悪した人)と、罪をゆるす人(すべてを受け入れる人)のあいだに起きても、おかしくはない。
 それでもやはり、あのエピローグには納得がいかない。ドストエフスキーに文句を言いたいというほどではないけれど、「なんで?」と聞きたい。あのエピローグを読んで、「よかったよかった」と満足する人は少ないだろう。読者の大多数が、ラスコーリニコフの復活にむっとしたはずだ。統一感がないとか、蛇足だと主張する人もいるにちがいない。
 ラスコーリニコフの自白で小説が終わっていたら、ラスコーリニコフはラスコーリニコフのままだった。ラスコーリニコフの罪の自覚やら償いやら復活なんて知ったこっちゃない。私たちは息のつまるような小説がその緊張感を保ったまま終息したことにただ満足できる。本をとじても、真夏のペテルブルグをふらふらと歩くラスコーリニコフを思い出せる。
ところがエピローグを読んだあとでは、ラスコーリニコフ像が破たんしてしまう。違和感が残る。だからこそドストエフスキーは、あのエピローグを書いたのかもしれない。もしも本編ラストの自白シーンで物語が幕を閉じていたとしたら、ラスコーリニコフは最後まで屈辱や敗北感にさいなまれず、「かっこいい犯罪者」の印象のまま読者を納得させてしまっていた。
だがそのあとに、本編から浮き上がったようなエピローグがある。「なんで?」という疑問符が、ラスコーリニコフ像にひびを入れる。ラスコーリニコフ像の崩壊は、ラスコーリニコフの理論の崩壊だ。ここではじめて、読者のなかに「罪」と「罰」が成立する。「ラスコーリニコフが罪の意識を自覚する」=「罪と罰が生まれる」、というわけではなく、ドストエフスキーはラスコーリニコフという人物を読者に否定させることで、ラスコーリニコフの犯罪をも否定させたのではないだろうか。
ラスコーリニコフが、自分の犯罪を反省したり後悔したりすることはないだろう。涙を流すとしたら、ソーニャの愛によってにちがいない。本編を読んでいるときから、私たちはそれをうすうす感じていた。エピローグの愛による復活は、ラスコーリニコフの罪と罰を読者に実感させるために最も有効な手段として、ドストエフスキーがこの大長編の最後に施したトリックなのではないだろうか。

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