2009
07.08

清水゜ゼミ課題・ポルフィーリイとは何者か?

ドストエフスキー関係, 清水正ゼミ(「文芸研究Ⅰ」)

清水゜ゼミ課題・ポルフィーリイとは何者か?
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中野沙羅  預言者としてのポルフィーリイ 
細井麻奈美  ポルフィーリイの作戦


中野沙羅
預言者としてのポルフィーリイ 

悩み続けるラスコーリニコフの元に、しばしば現れるこのポルフィーリイという男。私は、この人物に人間味を感じなかった。ただ、彼は作者にラスコーリニコフの殺人をはっきりと宣言する役として、作中に登場している。探偵小説ならば、「犯人はおまえだ!」というホームズのようなものだ。が、しかし彼はホームズとは違う。探偵小説は、謎を解いて「あーこの人が犯人だったのか」と納得して読了するものだが、「罪と罰」は違う。
ポルフィーリイは、作中で
私はべつに、うさぎみたいにあなたを追いつめて、つかまえようと思ってやってきたわけじゃない。あなたが自白されようと、されまいと、今の私にとっちゃどうでもいいことなんです。私自身は、べつにあなたに言われるまでもなく、確信しているんですから。
と、述べている。これは、彼の傍観者的な立場が実によく表れているとおもった。追い詰めて、つまかえる訳じゃない。そのあとにあなたにいま必要なのは空気なんです、空気、空気なんです!と、述べ、ラスコーリニコフが警察へ自白する事を勧めている。ここまでは、彼は「罪を読者に対して告白するもの」としての立場を貫いていく。「どうでもいい」と言うことで、自分の宣言する事が、ラスコーリニコフに対してなんら影響を与えるものではないと思っていると考察する。単純に読者に対する、告白。これは、作者がポルフィーリイを通じて言わせているのだ。この作品の中での神としての立場である「ドストエフスキー」が彼を通してラスコーリニコフに言わせることで、彼は神からの啓示を得た「預言者」的な立場も担っている。
しかし、ラスコーリニコフが「…なんだってそう悠然と落ち着き払って、こざかしい予言などできるんです?」と尋ねた時、彼は「私はもう終わってしまった人間でしてね」と答える。終わってしまった人間??それは、全てをやりつくして抜け殻だけが残っているということだろうか。ならば、彼のやりつくしたこととは、何のことだろうか。それが、彼のラスコーリニコフの罪を告発することに限られたならば、この終わってしまった人間というのは、非常に意味深な言葉であると思う。それを言った上で、あなたはちがう。あなたには神が生を用意してくだすった。といい、ラスコーリニコフが自分とは立場が違う人間であることを述べている。つまり、ラスコーリニコフはこれからまだ始まっていくことが出来る人間なのだ。元大学生で、まだ若くて、顔もよくて、これから選択しようとすればなんだって道は開けている、そういった人間なのだ。  
しかし、殺人を犯してしまった。いや、殺人は彼にとって、自分を殺す行為だ。それは、スヴィドリガイロフが作中で最終的に自殺をすることにもつながっている。ここでは、スヴィドリガイロフの役割は違うにしても終わってしまった人間と定義しても過言ではないように思える。ラスコーリニコフは未来がある、だがスヴィドリガイロフを自殺させることで未来を断絶させる、そうすることで二人の対比を行っているのではないだろうか。
預言者としてのポルフィーリイは、予言をしておきながら「…私の言葉なんか信じないことですね…」と言い放つ。そうすることで、ラスコーリニコフ自身の判断を仰いでいるのだろうか、それとも単純に自分自身の卑屈さが出ているのだろうか。そして、あなたはわれわれなしじゃやっていけないんですと再び突き放すように悠然と言い放つ。それは、いくらラスコーリニコフが逃げても必ずその悩みの圧力に耐えかねて自首をしに舞い戻ってくるという予言だ。 それにしても、われわれと言っているが、ここでいうわれわれとは一体誰のことだろうか。ラスコーリニコフの言うこちら側の人間(うじむし共)のことだろうか。確かに、こちら側の人間がいないと、あちら側の人間は生まれない。地に這いつくばるがいるからこそ、天へ羽ばたこうとするものが浮きたつというものだ。
しかし、作中でのラスコーリニコフは苦悶し葛藤する一人の青年だ。その姿は決してうつくしくはない。むしろ、地上にはいつくばっていたいと、人間であり続けたいと強く願う青年像として私の眼には写る。
立場からすれば、殺人を告発したポルフィーリイのほうが優勢なはずなのに、なぜだかそういう気がしないのだ。それはやはり作者が、主人公と一介の預言者という立場を、リアルに描いているからだ。主人公はラスコーリニコフしかできない、しかし預言者はポルフィーリイでなくても、誰だってやってのけることが出来ると思う。そこをあえて、いち予審判事としてのポルフィーリイに託すことで、ポルフィーリイを作者自身に投影しているのではないだろうか。
登場人物はすべて作者が描くものだ、だからポルフィーリイのような作者に一番近い人間は、どの役にも当てはめることができるのではないだろうか。判事という職を作者は操って、預言者という立場に無理矢理に引き上げているように私は思うのだ。
細井麻奈美
ポルフィーリイの作戦

 ポルフィーリイはよくわからない男だ。ラスコーリニコフを追いつめていく「名探偵」の役にしておけばわかりやすいのに、そうではない。すなおに「かっこいい!」とは言えない設定となっている。
 私だったら、頭脳明晰なラスコーリニコフと対等にたたかえる相手役として、ポルフィーリイを登場させてしまいそうだ。計画的な完全犯罪を成功させようとするラスコーリニコフと、それをするどく食い止めようとするポルフィーリイ、という構図。しかしドストエフスキーはそうはしなかった。ラスコーリニコフが人並みに動揺し、偶然にたよったりミスを頻発したりする「凡人」として描かれているように、ポルフィーリイもマンガやドラマによくいるような「刑事役」とは少しちがった男として描かれている。
 ポルフィーリイの見た目は、背が低くて太っていて、「ちょっと女らしい」という。「女らしい」という表現は、ポルフィーリイを修飾することばとして、たびたびつかわれる。女らしいおじさんなんて、そうとう気持ち悪い。「人を小馬鹿にするような」という表現も、おなじくらいつかわれる。これがポルフィーリイだ。読者が期待するような、「ラスコーリニコフを追いつめていく痛快なシーン」など、演じてくれそうにない。
ポルフィーリイの内面(やりかた)にも、特徴がある。滑稽をよそおい、事件とはまったく関係のない話をするのだ。結局どこまでが彼の意識的な作戦で、どこまでがもともとの性格なのか、いまいちわからない。「これも作戦なのかな?」「本当はどこまでつかんでるんだろう?」というもやもや感は、長くつづく。だからふしぎだ。ドストエフスキーはどうして、ポルフィーリイをつかみどころのないキャラクターにしたのだろう。
ポルフィーリイの言うことでわかりやすいのは、「証拠がない」とか「逮捕して落ち着かせたくない」というものだ。その考え方は、類型的な刑事や探偵を思わせる。論理的で、冷静だけど、犯人を追う情熱はすごい、というような。聞きなれたセリフでもある。
わからないのは、その次だ。ラスコーリニコフを留置しない理由の一つ目が前述したとおりの正論なのに対し、三つ目はなんと、「自首をすすめるため」というものだった。しかも「心からあなたに好意を持っているから」。ポルフィーリイは本当にラスコーリニコフに好意を持っていたのだろうか。「予審判事」という職業が身近なものではないのでなんとも言えないが、刑事や弁護士などは、正義感がつよく、犯罪者を憎むものだという印象がある。ポルフィーリイにも、そういった性質は感じる。だから「好意を持っている」というのが本心なら、「おまえもラスコーリニコフにひかれちゃったのか!」と、ラスコーリニコフ兄妹の魔性の魅力にただただ驚かされる。
スヴィドリガイロフもそうだった。ラスコーリニコフの告白を盗み聞きしたあとでさえ、いっしょにお酒を飲んだりする。「興味深い対象だから」などという理由で。ポルフィーリイも、それまでの試すような物言いをやめ、とうとう「あなたが殺したんですよ」と言い切るのに、「好意」ゆえに自首をうながしてしまうのだ。みんながみんな、ラスコーリニコフを大好きなんて。愛情はラスコーリニコフを苦しめる。それを見抜いていたからこその、ポルフィーリイの作戦だというのだろうか。
 ポルフィーリイが重要な人物なことにはちがいないのだから、せめてラストシーンはポルフィーリイへの自白にすればいいのに、ドストエフスキーはそれすらもしない。「そういえばこんな人いたな」という、なつかしさすら覚える火薬中尉に、打ち明けさせてしまうのだ。ポルフィーリイはいつのまにか、物語のなかで出番を終えてしまっている。
 ひとつは、単純に、ありきたりな展開にしたくなかったのではないかと思う。というかそんなことを意識する以前に、ドストエフスキーが書けばありきたりな展開になんてならないのかもしれない。とにかく、一般読者の予想通りの『罪と罰』なんてつまらないから、「ポルフィーリイが何者なのか、読んでも読んでもつかめない」、というのは、物語をおもしろくする要素になっているだろう。
もうひとつは、ラスコーリニコフの自発的な行動をうながすためだとか、ソーニャやスヴィドリガイロフの役割をひきたてるため、というのもあるだろう。ポルフィーリイが真相をつきとめてしまっては、ラスコーリニコフの内面に変化が起こらないから。
ポルフィーリイは、「お互いに有利だから」という、甘言ともとれるセリフで自首をすすめた。そしてその助言どおりにラスコーリニコフが自首してきたことで、ポルフィーリイは満足感を得たのだろうか。仕事の達成感や、勝利感に酔ったのだろうか。そうだとしたら、とんだ食わせ者で、実はすごくかっこいい人になってしまう。ただやはり、『罪と罰』を二回読んだだけの私には、ポルフィーリイがどれだけ有能なのか見抜けないし、「かっこいい!」と断言できるだけの確信も持てない。

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