2009
07.08

清水ゼミ課題・スヴィドリガイロフとドゥーニャ

ドストエフスキー関係, 清水正ゼミ(「文芸研究Ⅰ」)

清水ゼミ課題・スヴィドリガイロフとドゥーニャ
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中野沙羅 スヴィドリガイロフとドゥーニャ、闇と光 
駒沢百美 スウ゛ィドリガイロフに見るドぅーニャの父親像
細井麻奈美 ラスコーリニコフ兄妹を愛する男
荒井萌美 スヴィドリガイロフとドゥーネチカ
市野瀬久美 スヴィドリガイロフとドゥーニャ
朴民雨 君は人間か?


スヴィドリガイロフとドゥーニャ、闇と光 
               
中野沙羅

6月28日午前1時47分、ようやく「罪と罰」を読み終えた。読了後、何かが私の中からふつふつと沸き上がってきたのにただ驚いた。これが一体何なのか、分からない。ようやく、読み終えたという達成感とも違う。じゃあ、何だ? と自分に問うてみる。この作品には、一度読んだだけでは消化しきれない「何か」があった。それを研究しようと、ゼミで取り上げることを恐ろしくも感じた。今回は「スヴィドリガイロフとドゥーニャ」というテーマだ。この二人の人物は主人公のラスコーリニコフよりも深い印象を私に抱かせた。
スヴィドリガイロフ、この男が銃で頭を貫くまで、私はこの男に一種の親近感を抱いていた。主人公のラスコーリニコフよりも、近いと思った。彼が持ち合せるのは、ひたすらに莫大な財産と彼なりの自由を得るための決心(決意?)だ。金を裏付けにして、彼は自分の好きなように行動する。スヴィドリガイロフとルージンを比較したとき、彼らは「金」という一種の共通点を持ち合せているとおもった。確かに、「金」があれば今は売っているものならば何だって買えてしまう。ただ、どうしても買うことが出来ないものがある。それは、人の純潔や心だ。それらを代表する登場人物としてドゥーニャが挙げられる。
スヴィドリガイロフとドゥーニャ、私の印象に残ったのはやはりドゥーニャが銃を持ち、引き金に手をかけて、スヴィドリガイロフに銃口を向けるシーンだ。その時、私は脳裏にさまざまとその光景が浮かんだ。まず、浮かんだのはドゥーニャの目だ。それから、両手であの黒い銃を持っている、その手は震えている。スヴィドリガイロフは薄く微笑みながら、近づく。発砲。頭をかすり、なおも彼はドゥーニャに近づく。
あの時、もしスヴィドリガイロフがドゥーニャを抱いていたならば、彼は死んでいなかっただろうか、と考えてしまう。闇が、純真の塊にその欲望を打ち込むことができたなら、彼はその光に浄化されたのだろうか。闇は光に近づく。それは、人間が明かりの元に集ってくるのに似ている。夜の闇の中、安っぽい電燈の元に人は集まり、歌い、踊り、酒を飲む。そして、孤独のために集ってきた光の元に他者を求める。他者を求める、それは自分の中にある孤独を、虚無を、拭い暮れない不安を、その他人の中に見出して惹かれあっていく。しかし、いくら闇が光を求めても、黒は白と永久に交わることはない。スヴィドリガイロフがドゥーニャと交わることは、この作品の中では少なくとも語られることではないのだ、と私は思う。
私がスヴィドリガイロフに抱いた親近感、これは何なのだろうかと考えてみる。
他人がいくら他人を恋愛しても、そこには拭いきれない虚無感がある。それは、他人と自分が一対のものではないからなのだろう。一体になっても、充足感を得られても、どうしようもなく孤独が付きまとう。それは、人間が生まれて来てから持ち合せてきた必要不可欠な「寂しさ」なのだろうか。スヴィドリガイロフは、どうしようもなくドゥーニャに惹かれた。それは、自分の中に存在する「寂しさ」を紛らわすためだからだろうか。
奇妙で滑稽なのは、おれがだれにたいしてもまだ強い憎しみを持ったことがない点だ。
彼は、自分が闇であることを自覚しながら「他人に対する憎しみ」を持ったことがないのを、疑問に思う。否、この作中の登場人物たちは憎しみ、という感情をもつ人物がルージン以外に出てこないと思った。カチェリーナがマルメラードフに対して抱くのは、どうしようもない愛情だし、ルージンでさえも、憎たらしげに苛々するだけで「憎悪」というほどの感情を抱いてはいない。彼の場合は、悔しくてどうやったらドゥーニャに尊敬されるかという点のみで考えている。
ラスコーリニコフは死ななかった。同じ殺人者であるスヴィドリガイロフは自殺した。この違いは何なのだろうか。最終的に、ラスコーリニコフはソーニャと愛し合うようになる。しかし、彼には誰もいなかった。生きていても、彼を待ち続ける人物は誰もいなかったのだ。恐怖の対象になることはあっても。彼が「金」で得ることができようと思ったものは、ことごとく彼を拒絶し最終的に彼を死へと追い込んだのだ。人は光に惹かれることはあっても、好んで闇に行こうとするものは、居ない。
ドゥーニャの、その無垢な魂に私も惹かれつつあった。献身的なドゥーニャ。それは、病的なまでに美しい。銃を持った彼女は気高く、私の脳裏にその姿を刻んだ。そして、「人を殺すためだけの道具」としての銃は、この作品内で際立った存在だとおもった。斧は元来の使い道は、樹を斬るものだ、決して人の頭を割るものではない。銃をドゥーニャに持たせることで、筆者は何を伝えたかったのだろうか。当たらない銃弾、自身で自分の頭に引き金を引く男。ドゥーニャは、決して殺意を持ってスヴィドリガイロフに銃口を向けた訳ではない。その銃は、あがないことのできない「力」への「抵抗」だ。自分を守るすべとしての、武器だ。ラスコーリニコフが持っていた斧にも、純粋な殺意があったとは私は思えない。だが、「殺す道具」としてのこの作品内でのこの二つの道具は、作品内から全く違う印象を抱かせる、と思う。
対照的に描かれる二人。光を求めた闇は、自分自身で命を絶った。
光はそれを知らぬまま、そこにあり続ける。それを私は残酷にも思うのだ。
駒沢百美
スウ゛ィドリガイロフに見るドぅーニャの父親像

 正直、スウ゛ィドリガイロフは私の中で印象の薄いキャラクターだった。ドゥーニャとの一件も「どこにでもありそうなセクハラ事件」として片付けてしまっていた。だから、今回の課題が出されたとき正直驚いた。あの二人の関係が何か大きな意味をもつのだろうか? 疑問に思いながら、もう一度プリへーリヤの手紙に書かれたエピソードを注意深く読み返してみた。すると、思いもよらないものがそこに浮かび上がったのだ。―ドゥーニャとロージャの父親の姿だ。
 執拗な嫌がらせを繰り返すスウ゛ィドリガイロフに、ドゥーニャは激越な内容の手紙を渡す。実は最初に読んだときからこの部分に疑問を持っていた。ドゥーニャは我慢強く、ちょっとやそっとのことじゃ弱音を吐かない上に取り乱すことは滅多にないという。(プリヘーリヤの言うことなので個人的にはあまり信用したくないが)そんな彼女が文句を書き連ねた手紙を送りつけるほど、スウ゛ィドリガイロフは酷いことをしていたのだろうか。せいぜい言葉の暴力程度だったのではないかと思う。もし、それ以上の行き過ぎた行為、つまり性的交渉にまで及んでいたとしたら、スウ゛ィドリガイロフは自らの行為であると自白しなかっただろう。元軍人である彼はそれなりのプライドを持っているだろうし、妻に知られてしまったらもう表を歩けなくなってしまうからだ。その前に妻がとんでもないヒステリックを起こして倒れてしまうかもしれない。ところがスウ゛ィドリガイロフはドゥーニャに疑いがかかった時、彼女を庇うために素直に懺悔をしている。多少の傷はあるだろうが、彼の世間的評価に致命的な傷がつかないほどの内容であったことがわかる。我慢強いと言われるドゥーニャはそれ位のことで手紙を渡したのだろうか。それとも何か他に意図があったのだろうか。
 私が出した答えは後者である。もう一度、プリへーリヤの言葉で書かれた手紙の内容を読み返してみた。
 「この手紙は、マルファ・ペトローウ゛ナに対するあの人の道に外れた行いを責め、人の子の父親であり一家の主人でありながら、それでなくても不仕合わせな頼りない娘を苦しめたり、不幸にしたりするのは、どれほど見下げはてた振舞かということを、はっきり指摘したもので、憤りの情にみちた激越な文章でした。」
 まず「人の子の父親であり一家の主人でありながら」という部分が引っかかった。ただ単に自分に対する嫌がらせを咎めるだけなら、こんなことは書かないはずである。ドゥーニャは自分に嫌がらせをしたスウ゛ィドリガイロフを責めたのではなく、父親として、一家の主としての彼を責めたのだ。家庭を持った人間でありながら奉公に来た若い娘にうつつを抜かすとは何と情けないことか、と。憤りの情だけではなく哀れみも感じてしまうのは私だけだろうか。
 ここから、ドゥーニャは父親という存在に特別な感情を抱いており、スウ゛ィドリガイロフと重なったために思わず手紙を書いたのではないかと思った。「特別な感情」とは勿論、憎悪や嫌悪やそういった類のマイナスの感情である。並大抵のそれではなく、もっと大きくて彼女が一生忘れられないような。すると、ドゥーニャの父親とは一体どんな人物なのか、という疑問に達するが私が読んでいる段階で描写は一切出てきていない。というか、全編を通して触れられていないと聞いた。ドストエフスキーは彼女の、そしてロージャの父親について何か隠したいことがあったのだろうか。それとも、隠すことに何か意味があったのだろうか。そう考えるとますます怪しく思えてきてしまう。私は、二人の父親は妻や子供たちに暴力を振るい、酒と女に溺れるようどうしようもない悪漢だったのだろうと思った。そして若い女に手を出し、身の破滅を招いてしまったのだろう。ドゥーニャはそんな父親のことを酷く恥ずかしく感じており、我慢強い彼女の唯一の弱点だったのではないか。そして、ずっと年下の自分に手を出したスウ゛ィドリガイロフに父親が重なったことで、溜めてきた思いが溢れてしまい、激しい内容の手紙を書いた。これはスウ゛ィドリガイロフだけではなく、父親に宛てたものであると思う。既に亡くなっているようなので、決して届かないものではあるけれど。いや、だからこそドゥーニャは書いたのかもしれない。
 何でもないように見えたドゥーニャとスウ゛ィドリガイロフの関係がここまで大きな意味を持つとは驚いた。ドストエフスキーの偉大さを改めて痛感した。
細井麻奈美
ラスコーリニコフ兄妹を愛する男

「スヴィドリガイロフとドゥーニャ」という課題のために、改めて『罪と罰』を読み返してみたが、中巻の後半までいってもスヴィドリガイロフがほとんど出てこないので困ってしまった。上巻では名前だけの登場となるスヴィドリガイロフが、ラスコーリニコフの前にはじめて姿をあらわすのが、中巻の半ば。ソーニャをつけるなぞの紳士として登場する。
 手紙のなかのスヴィドリガイロフは、ただのスケベじじいといった感じで、奥さんがいるのにドゥーニャに手を出そうとしてサイテーな印象しかない。ところが実際、ペテルブルクにやってきたスヴィドリガイロフは、けっこう魅力的なヤツだった。サイテーなことにはかわりないのだけれど、手紙を読んで抱いていたイメージよりも、人としていきいきしていた。
 まず、読んでいて年齢がわからなくなるくらい、若い。プリヘーリヤの手紙のなかで、スヴィドリガイロフは、ちょっと哀れなにおいがした。いいおっさんが若い娘を追いかけまわして、嫌がられて、あげく奥さんにバレて、近所でうわさになって……。まぁよくあることだな、とあきれていた。現代日本でも、中年男のセクハラだとか、既婚男性の女性問題はしょっちゅう耳にするし、たぶん古今東西どこにでもあることなのだろう。だからそのイメージのまま、下品で気持ち悪いおじさんを想像していた。
しかし読者の前に詳細が披露されたスヴィドリガイロフは、「しゃれたステッキ」に「真新しい手袋」をはめた、「年よりもはるかに若く見える男」だった。おもしろいのがラスコーリニコフとの会話で、年長者が若者に語りかける姿勢がまるでない。プリヘーリヤとラスコーリニコフのあいだには、親子なのだからあたりまえかもしれないが、世代の差を感じる。二人の会話や、考え方や、接し方に、距離を感じる。しかしすっかりくたびれたようなプリヘーリヤが意外にまだ四十三歳なのに対し、スヴィドリガイロフは五十歳くらい。それでもラスコーリニコフと対等にしゃべるのだ。
「私はいったい、『罪と罰』の登場人物のなかでだれが一番好きなんだろう」と考えたとき、物語前半ではとくに思い浮かばなかった。ラズミーヒンは単純で鈍感で俗っぽいし、ラスコーリニコフは身近にいたら心配だから好きになっちゃいそうだけど、たいそうな理論をふりまわしているわりにはオドオドして善良なところが青臭い。ドゥーニャは人の気持ちを読みすぎる賢さがいけ好かない。ソーニャはまだほとんど発言していない。そんなふうに思っていたら、スヴィドリガイロフが登場した。
何人か人を死なせているというところはこわいが、「この人けっこう好きだな」、と思わせるものがある。ラズミーヒンやプリヘーリヤをはじめ、「なんでこいつらこんなとんちんかんなことしか言わないんだろう」という登場人物ばかりなので、物語をとおしてラスコーリニコフを追いつづけてきたためにラスコーリニコフの一番の理解者になりつつあった私たち読者は、もどかしかった。そこにスヴィドリガイロフがぽんと投げ込まれたので、それまでのズレた会話はわざとだったのか、とドストエフスキーの計算に気づかされた。母娘とラズミーヒンをまじえての茶番のあとでスヴィドリガイロフとの会話になるので、より効果的だ。それまでのラスコーリニコフが、いかにうわべだけの会話をしていたのかがよくわかる。
「ぼくは来世なんで信じていません」とラスコーリニコフが言う。ほかの登場人物なら、ラスコーリニコフにとまどったり、引いたりするだろう。たとえばラズミーヒンなら、「なんだってきみはそんなことを言うんだい!」「きみは病気なんだ!」などと頭ごなしに全否定しそうだ。しかしスヴィドリガイロフはちゃんと返してくれる。あ、はじめてラスコーリニコフが会話してる、と妙にうれしくなった。
スヴィドリガイロフは幽霊の話ばかりする。幽霊を何度も目撃しているスヴィドリガイロフは、彼の説にしたがえば、「べつの世界との接触」が多いのだろう。そこがスヴィドリガイロフの強烈な魅力にちがいない。殺したはずの老婆と夢のなかで会っているラスコーリニコフもやはり、べつの世界に侵食されはじめているといえる。だからふたりはひかれあうのだろう。マルファ・ペトローヴナを死なせたことに関して「良心に一点のくもりもない」と言っているところも、わざとらしいくらいラスコーリニコフと似ている。
以前「母の手紙」の課題で、私がドゥーニャだったらルージンと結婚する、と書いた。家庭のあるスケベじじいに手を出されて困ってるなら、独身の男にきちんと求婚されたほうがましだと思ったからだ。しかしルージンが「尊敬できない」どころか、ラスコーリニコフ一家&ラズミーヒンから総スカンを食って帰った今(しかも彼がそのあと卑劣な事件を起こすことは覚えている)、スヴィドリガイロフのほうがよっぽど魅力的だ。それでもダンナに自殺されちゃかなわないし、殴り殺されるのはもっと嫌だから、スヴィドリガイロフとは結婚したくないけれど。それでもラズミーヒンよりはいい。
 ドゥーニャにもラスコーリニコフ的なところがある。実際プリヘーリヤは二人を「瓜二つ」だと言っている。「憂鬱症で、気むずかしがりやで、かっとなりやすくて、気位が高くて、そのくせ心は大きい」と。ラズミーヒンはたぶんドゥーニャを一生理解しないだろう。ラズミーヒンがラスコーリニコフ兄妹につきまとうのは、ミーハーな好奇心からという気がする。ルージンは結婚に幻想を抱いているだけでドゥーニャの人格をまったく無視しているので論外。となると、スヴィドリガイロフが一番、ドゥーニャを理解していたのではないか、ということになる。スヴィドリガイロフが好色漢なのにちがいはない。しかし「若いから」とか「美人だから」とかじゃなく、本質を見抜いていたのはスヴィドリガイロフではないだろうか。スヴィドリガイロフはラスコーリニコフにひかれるのと同じように、ドゥーニャにひかれていたのだ。
スヴィドリガイロフの気持ちに、「聡明」としきりに繰り返されるドゥーニャは、どれくらい気づいていたのだろうか。「聡明」なドゥーニャは、スヴィドリガイロフの危険さに気づいていたからこそ、彼から逃げ、いかにも安全そうなラズミーヒンのもとへいったのかもしれない。
荒井萌美
スヴィドリガイロフとドゥーネチカ

私が読み進めたところまでだと、スヴィドリガイロフが出てくる場面といえば母親の手紙にについて少し書いてある程度である。これからまだ活躍するキャラクターなのだろうか。母親の手紙から読み取れるスヴィドリガイロフにたいする思いはこれといってない。若い女の子が住み込みで働きにきていて、とても性格が良い。ラスコールニコフは顔が良いという記述もあるので、きっと妹のドゥーネチカも可愛い顔しているのだと思う。妻子持ちだというのにも関わらず、そんなドゥーネチカに心を打たれてしまう。最初は隠そうと懸命だが、意地悪というなんとも幼稚なものでしか隠せずに、遂に想いを認め彼女にアタックしてしまう。非道徳的な行いであるし、とても誉めたものではないが、彼の気持ちは誰にだって理解できるのではないだろうか。その後も、彼女に迷惑をかけたということで自分から奥さんに告白をし、反省しているように見受けられるし、とても人間味のある人物だと思う。若い女の子に恋をするなんて、多少気持ち悪いと思ってしまう感覚もあるが、その後にきちんと反省しているので(奥さんがあそこまでしなければ反省など出来なかったかもしれないが)私は許容できる。そして、ドゥーネチカは本当によくできた人間である。兄のために働いているというだけでも十分に伝わるが、スヴィドリガイロフへの対応が正にお手本とでもいうべきものであるように思える。実際に、もし私がドゥーネチカの立場だったら、きっと上手く断ることも出来ずに、大人しく言う事を聞いてしまうか、感情的になって殴り跳ばしているかのどちらかだと思う。ただ、親への手紙で愚痴をこぼせない、という点では私も同じかもしれない。母親に心配をかけたくないというよりは、想いを改めて文章にしたり、口にするということは余計負担になるからである。ドゥーネチカも私と同じだろうか。自分に正直に、けれどスヴィドリガイロフにも失礼のないように断ることのできたドゥーネチカは偉いと思う。万が一、もしドゥーネチカがスヴィドリガイロフに対して好意を持っていたのに道徳的立場からスヴィドリガイロフの告白を断り、家族のためにペトローヴィッチと婚約したとしたら、なんという悲恋かとも考えたが、いまいちイメージが湧かなかったので、そんなことはないのだと思う。もう一度言う、そんなことはないのだと思う。スヴィドリガイロフにしたって、若い女の子が傍にいたので血迷ってしまっただけで、本来はちゃんとした人なのだと思う。と、読みの浅い私に今言えることはこれくらいなのだが、授業を受けてもっとこの二人についてちゃんと受け止めることができたら、もう一度このテーマで書いてみようと思います。
市野瀬久美
スヴィドリガイロフとドゥーニャ

「罪と罰」の登場人物を仮に性別で分けるとして、なぜか男は不誠実でどうしようもない奴ばかりだ。
スヴィドリガイロフも、言うまでも無くその中の一人である。どのくらい酷い人間なのかというと、作
中で「半気ちがいのわからずや」と評されるぐらいだ(しかもそれを言ったのはあの心優しきプリヘー
リヤ)。残念ながら、そう言われてしまうのも無理もない話だと思う。
スヴィドリガイロフは物語冒頭のプリヘーリヤの手紙の中で初登場するが、私はそれを読んだ時、一体
どこで彼は理性を落としてきてしまったのかと思った。子供のまま中身が成長していないかのようだっ
たからだ。乱暴な仕打ちをしてみたり、馬鹿にしたような素振りで相手の気を引こうとするなんて、ま
るで小学生男子のようであまりにも幼稚すぎる。むしろ、小学生でもこんなことはしないかもしれない
。しかも、年輩で一家の父であるにも関わらず、若いドゥーニャに心を寄せあまつさえ駆け落ちを申し
込むなんて。恋心を持つことそれ自体を否定する気はないが、スヴィドリガイロフの立場から考えると
あまりにも自己中心的過ぎる行為としか思えない。自分のことしか考えていない証拠だろう。
そんな男に翻弄され、その妻には勘違いでありもしない事実をでっち上げられ、被害者であるにも関わ
らず散々辱められたドゥーニャ。その後状況が良い方向へ向かったからといって、彼女自身の幸せが満
たされたわけではない(と思う)。彼女には、なぜか不幸が付きまとう。
そこで私は、一つの事実に気がついた。「罪と罰」に出てくる人間は男にしろ女にしろ、皆性格や思想
や何もかもが極端なのだ。「罪と罰」に出てくる若い女は大体がそうで、ドゥーニャもまた然りだが、
彼女らは清らかで心に一転の曇りも無い。何者にも惑わされず、身体は汚されようともその精神まで汚
されることはなく、確たる信念を貫き通す。どんなに苦しい状況でも、人に愚痴や不平不満をこぼさな
い。その清らかさは少し異常なぐらいである。ドゥーニャだってそうだ。スヴィドリガイロフに言い寄
られようが、その妻に罵られようが、街中に根も葉もない噂を流され外出もままならなくなろうが、た
だじっと我慢し耐えるばかりだ。なぜこんなことが可能なのだろう。私なら絶対に無理だろうし、スヴ
ィドリガイロフに報復をしないとも限らない。
彼女の類まれなる清らかさが表現されればされるほど、スヴィドリガイロフの醜さが際立つ。この二人
は共に苦しい局面に立ちながら全く対照的で、まるで陰と陽・光と影のようだ。けれど、現代社会にも
この二人のような関係性を持つ人は、案外多いのかもしれない。内容だけ見れば、「雇い主に迫られる
アルバイトの女の子・借金があって強く反発することができない・雇い主の妻に誤解されいじめられる
」なんていかにもありそうで、昼ドラや少女漫画に出てきそうな話だ。
いや、この場合「この二人」のようではなく、「この男」のような人と言った方がいいかもしれない。
ドゥーニャのような、心の底から清らかなる乙女は、残念ながらこの現代社会においてはそうそういな
いと考えてよいだろうから。
朴民雨 
君は人間か?

人間的なことは何よらず私に無縁でない
人は矛盾である。
金は人間の上に立つ。
スヴィドリガイロフの名前をはじめて聞いたのはプリヘーリヤの手紙の中だった。
言うまでもない、奇妙な雰囲気を漏らしているエロおじさんが、ただの馬鹿かはじめのうちは分からなかった。
ラスコーリニコフが殺人をしたり、段々極端な話になったり。
その後、名前をすっかり忘れてしまった。
後半にまた登場し、大きな役割するスヴィドリガイロフは罪と罰の中で一番今の時代を生きている人間に近い人であるのを、本を読みながら感じた。
メチャクチャになっている本。
プリヘーリヤは息子の狂っている状態を耐えられないのではないかと見える。
ドゥーニャは色んな男を蹴ることに熱心である。
ポルフィーリイはペンキ屋の人が自首して来て、がっかりしている。
ラズミーヒンは出版社の夢とドゥーニャとのことで期待に膨れている。
ソーニャはラスコーリニコフが人殺しだということを知り、一晩中うなされた。
(この話は彼の登場後の話もある)
手の中が汗だらけになっている時が何回もあった。
すべての人が可笑しいと思った私は、自分のことを振り返って見て人間は元々表と裏が違い、その中の人間が本物の人間ではないかと考えた。
スヴィドリガイロフはラスコーリニコフとは根本的に違う人である。
家に突然来て自分の話を述べる時には、若干可笑しい人ではないかと思った。
その後ルージンから彼の話を聞くたびに全く違う印象をもった。
ラスコーリニコフと比べたら月の向こう側みたいな人。
一番人間らしいが一番認めたくない人間の姿を見ていると思い、辛くなった。
すべての登場人物が後半に差し掛かっている今は、生きている人間みたいに感じている。
その中のスヴィドリガイロフはドゥーニヤと元愛人(?)で一から十まで本能に素直な人である。
末妻を殺したことによって妻に弱点を握られ、長い間奴隷のまま生きてきた。
その間に様々な女と関係を持つ。
きっとドゥーニャとも1回もしくは2~3回の長くない関係を持ったと思う。
ばれる前までは。
そして、ああいうことがあって、彼はドゥーニャに会いにペテルブルグへ来る。
殺したその人が夢に現れたり、幽霊で見たりする。
しかし、彼は罪の意識を感じないドゥーニャに蹴られたあと自殺をする。
人と人は話し合いながら、相手を理解しつつ生きていくというのは、本に載せている甘い言葉である。
実際にテレビやラジオを一日だけ見ても、想像もできない事件が次々報道されている。
人間は相手を騙したり騙されたりしながら生きる。
スヴィドリガイロフは何者?
ということが最初の印象である。
スヴィドリガイロフは変態である。
スヴィドリガイロフは人殺しである。
スヴィドリガイロフは自殺をする。
スヴィドリガイロフはドゥーニャを愛した。
スヴィドリガイロフは現実の人間ではないかと私は思った。
君は人間か。
人間ではなかったら、君は何者かというのがスヴィドリガイロフを見ているうちの疑問だった。
私はできれば本を読んでいるうちに他人と話すことが好きではない人である。
それは先入観が入るからである。
今、罪と罰の本が終わろうとしている。
生まれてから今まで読んだ本の中で、読んでいるうちに他人とこんなに多く話したことはない。
そして、本を読み終わってもないのに登場人物を評価したり、鑑賞を書いたこともなかった。
この経験は今私に新しい刺激を与えている。
良いかどうかはまだわらかない。

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