井村恭一の「睡眠プール」

清水正の文芸時評

今やすべての人間が睡眠中
 読んですぐに批評したくなる作品と、味わっていたいだけの作品がある。後者の一つにつげ義春の「ほんやら洞のべんさん」があった。「ねじ式」や「ゲンセンカン主人」などはどんなにしつこく解読しても許されるが、「峠の犬」や「紅い花」などはそっと味わって読んだ方がいいと長いこと思っていた。そんなわたしがつげ義春のマンガ批評の本を四冊も出してしまった。それだけでも足りず、今秋刊行のマンガ論集に何編かのつげ論も収録する予定である。その中に「ほんやら洞のべんさん」論もある。実はこの作品に関しては、何度か批評を試みたのだが、そのつど断念した。読む行為が〈批評〉を退けてしまうのだ。今回、一コマ絵ごとに解読をすすめたことで、このマンガに隠されていた重要なことを発見した。読んで味わっていればいいと思うその作品が、実は批評を深く要請しているということもある。
 町はずれにある鄙びた商人宿の主人であるべんさんは、半年近くも客が来ず、やけになって酒を呑んでいる。べんさんは客が訪れたその日、一度も目を開けない。読者が見るのは、両目を瞑ったまま客と話し、酒を呑みつづけるべんさんである。「酒を飲め、こう悲しみの多い人生は/眠るか酔うかして過ごしたがよかろう」と歌ったのはペルシヤの詩人オマル・ハイヤームであるが、まさにべんさんはその通りに生きている。このマンガの最終コマで「お前さまはべらべらとよくしゃべるね」と言ったきり、背を向けて寝てしまったべんさんが翌日立ち上がってくる保証はどこにもない。東北越後の鳥追い祭の日に展開された叙情性溢れるマンガ世界が実は主人公の再生不可能な絶望を深く抱え込んでいる。つげ義春はコマ絵の細部にこだわり、分かる者だけに分かるように、この作品を解く重要な鍵をさりげなく描いている。
 井村恭一の「睡眠プール」(「文學界」8月号)は二回読んだが、はっきりとした像を結ばない。テーマは題名に端的に表れているように〈睡眠〉(母胎回帰)であるが、このテーマに付随する〈父殺し〉を曖昧にするために敢えて肝心の場面をぼかしたのかも知れない。養殖のトッカリ(体長二十センチ、高温の水域に生息。弱った豚や犬を食べることもあるので「温水の貪食者」とも呼ばれる)に〈父〉を食べさせる儀式、そのトッカリを〈眠り協会〉の連中が食べるシーンなど、鮮明に描かれているにもかかわらず、今一つはっきりとしたイメージに凝集されないのはどうしたことか。本文中に「父も母も、温室のトッカリもはっきりとした像をもっていなかった。眠り協会もそうだった。記憶のなかで、わたしはひどい近眼状態だった」という記述がある。そう、この小説は〈近眼状態〉の〈わたし〉が小説を書いている、そのために作品の光景に靄がかかってしまうのだ。ただ一つはっきりしているのは「弱い、歯ごたえのない宗教」である〈眠り協会〉のメンバーたちが、老若男女を問わず「なにもかも捨ててさっぱりと消え去りたい」「眠ったまま、きれいさっぱりと消え去りたい」と願っていること、この願いが〈眠り協会〉会員のみならず大半の現代人の願いでもあるということである。ほんやら洞のべんさんの眠りは、今再びの覚醒など望んではいない。しかし、この心的状態を〈ニヒリズム〉や〈絶望〉という言葉に置き換えることもできない。作者に言わせれば、今やすべての人間が意識するしないにかかわらず、実は〈睡眠プール〉につかっているということになろうか。
 同じく文學界に発表された松野大介の「非常階段」は読む者の胸にせつなくも涼風を吹き込んでくる。〈私〉こと高原は、上司である宮下の口利きで化粧品会社に勤めている。若き日の高原はサラリーマンになることを鼻で笑い飛ばし、音楽活動に集中するために大学を中退する。が、バンドブームは瞬く間に消滅、高原はゲームセンター、牛丼屋などでアルバイト、三十を過ぎて粗大ゴミ処理工場に、その後居酒屋で働いている時に宮下と再会する。現在の上司宮下は大学時代の友人で、高原の恋人であった恭子と結婚する。高原は宮下を校舎の屋上に呼び出し血が大量に流れるまで殴り続けた。高原はそんなこともあり、宮下は自分を部下にして復讐しているのではないかと疑っている。宮下は浮気がばれて、恭子とは別居状態にある。彼は中学生の娘里美が自分をどう思っているのか、その様子をさぐらせるため高原を恭子のアパートに行かせる。高原は恭子に里美のホームページ作りを指導する仕事を頼まれ、週に一回、里美と会うことになる。三十七歳の高原は、やがて〈非常階段〉という非難場所で一人、高速道路に向かってサックスの練習をする里美に特別な感情を抱くようになる。彼は里美の無防備な後ろ姿に、なぜか十代の頃の自分が蘇るような気がし「私は少女を擦り抜けて吹き込む風の中に埋もれたくなった」と記す。彼はいつの間にか、夕暮れ迫る非常階段でサックスを吹く里美を思い浮かべて心の安らぎを感じるようになる。若い頃の夢に挫折し、最も軽蔑していたサラリーマンとなった中年男が、中学生の里美に寄せる初恋のようなうぶな感情は読む者に苦く切ない風を送ってくる。この小説は〈青春の終焉〉を自らに刻印しなければならなかった者が、夢を追う〈青春〉の直中にある者の〈純粋〉に魅了されていく、その心の微妙な抑制された甘苦い感情を見事に描き出した傑作である。作品の中で吐露されなかった里美の透明感溢れる悲しい抑制された内面の声も、読者の胸にせつなく響いてくる。里美という多感な女の子は、浮気して別居中の〈あの人〉(父親)や、非常階段で接吻した高原の〈悲しみ〉を受入れ、知らんぷりできるほどに〈成熟〉している。里美は言わば精一杯背伸びした菩薩(母性)であり、この菩薩によって厳しい現実世界を生きる宮下も高原も救われたと言えようか。
 一気に読ませたのは原田宗典の「劇場の神様」(「新潮」8月号)である。盗癖のある須賀一郎は二十一歳、「近藤幸夫ショー」の舞台に出演している。大部屋で最年長の役者角南源八は礼儀やしきたりに煩いので皆から嫌われている。部屋頭の城之内オサムは座長の近藤からもらった贋のローレックスをそれとも知らずに仲間に自慢している。一郎は劇場の神棚に毎日「どうか盗みませんように」と祈願していたが、「ようやっと初日が出そう」なある日、城之内のローレックスを盗み、それを角南のせいにしようと謀る。作者は「公演中最高の舞台」が繰り広げられる場面を息もつかせぬ達者な筆捌きで描きだしている。初日が出た日の役者たちの喜び、その感動がリアルタイムでひしひしと伝わってくる。それだけでも十分に読み応えがあるが、そこに一郎の〈盗み〉を絡ませることで、作品世界に緊迫感を漲らせることに成功している。〈盗み〉を目撃していた角南は、芝居が終わった後、一郎に「おふくろは何度でも許すけどな、仏の顔も三度まで。劇場の神様の顔は一度きりだ。よく覚えとけ」と言い残して去っていく。この小説そのものが、〈劇場の神様〉が降りてきたような密度の濃い、テンポのある〈芝居〉になっていた。最後の場面ではホロリとさせられた。読みごたえのある、読後さわやかな気分になる、エンターテインメントとしてもすばらしい作品であった。
(「図書新聞」2002年8月10日)

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