2009
07.01

寺崎浩の思い出

ドストエフスキー関係, 交友録, 大学関係

寺崎浩の思い出
清水正

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寺崎浩の思い出
清水正

2009年6月19日
わたしが日本大学芸術学部の文芸学科にティーチングアシスタントして残
ったのは学部を卒業した昭和四十七年の五月からであった。寺崎浩は小説家
で、当時文芸学科の非常勤講師をしていた。わたしは在学中、寺崎浩の授業
をとってはいなかった。わたしは大学の学科事務室の奥に衝立を作ってそこ
に閉じこもった。もっぱら、そこでドストエフスキーを読み、批評文を書い
ていた。当時はドストエフスキーの第二作品『分身』について批評していた。
寺崎浩とは学科事務室で、講義の合間に話すことが多かった。
寺崎浩はじつに寡黙なかたで、こちらから話しかけなければほとんど口を
開くことはなかった。しかし、わたしが質問したことに関しては丁寧に応え
てくれた。坂口安吾とドストエフスキーについて書いているとき、寺崎浩は
師匠の横光利一が、一時『悪霊』に凝っていて、彼を訪ねて来た者すべてに
『悪霊』を勧めていたという話を聞かせてくれた。横光利一に限らず、当時
の小説家はドストエフスキーの小説のなかでも、特に『悪霊』に惹かれたら
しい。坂口安吾は『悪霊』の影響を受けて『吹雪物語』を書いて挫折した。
横光利一は『悪霊』を研究して、語り手の問題を追求して「四人称」を提起
した。坂口安吾はそれを端的に「無形の説話者」として規定した。しかし、
いくら『悪霊』の叙述構造を分析しても、所詮『悪霊』の作品世界に肉薄す
ることはできなかった。
寺崎浩は横光利一が『悪霊』を熟読していたことを教えてくれたが、寺崎
自身が『悪霊』をどのように読んだかについてはいっさい触れることはなか
った。従って寺崎浩とドストエフスキーに関して議論するというようなこと
はまったくなかった。ことドストエフスキーに関しては、わたしは昔も今も、
ひとの話をきくということがない。気がつけば、ひとり熱くなってしゃべり
続けている。自分では記憶にないが、おそらく寺崎浩に向かっても、饒舌に
ドストエフスキーを語っていたに違いない。
耳に残ったのは、寺崎浩の「坂口君は……」といった言葉である。わたし
にとって坂口安吾や太宰治は教科書に載っている文学史上の小説家であった
が、そういった小説家をクン呼びする寺崎浩がなんかピンとこなかった。家
に帰って講談社が出していた日本文学全集の一冊を繙いたら、そこに太宰や
坂口安吾と並んで寺崎浩が写っていた。なんと年譜を確認すると、寺崎浩は
彼ら二人の先輩であった。このときから、妙に太宰や坂口安吾が現実味を帯
びてきた。
寺崎浩は、わたしが『分身』論を書くために、どうしても十九世紀ロシア
のぺテルブルクの地図が見たいという話をすると、ロシア大使館に勤めてい
たご子息を通して、わざわざそれを入手して手渡してくれた。
当時、卒業論文は助手、副手が講師の先生方の自宅まで手持ちで運んでい
た。卒業論文審査は二人の先生が担当するので、一人の先生の自宅を二度訪
ねることになる。ある日、わたしは寺崎浩ゼミの卒論を、同じ西武線の電車
に乗って運ぶことになった。寺崎浩は大泉学園に住んでいたので、江古田か
ら三十分ほど二人きりで話すことができた。
「小林秀雄は知ってますか」と訊くと、「小林さんと、酒の席で一緒のと
き、「君、女をどう思うかね」ときかれました」と言う。「どう答えたんで
すか」ときき返すと、「いやあ、そんなこと、いきなり言われてもね」と言
って黙ってしまう。小林秀雄が二十八歳で寺崎浩が二十六歳の頃の話である。
小林秀雄は『Xへの手紙』で「女は俺の成熟する場所だった」と臆面もな
く書いた文芸批評家である。中原中也の同棲相手であった長谷川泰子を奪っ
ておきながら、その女を捨てた男である。自殺を考えたりしながら、自らの
三角関係の体験を踏まえてドストエフスキーの文学世界に入り込んでいった
批評家としても知られている。
2009年6月20日(土曜)
当時、わたしにとって小林秀雄は乗り越えなければならない批評家であっ
た。小林に「女とは何か」と聞かれて、黙っていた寺崎浩が不甲斐なくも感
じて、わたしは話題を変えた。
寺崎浩の書斎は二階にあった。藤作りの椅子に坐って、わたしは娘さんが
運んでくれた日本酒を飲みながら、「唄を忘れたカナリヤは 後の山に棄て
ましょか。いえ いえ それはなりませぬ」という西条八十の詞に噛みついた。
寺崎浩は小説を横光利一に、作詞を西条八十に師事していたことを知ってい
たので、酒の勢いをかりて、心に思っていたことを遠慮なく吐きだした。
当時、わたしの唯一の友人は高知から日芸の文芸学科に入学した山形敬介
ひとりで、彼は十七歳の時に処女詩集『疑陽性』を刊行していた。ランボー
とル・クレジオに心酔し、文芸に入ってからは詩やシュールな短編を書いて
いた。わたしは詩人山形を〈カナリヤ〉に重ねていた。〈歌を忘れたカナリ
ヤ〉は裏のお山に穴を掘って埋めてやらなければいけない。そしてきちんと
線香を焚いて祀ってやらなければいけない。それが歌を忘れた〈詩人〉にた
いする礼儀だと思っていた。今もその思いに微塵の変更もない。
原稿を書いている時は、もちろん一言も発しないが、酒など飲んで文学の
話をはじめようなら、言葉は怒濤のように噴き出してくる。今も昔も変わら
ない、わたしの飲みのスタイルである。寺崎浩は饒舌で遠慮を知らない文学
青年の扱いを心得ていたのか、ただ黙って聞いていた。
寺崎浩の奥さんは徳田秋声の長女で、武蔵野音大に勤めていた娘さんが神
保光太郎を訪ねて昼休み時間に文芸学科の事務室によく顔を出していた。神
保光太郎は文芸学科の主任教授を務めていたこともあり、非常勤講師になっ
てからも学科事務室でお茶などを飲んでいた。わたしは在学中、一度だけ神
保光太郎の授業を受けたが、中原中也の詩を朗読するだけの、お世辞にも面
白い講義とは言えなかった。文芸学科で学生相手に話すことに、とうの昔に
飽いてしまった老詩人の倦怠がからだ全体に漂っていたが、本人はすでにそ
んなことにも頓着していないようだった。専任教授を退いてからの神保光太
郎は、ますます精彩を欠き、事務室のソファーに横になっていることが多か
った。
寺崎浩は二十代半ばのわたしに日本文芸家協会の入会を勧めてくれたり、
横光利一研究家の井上謙を衝立裏にまで案内して紹介してくれたり、研究上
必須の貴重な資料を提供 してくれたりした。なかでも忘れられないのは、
わたしが江古田の古本屋で入手した雑誌「露西亞文學研究」に関しての話で
ある。この雑誌は棚の一番下にまるでゴミのような扱いで置かれていた。背
表紙はほとんどが剥がれており、雑誌のタイトルを読み取ることもできない。
手にしてはじめて表紙に印刷された「露西亞文學研究」と判る。主人がつけ
た定価は五十円で、当時の立ち食いそばの値段位である。中を覗くとペレヴ
エルゼフの「露西亞批評史に扱はれたドストイエフスキイ」という論文が載
っており、ドストエフスキーを研究する者にとっては是非購入しておかなけ
ればならない雑誌である。
この雑誌がいかに入手困難な貴重本であったかは、後にドストエフスキー
文献収集家としても知られていた小沼文彦によって教えられた。近代日本文
学館や国会図書館にもない貴重本ということだったが、そんなことを知らな
かったわたしは、鉛筆で傍線を引いたり、書き込みをしたりしていた。知っ
てからは、もちろん意識的に丁寧に扱うようになった。
ところで、この雑誌をよく見ると、中身の一部が切り取られていることが
判明した。あまりにも古く、汚い雑誌で、よくよく見ないと切り取られた箇
所が発見できなかったのである。わたしは、さっそくそのことを、学科事務
室で休憩していた寺崎浩に話した。すると「いやあ、そういうことはよくあ
ったんです。検閲にひっかかって、雑誌自体が発行禁止になるかも知れない
という場合には、予めそういった危険のある作品を切り取ってしまうんで
す」という言葉がすぐに返ってきた。この貴重な証言を得て、わたしは早稲
田大学露文科の歴史を洗いなおす必要を感じたりもした。
※「露西亞文學研究」に関しては「幻の雑誌「露西亞文學研究」と米川正
夫訳『青年』をめぐって」(初出は「Д文学通信」五六一号・一九九八年十
二月二十五日。「ドストエフスキー曼陀羅」別冊・二〇〇八年一月二十日に
再録した)を参照のこと。
※寺崎浩のプロフィール「(講師)明治三十七年生。早大仏文科中退。詩
を西条八十、作曲を小松耕輔、小説を横光利一に師事。昭和十年『文芸春
秋』に小説「角」を発表、以後「楕円の脈」「森の中の結婚」「一家」「都
会の激流」等文芸雑誌に作品を発表。文芸家協会会員。日本ペンクラブ理
事」(「昭和51年度文芸学科講座内容一覧」に依る)。
日本大学芸術学部の講座は、昭和45年度に「創作論A」「文芸特殊講義
F」、昭和46年度に「作家作品論」「小説論」、昭和47年度に「小説論」
「文芸作品研究3」、昭和48年度に「文芸特殊講義E」「演習・(創作)」
「文芸作品研究4」、昭和49年度に「文芸特殊講義D」「演習・(創作)」
「演習・(創作)」、昭和50年度に「文芸特殊講義C」「演習・(創作)」
「演習・(創作)」、昭和51年度に「文芸特殊講義・」「演習・(創作)」
「演習・(作家作品)」を担当した。


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