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林芙美子の文学(連載32)林芙美子の『浮雲』について(30)

林芙美子の文学(連載32)林芙美子の『浮雲』について(30)
清水正

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林芙美子記念館
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林芙美子の文学(連載32)
林芙美子の『浮雲』について(30)

清水正


林芙美子の代表作『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』の関係に肉薄して
いく。

2009年6月6日(土曜)
林芙美子の小説にあっては、日本が戦争に勝つか負けるかという大事に対
して、男と女の関係も同じ比重を持って描かれている。国家的次元における
戦争が〈大事〉であれば、男と女の関係もまた〈大事〉なのである。
富岡が食堂を出て行くとすぐ、入れかわりに、幸田ゆき子が、寝たりた顔
で食堂へはいって来た。ギンガムの紅い格子のワンピースを着て、ひどくめ
かしこんでいた。髪をブルウの細いリボンで結んでいた。加野ははっとして、
しばらく振り返って、ゆき子を眺めていた。
「昼ご飯も食べないで、おなかが空いたでしょう?」
加野が椅子をすすめながら言った。ゆき子は素直に、加野のそばの椅子
に腰をかけて、素肌の脚を組んだ。金色の太陽の光線で、ゆき子の顔がぼお
っと浮いてみえる。唇が血を吸ったように紅く光っている。日本的な香料の
匂いがした。加野はなつかしい気がして、何の匂いだろうかと鼻をうごめか
していたが、椿油の匂いだと思い当たった。ゆき子の髪が艶々と光っていた。
加野はポケットから部厚い角封筒を出して、素早くゆき子の膝に置いた。
「あとで、読んでください」
とっさに、ゆき子はその封書を白いハンカチにくるんだ。富岡がのっそ
りとトイレットから戻って来た。わざとゆき子のほうに一べつもくれないで、
金色の太陽をまぶしそうにしばらく眺めていた。加野は食堂からコップとビ
ールをついで、ゆき子に渡した。
(204 〈十二〉)
富岡が去ると、それを待っていたかのようにゆき子が登場する。人物の出
し入れがまるで〈芝居〉のように効果的に仕組まれている。ゆき子は食堂に、
とうぜんお目当ての富岡が居ると思って、「ひどくめかしこんで」降りてき
たはずである。階段を降りる途中でゆき子は、食堂に加野が一人でいること
を眼で確認しただろう。これでは何のためのおめかしであったのか、という
ことになる。しかし林芙美子は、この時のゆき子の心理にはいっさい触れな
い。
ゆき子の存在に気づいて、はっとしたのは加野である。ゆき子を眺める加
野の眼差しを、ゆき子がどのような眼差しで応じたのかも作者は触れない。
声をかけたのは加野で、ゆき子はそれを拒むことなく素直に受け入れ、加野
の〈そばの椅子〉に腰をかけ、〈素肌の脚〉を組む。加野の熱い眼差しが、
このゆき子の〈素肌の脚〉を見逃すはずはない。が、作者は敢えてゆき子の
〈素肌の脚〉の接写にこだわることなく、金色の太陽の光線に照らされてぽ
おっと浮いて見えるゆき子の顔に注意を向ける。血を吸ったように紅く光っ
ているゆき子の唇は、加野の慾情に燃えた熱い眼差しによって見つめられて
いる。
加野の〈そば〉に腰をかけたゆき子は、〈ギンガムの紅い格子のワンピー
ス〉〈細いリボンで結んだ髪〉〈組まれた素肌の脚〉〈血を吸ったような紅
い唇〉〈椿油の匂い〉といったように、視覚、臭覚、そして触覚(素肌の脚
や紅い唇などは、直に触れないまでも慾情を持って見つめる者の触覚をいた
く刺激する)を総動員して男を挑発的に誘惑している。
ここでゆき子は単に富岡だけを誘惑するために「ひどくめかしこんで」来
たわけではないことが判る。読者は、森の中でゆき子に長い接吻をした富岡
がそれ以上の行為にでる情熱をもてなかった、その時を狙っていたかのよう
に〈野性の小柄な白孔雀〉が飛び去った、あの場面を決して忘れてはならな
い。ゆき子という〈白孔雀〉は〈野性〉の生き物であり、捕らえられた檻の
中の白孔雀ではない。この〈白孔雀〉は、今、〈白いワンピース〉から〈紅
い格子のワンピース〉に着替えて、新たな誘惑の魔女に変身して現れたので
ある。
富岡、加野、ゆき子の三角関係の構図に重点を置けば、昨夜の第一幕第一
場「富岡の毒舌」、第二場「加野とゆき子の逢瀬」、そして今朝の第二幕第
一場「食堂での富岡とゆき子」、第二場「森の中での富岡とゆき子の接吻」
に続く、第三場がこの「食堂での加野とゆき子」となる。つまりこの場は、
また〈新たな舞台〉なのである。
ゆき子は未だ、富岡の女にあまんじてはいない。ゆき子は体感的に、富岡
の情熱が彼女一人に向けられていないこと、自分がすべてを富岡に投げ出し
て身をあずけたのに、富岡がそれに十全に応えなかったことを深く知ってい
る。こういった女の復讐劇は執拗に繰り返されると見て間違いはない。
加野は、ゆき子の素肌の脚、紅い唇、椿油の匂いに完全にやられてしまっ
ている。が、加野は、この場で慾情の発作に襲われることはなかった。加野
はポケットから〈部厚い角封筒〉を出すと、素早くゆき子の膝に置く。ゆき
子に惚れた加野が、ゆき子に対する想いを面々と書き連ねた手紙を渡すこと
に不思議はない。面白いのは、その封書をゆき子が〈とっさに〉、白いハン
カチにくるんだことだ。つまり、ゆき子は「白い肉の男」加野になぞ「少し
も興味はない」のだと思いながらも、一方では「毒舌家の富岡を、ひどいめ
ににあわせてしまいたいような、反抗の気」も抱き続けている。
ゆき子は昨夜、加野に二の腕を強く握りしめられた時にも、口では「厭
ッ!」と言いながら、「別に加野の手をふりほどき」はしなかった。ゆき子
は、加野を嫌っていても、加野にそれをはっきりと判らせるような毅然とし
た拒否の態度をとることはしなかった。こういった女の曖昧な態度によって
身を滅ぼすうぶな男は案外多い。加野もまたそういった男の一人である。
女の曖昧な態度に対抗できるのは、同じく曖昧な態度しかとれない富岡の
ような男であり、富岡とゆき子は〈曖昧〉というシーソーの両端に坐っては
ギッタンバッタンを繰り返すほかはない。
加野の封書をとっさに白いハンカチでくるみ隠したゆき子を見て、とうぜ
ん加野はゆき子との関係に望みを託す。トイレットから戻った富岡は、おそ
らく加野がゆき子に渡した封書の存在にまで気づくことはなかったであろう。
しかし、富岡はゆき子が加野のそばに坐っているのを見て、「わざとゆき子
のほうに一べつもくれないで、金色の太陽をまぶしそうにしばらく眺めて」
いる。この、富岡の気取りは、男から見ると鼻持ちならない気障なポーズに
映るが、こういった恰好つけに惚れてしまうゆき子のような女にはある種の
効果をもたらすのである。
積極的に、挑発的に迫る女にとって、逃げ腰の、斜に構えた、恰好つけの
ダンディな男は、それだけで魅力的な存在(獲物)となる。この〈獲物〉を
どのように捕らえるか、加野の封書をとっさにハンカチでくるんだことも、
ゆき子にとっては〈獲物〉富岡を獲得するための戦略の一つに過ぎない。つ
まり加野はゆき子に利用されているだけだが、加野はゆき子の戦略を看破で
きないし、富岡とゆき子の関係性の深さにも気づかない。加野は言葉に出し
ても、それをゆき子に受け入れてもらえないが、富岡は沈黙したまま、わざ
と遠くを眺めながらもゆき子の心と交信できる男なのである。


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