林芙美子の文学(連載31)林芙美子の『浮雲』について(29)
清水正
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林芙美子の文学(連載31)
林芙美子の『浮雲』について(29)
清水正
林芙美子の文学(連載31)
林芙美子の『浮雲』について(29)
清水正
林芙美子の代表作『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』の関係に肉薄して
いく。
2009年6月6日(土曜)
いつの間にか、太陽はオレンヂ色をふちどりして、ランビァンの山のほ
うへかたむきかけていた、湖が金色の針をちりばめたように、こまかに小波
をたてている。食堂の奥から油臭い匂いがただよって来た。夕暮の美しさは、
ひとしお、二人の男に考え深いものを誘った。
「これで、ここは平穏だが、内地は大変なンだろうなア……。恋愛をする
なんざアぜいたくかな……」と加野が言った。(203 〈十二〉)
富岡と加野の二人の途切れがちな会話、富岡の内部に寄り添った作者の言
葉、そして自然の描写が実に効果的に配置される。抜群のカメラワークによ
って、読者は、まるでダラットの美しい自然の中にあって、富岡と加野とゆ
き子の恋愛沙汰に立ち会っているかのような気分を存分に味わうことができ
る。
オレンヂ色に縁取られた太陽、金色のさざ波をたてている湖、林芙美子の
眼差しは人物の背後にある自然を決しておろそかにしない。人間は自然の中
にある存在、自然と共にある存在であるということ、それは人間が大きな、
人間の力ではどうすることもできない時間(時代)の中に据え置かれた存在
であるということを不断に自覚させる。
富岡や加野が、今、ダラットの山林事務官として働いていることもまた、
彼らの個人的な意志を超えている。ましてや、彼らが戦争の最中に生きてい
ることは、彼らの意志に関係なく厳然たる事実である。ゆき子が突然現れた
ことで、富岡と加野の運命に大きな影響を与えるが、それとて大きな自然や
時間の中では実に些細なエピソードに過ぎない。加野は内地の大変さを想っ
て、平穏なダラットでの恋愛沙汰をぜいたくと感じる視点も持ち合わせてい
る。
「この戦争は勝つと思うかね?」
「そりァ勝つにきまっていますよ。いまさら、敗けッこはないでしょう…
…。ここまで来て敗けたりしちゃァ眼もあてられない。私は、敗けるなンざ
ア考えてもみない。牧田さんもあんたも、妙な、不安にとりつかれているが、
もし、万が一にも、敗けたとなれば、私はその場所で腹を切ってしまう…
…」
「そう簡単には腹を切れないよ。敗けるとは思いたくないが、敗ける可能
性は、君、あるらしいンだぜ。なるべく、そうした問題には触れたくはない
が、どうも、耳にはいるニュースはいい面ばかりじゃない。この土地のもの
が一番敏感だからね。一種の日本人的スタイルで、強引には押してはいるが、
手持ちの金も銀も飛車もありゃアしないンだ。何となく日本的表象の影が薄
くなったね。円熟しないままで途方に暮れて、そこらを引っかきまわしてい
るのさ……。戦争を合理化するために、いろいろと策はねっていンだろうが、
それからさきの才能がとぼしいンだ。何しろ、猿に刃物的なところもあるン
だよ……」
「あんまり不気味なことを言わないでくださいよ。まア矛盾もあるにはあ
るでしょうが、乗るかそるかやってみないことにはね。結局、最悪の場合は、
玉砕だ。死にゃアいいでしょう、死にゃア……」
「無責任だね」
富岡は吐き捨てるように言って、トイレットに立って行った。(203 ~
204 〈十二〉)
戦争を巡る富岡と加野の意見は全く異なる。加野は日本は戦争に勝つと信
じているし、富岡は敗ける可能性が大きいと考えている。加野は最悪の場合
は玉砕すればいいと思っているが、富岡はそういった一億総玉砕といった考
え方自体を無責任として退ける。手持ちの金も銀も飛車もなく戦っていなが
ら、戦争を合理化するためにいろいろな策を練っているだけの日本軍部のや
り方を富岡は実に冷静に批判的に見ている。〈猿に刃物〉という言葉は辛辣
な軍部批判である。富岡は仏印のダラットにあって〈日本的表象の影〉が薄
くなりつつあることを敏感に感じている。
要するに富岡の眼差しは、敗戦後の日本さえ視野に入れてダラットで山林
事務官としての責任を果たしているだけのことで、心のうちは日本の未来に
何の期待も抱けない空虚感に満たされていた。そんな富岡が内地の妻邦子を
想いつつも、ニウとの情交を重ね、新たに登場したゆき子とも関係を深めて
いくのである。富岡は非戦論者のトルストイの愛読者でもあるから、戦争そ
のものに反対だったのかも知れない。加野は、武者小路実篤の心酔者らしく、
富岡に較べるとはるかに単純である。
いずれにしても、当時の日本の青年男子は戦争という自分一個の意志では
どうすることもできない巨大な渦の中に巻き込まれており、極端な場合は戦
争を拒否して投獄、処刑を覚悟しなければならなかったし、国家の方針に従
えば召集令状一枚によって戦地へとつかなければならなかった。
富岡と加野は戦争に対する意見は対立しているが、彼ら二人共に〈楽園〉
のようなダラットにあって、戦争の厳しさを生々しく感じるようなことはな
かった。戦線にあって憎んでもいない敵兵に銃弾を発射することもないし、
鬼軍曹や古参兵に酷い仕打ちを受けることもなかった。人間同士が戦争とい
う極限状況にあって殺し殺されるという血生臭い現場から遠く離れて、彼ら
二人はダラットの美しい自然と、贅沢な衣食住に恵まれていた。富岡は加野
のいう玉砕に無責任というレッテルを張るが、富岡は自分のルーズな女関係
に関しては微塵の〈無責任〉も感じなかったのであろうか。
国家が判断した〈戦争〉に対して、はたして一個人はどのような〈責任〉
を果たせばよいのか。富岡や加野は、ダラットの山林事務官として働いてい
るが、この仕事はとうぜん〈戦争〉に加担した上での仕事である。富岡は内
心どう思っていようが、すでに戦争協力者の一員であることに変わりはない。
富岡も加野も〈楽園〉のダラットから逃亡して、戦争を拒否するだけの勇気
も、その根拠も持っていない。遠く仏印のダラットにあっても、彼らは大日
本帝国という巨大な戦艦の一乗組員としてその責任を果たせられているので
ある。
富岡がトルストイファンというなら当然のこととして『戦争と平和』を読
んでいただろう。人々が戦争という不可避の巨大な渦に巻き込まれていくプ
ロセスをトルストイは見事に描ききっている。あらゆる階層の、さまざまな
思想と信条を抱いた老若男女の誰一人としてこの大渦の災禍を免れることは
できない。戦争は或る何か得体の知れない巨大な生き物の〈意志〉のような
もので、この〈意志〉に逆らうことはなんびともできない。
ドストエフスキーは『白痴』の中で、イッポリート少年の口を通して、ハ
ンス・ホルバイン描くところの死せるキリストを見ていると〈自然〉が「何
かじつに巨大な、情け容赦もないもの言わぬ獣」、あるいは「最新式の巨大
な機械」のようなものとして眼前にちらつくと書いている。またこの絵は
「暗愚で傲慢で無意味に永久につづく観念」を表現しているかのようだとも
書いている。ドストエフスキーの言う〈自然〉を〈戦争〉に置き換えれば、
まさに人間は〈情け容赦もないもの言わぬ獣〉の意志から逃れることはでき
ないということになる。
戦争という渦に巻き込まれない唯一の方法と言えば、台風の眼の中の静寂
ではないが、まさに戦争の中心点に自らの身を置くしかないだろう。象徴的
な次元で言えば、〈ダラット〉は戦争の渦の中心点のような〈楽園〉なので
ある。
戦争という渦がおさまれば、富岡も加野も〈地獄〉の内地へと帰還しなけ
ればならない。しかし、敗戦後の日本は、戦勝国のアメリカの傘下に身を置
くことによって、第二の〈楽園〉を形成してしまった。『浮雲』の一登場人
物富岡兼吾は、仏印の〈ダラット〉から、内地へ帰還するが、敗戦後に生ま
れ、生き延びてきたすべての日本男子は、アメリカに守られた第二の〈ダラ
ット〉(〈日本〉という〈楽園〉)で曖昧な人生を生きている。〈富岡兼
吾〉とは敗戦後の日本人一人一人の〈吾〉を〈兼〉ねている名前である。周
囲を見回せば〈富岡兼吾〉だらけである。
加野の「最悪の場合は、玉砕だ。死にゃアいいでしょう、死にゃア……」
の言葉に対して、「無責任だね」と吐き捨てるように言った富岡兼吾は、ト
イレットに立って行くことぐらいしかできなかった。〈玉砕〉か、それとも
〈トイレ〉か。敗戦後六十余年を過ぎた今日においても、日本男子はこの二
者択一を迫られている。そういう意味において『浮雲』は日本人の生のあり
方を根源的に問いただす小説であると同時に、今日の日本および日本人を預
言する小説だっということになる。