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林芙美子の文学(連載30)林芙美子の『浮雲』について(28)

林芙美子の文学(連載30)林芙美子の『浮雲』について(28)
清水正

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林芙美子の文学(連載30)
林芙美子の『浮雲』について(28)

清水正


林芙美子の文学(連載30)
林芙美子の『浮雲』について(28)
清水正

林芙美子の代表作『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』の関係に肉薄して
いく。

2009年6月4日(木曜)
富岡は煙草に火をつけて、ゆっくり煙を吐きながら、心のなかで、もう遅
いよと独白している。だが、考えてみると、遅くもない気がした。あの場合、
ゆき子の感情を生殺しのままでやり過した、自分の疲れかたは、ただごとで
はないような気もして来る。サイゴンへ旅立つ日まで、ニウとの毎夜の逢う
瀬は、加野のような、肉体の凶暴さからは救われていた。ニウとの情交も、
かりそめのもので、富岡は妻の邦子以外に、心の恋情は発芽しなかったのだ。
所長の牧田氏も、富岡とニウとの間をうすうすには知っている様子だった。
だが、牧田氏は所員の不始末について、自分で責任を持つ限りにはあまり文
句を言う人物でもない。富岡は牧田氏のそのおだやかさに甘えきってもいる
のだった。
(203 〈十二〉)
富岡は心の中で「もう遅いよ」と独白している。ゆき子という女を先に食
ってしまったのは富岡である。加野はゆき子を舐めた、否、鼻先で嗅いだだ
けである。富岡は「遅くもない気がした」とも思うが、これはすでに獲物を
口にしてしまった者の余裕の思いであって、富岡の直感は、ゆき子は加野に
は合わないし、加野がいくら迫ってもゆき子はそれに応じない、ましてや自
分との関係が生じてしまった以上は、と思っている。
作者は「ゆき子の感情を生殺しのままでやり過ごした、自分の疲れかたは、
ただごとではないような気もして来る」と書いている。富岡はゆき子が彼に
惚れていることを体感的に知っている。だが、接吻以上の行為に出ることは
しなかった。富岡が心から恋情を覚えているのは妻の邦子だけで、毎夜情交
を重ねているニウとの関係もかりそめのものだという。加野はゆき子一人に
慾情の対象を絞っているだけに、その〈肉体の凶暴〉さを富岡はよく知って
いる。富岡が、ゆき子に対して決定的な行為に及ばなければ、加野がゆき子
をものにする可能性も残っているというわけだ。
それにしても、所長の牧田が、富岡とニウの関係をうすうす知っていて文
句ひとつ言わなかったというのも、牧田という日本人の性格を知るうえで興
味深い。先に牧田はゆき子に向かって、富岡のことを「風変りな人間でね、
だが、あれで、なかなか情の深い男なんですよ。三日に一度、きちんと細君
に手紙を書いておる……。私にはなかなかそんな真似はできない。責任感の
強い男で、一度引き受けたら、一つとして間違ったことがない奴ですよ」と
言っていた。細君思いの〈情の深い男〉が毎夜、女中のニウと情交を重ねて
いる。しかも、牧田はそのことを知っていながら、富岡を〈責任感の強い
男〉とも言っている。
ニウと〈毎夜の逢う瀬〉を重ね、細君には三日に一度手紙を書き、新たに
ゆき子が出現すれば、ゆき子とも関係を結ぶのが富岡である。所長の牧田が
富岡に文句を言ったりしないのは、彼もまた適当に女遊びをしていたからに
違いない。当時の日本人の男たちは、内地の妻と、占領した国の女を意識す
るしないにかかわらず差別していたのであろう。言葉が満足に伝わらないニ
ウは、富岡にとって精神的な存在である前に、慾情を満たすための道具のよ
うな存在であったのだろう。富岡が〈ニウとの情交〉を〈かりそめのもの〉
として考えていたということは、戦争が終われば、あるいは彼がダラットか
ら離れることになれば、彼女と分かれることを意味する。富岡は妻には〈心
の恋情〉がありながら、女中のニウとかりそめの情交を重ねている。
富岡は妻に対して、ニウに対して罪の意識に襲われることはない。ゆき子
と森の中で長い接吻を交わしても、そのこと自体を不潔とか、人間としてや
ってはいけないことだとかいう意識はない。加野も、富岡に対して、彼が妻
帯者なんだからゆき子に手を出すな、と言っているのではない。富岡も、加
野も、そして所長の牧田も、男の生理に関しては等しく寛容であり、そのこ
と自体を責めることはしない。
男は与えられた公の仕事をきちんとこなしてさえいれば、妻以外の女を何
人つくろうが、それは自己の責任において処すればいいという考えが、日本
人のなかには根強くある。女を作って男の甲斐性を問われることはあっても、
不倫ということで責められることはない。少なくとも『浮雲』の中に登場す
る男も女も、倫や不倫の次元で男と女のドラマを展開してはいない。人間に
は違いないが、男も女も動物的な本能や欲求に忠実で、きれいごとでことを
片づけようとする意思はどこにもない。
戦争中の〈楽園〉ダラットにあって、所長の牧田は〈おだやか〉、部下の
富岡はそれに〈甘え〉きっている。作者は「牧田氏は所員の不始末について、
自分で責任を持つ限りにはあまり文句を言う人物でもない」と書いたが、日
本人のいったい誰が、自分の〈不始末〉に〈責任〉を持っただろうか。日本
人の大多数は未だに〈牧田〉と〈富岡〉に代表されるように〈おだやか〉と
〈甘え〉の中にどっぷりとつかり、だれも自分の〈不始末〉などに〈責任〉
を持とうとはしない。
言葉を厳密に一義的に使えば、内地の妻を本当に想っているなら女中のニ
ウと情交を重ねるようなことはしないし、もしそういう事実を知っていたな
ら、牧田のように寛容な態度を取ることもしなかったであろう。しかし、日
本人の場合は、善と悪を一義的に規定して、厳格に対応することがない。大
多数の日本人がことを処するにあたって取るのは〈あいまい〉な態度である。
「所長の牧田氏も、富岡とニウとの間をうすうすには知っている様子だっ
た」という文章が、日本人の性格特性を的確に示している。
牧田は富岡とニウの関係を白日のもとに晒して厳しく裁くなどということ
はしない。〈うすうす〉知っているような〈様子〉にとどめておくことが肝
要なのであって、白黒はっきりさせて事を処する厳格な態度は、その組織の
トップに求められてはいないのである。部下もまた上司の〈おだやかさ〉を
〈あいまい〉として糾弾するようなことはしない。部下は上司の〈おだやか
さ〉に存分に〈甘え〉ることで、潤滑な人間関係をつくりあげていく。作者
林芙美子もまた、人物の誰をも裁く眼差しを持たない。作者は善悪の彼岸に
あって、人物の傍らに寄り添っている。


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