2009
07.01

「日本文学特論Ⅱ」(日芸大学院講座)坂本綾乃(連載9)

日本文学特論Ⅱ

「日本文学特論Ⅱ」(日芸大学院講座)坂本綾乃(連載9)
%E3%83%9A%E3%83%86%E3%83%AB.jpg

「日本文学特論Ⅱ」(日芸大学院講座)坂本綾乃(連載9)
スヴィドリガイロフとドゥーニャについて
坂本綾乃


「日本文学特論Ⅱ」(日芸大学院講座)坂本綾乃(連載9)
スヴィドリガイロフとドゥーニャについて
坂本綾乃

 『罪と罰』において、スヴィドリガイロフはラスコーリニコフよりも主人公であるべき人物ではないかと思う。ラスコーリニコフが復活を遂げようとするのに対し、スヴィドリガイロフは自らの命をピストルで絶ってしまう。彼が引き金を引くシーンは印象的だ。
なぜドストエフスキーは、スヴィドリガイロフに死と言う終わりを与えたのだろうか・・・
 Ⅰ プリヘーリヤからの手紙
 ラスコーリニコフへ宛てた母からの手紙は物語を大きく進展させる。
妹ドゥーニャについて書かれているのだが、その書き方は母親が息子へ宛てて書いた手紙にしては少し重く感じられる。しかし読み返してみると母親が母親であるがゆえの視点で書かれていることが分かる。
 プリヘーリヤの手紙については思うことがあるが、それよりも手紙に登場するスヴィドリガイロフとドゥーニャだ。二人の間に何があったかは、後々見えてくるのだが、読者はスヴィドリガイロフをとんでもない男だと認識するだろう。そんな男から逃れることができたドゥーニャには幸せを願ってしまう。母の手紙は娘の幸せと息子を心配する思いであふれている。
 Ⅱ ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフ
 第三部の最後で、母親からの手紙以来まったくもって登場してこなかった、スヴィドリガイロフが突如ラスコーリニコフの前に現れる。その登場の仕方はあまりにも唐突で、ラスコーリニコフに視点が向いているがゆえに、スヴィドリガイロフ? と疑問を抱いてしまう。
 ラスコーリニコフとスヴィドリガイロフの会話は違和感を覚える。
「意外と人あたりのよいほうなので驚いておられるんじゃありませんか?」とスヴィドリガイロフが自身で言っているように、あまりにも人あたりが良い。手紙を通して抱いたスヴィドリガイロフの第一印象が崩壊していく。饒舌に語ることにラスコーリニコフだけでなく読者も知らず引き込まれていってしまう。
スヴィドリガイロフはラスコーリニコフが対面しているものを踏み越えてしまっているからか、余裕を失っているラスコーリニコフにとって、自分の妹との問題を差し引いても、気になってやまない。
初めて『罪と罰』を読んだ時は、ラスコーリニコフが計画を実行する前にスヴィドリガイロフと対面していたと思い違いをしていたのだが、よくよく考えれば、それはありえない。ラスコーリニコフが計画を実行して、次の局面と対峙している時に出会っているからこそ、二人の会話は成り立っているのだろう。
スヴィドリガイロフは、ラスコーリニコフが理想とする世界の先に立っている存在だ。ラスコーリニコフが自分自身と向き合えば向き合うほど、スヴィドリガイロフの存在は大きくなっていく。
 Ⅲ ドゥーニャとスヴィドリガイロフ
 スヴィドリガイロフの巧妙な罠にはまったドゥーニャは、スヴィドリガイロフに対して拳銃を向ける。結果として彼女はスヴィドリガイロフを殺せなかった。拳銃を捨てた後の場面は、ドゥーニャが歳相応な娘として描かれている。
 スヴィドリガイロフがドゥーニャに向けて放つ言葉は、届いているようでドゥーニャの心を突き抜けて遥か遠くへ消え去っていってしまう。
 「ね、わたしを帰して!」ドゥーニャのこの言葉が、スヴィドリガイロフとドゥーニャの間にあった僅かな糸を切った。二人の会話は緊迫感にあふれていて、まるで一つの映像を見るかのように、脳内に展開されていく。
同じように、スヴィドリガイロフが命を絶つ場面も、映像化できる。今まで余裕すらも感じられたスヴィドリガイロフが、ドゥーニャの一言によって踏み越えたはずの現実に引き戻されてしまう。ふらふらと街をさまよう姿は、ラスコーリニコフとかぶる。スヴィドリガイロフにとってのドゥーニャの存在は、ラスコーリニコフに対してのソーニャと同じようで全く違う。スヴィドリガイロフとラスコーリニコフの最大の違いはソーニャのような純粋で母親のような女性が存在したかどうかということではないだろうか?
スヴィドリガイロフはドゥーニャにそれを求めたが拒否され、夢の中では五歳の幼女にさえ淫売婦のような表情をされ、さらに幽霊のマルファも現われてくれないというまったく救いのない状況下に陥る。対してラスコーリニコフはソーニャといった救いがあった。
スヴィドリガイロフとラスコーリニコフは、それぞれの結末をむかえるのだが、同じようにドゥーニャとソーニャも描かれない結末をむかえる。スヴィドリガイロフとラスコーリニコフがそうであった様に、ドゥーニャとソーニャも言わば対極の結末が待っているように私は思う。
ラスコーリニコフを中心に描かれている『罪と罰』だが、読めば読むほどにスヴィドリガイロフとドゥーニャの二人だけでも十分に物語として出来上がっているように感じる。

コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。