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林芙美子の文学(連載26)林芙美子の『浮雲』について(24)

林芙美子の文学(連載26)林芙美子の『浮雲』について(24)
清水正

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林芙美子の文学(連載26)
林芙美子の『浮雲』について(24)

清水正


林芙美子の文学(連載26)
林芙美子の『浮雲』について(24)
清水正

林芙美子の代表作『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』の関係に肉薄して
いく。

2009年6月1日(月曜)
富岡は振り返った。
「疲れたでしょう……」
「ええ」
「僕は半日で、十二キロくらいは平気だね。森の中はいくら歩いても、案
外疲れないし、夜はよく眠れるンだけどなア」
「あのう、加野さんは、ずっと、こちらにいらっしゃいますの?」
「まだ、当分はいるかもしれないね……」
「私、加野さんって気味が悪いわ」
「なぜ、荒れているせいかね……」
「昨夜、ひどく、お酒に酔って、いらっしたンですのよ。怖いわ」
(199 〈十二〉)
さりげない会話だが、ここには慾情を強く押さえ込んだ富岡と、〈旅空の
女の淋しさを、上手に見せる哀愁の面紗〉を被りつづけて富岡の言葉を待っ
ていたゆき子の巧妙な心理が端的に現れている。富岡の「疲れたでしょう」
の言葉に、ゆき子は「ええ」と答える。この〈疲れ〉は別に肉体的な意味に
おいてだけ適用されるのではない。二人は「甘ったるく、ねばっこい花粉に
とりかこまれているような気配が立ちこめて」いる原生林の中を、ただ黙っ
て歩き続けてきたのである。その〈息苦しい〉時の持続に富岡もゆき子も
〈疲れた〉のである。
ゆき子は、富岡の言葉を受けて、加野のことに話題を移す。ゆき子の関心
事は、仕事上の富岡の指示でもなければ、昨夜、酔って迫ってきた加野でも
ない。ゆき子にとって加野は関心の外にある。ゆき子の目的は、加野に対し
て「気味が悪い」「怖い」と富岡に告げることで、彼の心を自分に引きつけ
ることである。敢えて三角関係を作り上げることで、心惹かれる男の気持ち
を自分に向けさせるという、恋のテクニックをここでゆき子は巧妙に、無意
識的次元で展開している。
二人の男に競わせるという手口は、動物としての女が本能的に備えている
ものである。ゆき子は加野を気味悪い、怖いとはっきり口にすることで富岡
の庇護を求めている。気味の悪い加野は断固として拒むが、庇護を求めてい
るあなたの欲求は受け入れるわ、という表明でもある。もちろん、富岡はゆ
き子の欲求を、言われるまでもなく承知している。さて、富岡はどのように
反応したか。
富岡は黙って、ゆっくり歩いた。自分にしても、何となく寝苦しい一夜
だった昨夜のことが、唐突に、その原因に関聯があるような気がしてきて、
一種の憎悪を持って、加野を考えていた・・。富岡は自分の後に近々と歩い
て来ているゆき子に、歩調を合せるべく立ちどまったが、無意識に、自然に
寄って来たゆき子の肩をつかんで、小暗いナギの大樹の下で、強く抱き締め
ていた。ゆき子も案外自然であった。ゆき子は激しい息づかいで、富岡の胸
に顔をすりつけて来た。
(199 ~200 〈十二〉)
ゆき子の「怖いわ」という言葉には、「私を抱いて」という意味が込めら
れている。富岡は黙って、ゆっくり歩きながら、ゆき子に酔って迫った加野
を憎悪し、立ち止まり、〈無意識に〉〈自然に寄って来た〉ゆき子の肩をつ
かみ、強く抱き締める。その行為に読者の誰もが不自然さを感じることはな
い。ゆき子が富岡を、森の中に追って来た時点で、この激しい抱擁の時は準
備されていた。ゆき子は富岡が求めれば受け入れる気持ちであったのだから、
加野の時とは違っていっさいの抵抗をしない。今までの息苦しさは、強く抱
き締められることでしか解消しない。熟れた果実がもぎ取られるべき時を得
たのである。
あっけなかったが、富岡はゆき子の顔を胸から引きはなして、ぼってりし
た唇を近々に見つめた。言葉の隅々まで通じ合う、同種族の女のありがたさ
が、昨夜のニウとの接吻とは、はるかに違うものを発見した。気兼ねのない、
楽々とした放心さで、ゆき子の赧らんだ顔を眺めた。眼をつぶって、荒い息
づかいを殺しているゆき子の顔面が、ひどく妻の顔に似通っていた。麻痺し
た心の流れが、現実には、ゆき子の重たい顔をかかえていながら、とりとめ
もなく千里を走り、もっと違うものへの希求に、焦っている心の位置を、富
岡はどうすることもできない。
(200 〈十二〉)
「ゆき子に惹かれる気持ちは、これは慾情だけなのか」と自らの胸に問う
たのは加野であった。富岡は自然にゆき子を抱き締めた。富岡はゆき子にニ
ウとは違った「同種族の女のありがたさ」を感じさせ、それは内地で待つ妻
の邦子を想い出させる。富岡はゆき子の赧らんだ顔に妻の顔を重ね、想いは
千里を走って妻を希求する。
富岡が妻を愛していることは明白だが、そのことでゆき子を強く抱き締め
ることに罪の意識を覚えて苦しむようなことはない。作者は「富岡はどうす
ることもできない」と書いているが、このどうしようもなさは、富岡の存在
性格の核心を突いている。ゆき子を抱きながら妻を希求する、この想いだけ
がどうしようもないのではない。富岡にとっては、すべてが悉く「どうする
こともできない」のである。今、わたしはチェーホフの言葉「どうでもいい
さ」(всё равно)を想い出した。ついでに『退屈な話』の老教授
ニコライ・ステパーノヴィチがカーチャに「あたしはどうしたらいいので
す?」と訊かれて「ほんとうに、カーチャ、わからないんだよ」というセリ
フも脳裡を過った。


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