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林芙美子の文学(連載25)林芙美子の『浮雲』について(23)

林芙美子の文学(連載25)林芙美子の『浮雲』について(23)
清水正
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林芙美子の文学(連載25)
林芙美子の『浮雲』について(23)

清水正


林芙美子の文学(連載25)
林芙美子の『浮雲』について(23)
清水正

林芙美子の代表作『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』の関係に肉薄して
いく。

2009年5月31日(日曜)
ゆき子は歩き疲れていた。昨夜はよく眠れなかったせいか、歩くと、息
が切れそうに、背中がずきずきと痛んだ。だが、ときどき深呼吸をすると、
ばかに胸の中がせいせいと、涼しい空気でふくらんで来る。そのくせ、ゆき
子は森林地帯には少しも興味はなかった。ただ富岡の背の高い後ろ姿に心は
惹かれてゆく。もっと、互いに近しくなりたい孤独な甘さだけで、ゆき子は
歩いていた。
(199 〈十二〉)
ここに到って、ようやく作者はゆき子の内面を描写する。ゆき子は森林地
帯などには少しの関心も示していない。ゆき子が心惹かれているのは「ただ
富岡の背の高い後ろ姿」だと言う。すでに今までの批評によってゆき子の内
面などは明らかになっているが、林芙美子はここで親切にゆき子の富岡に対
する想いを書いている。ゆき子は富岡の後ろを黙って歩いていたのだから、
その後姿に魅力を感じなかったら、とっくに後戻りしていただろう。ところ
で作者は先に〈十一〉で富岡の後姿を「卑しいと思った」と書いていたはず
である。つまり富岡はゆき子にとって単に恰好がいい男ではないのだ。富岡
の内部に潜んだ慾情を含めて、ゆき子は富岡の後姿に心惹かれているのであ
る。
すでに林芙美子は、富岡とゆき子の内面を自然描写によって隠喩的に描き
切っていた。ここでは、直接的にゆき子の内面を言葉によって表現している。
「もっと、互いに近しくなりたい孤独な甘さだけで、ゆき子は歩いていた」
こういった表現は、先の「甘ったるく、ねばっこい花粉にとりかこまれてい
るような気配が立ちこめていて」云々といった表現に較べれば実に淡白な感
じがする。しかし、林芙美子はさすが女流作家だけのことはある。ゆき子の
内面の深奥に隠された欲望を実に端的な言葉によって表現している。
ファンタスチックな感情が、ゆき子をわざと孤独なふうに化粧させてしま
う……。いつ、富岡に振り返られても、旅空の女の淋しさを、上手にみせる
哀愁の面紗を、ゆき子はじいっとかぶっていた。その面紗の後で、ゆき子は
ひとりで昂奮して、やるせなげに溜息をついているのだ。
(199 〈十二〉)
こういった表現によってゆき子の深奥の心理や欲望は白日のもとに晒され
る。「わざと孤独なふうに化粧させてしまう」などと書かれたら、もはや作
者の目をごまかして〈化粧〉できる女はいなくなってしまう。ゆき子は作者
の手の内にある、と言ってもいい。ゆき子は、富岡の後姿、その背が高くて
恰好いい、そして同時に〈卑しい〉、つまり雄的魅力の匂いを発散している
後姿を追いながら、いつ富岡が振り返っても〈旅空の女の淋しさを、上手に
みせる哀愁の面紗〉をじいっとかぶっているのである。
林芙美子はここで、どんなに鈍感な読者にも判るように親切にゆき子の内
面、富岡に対する熱い想いを暴露しているわけだが、富岡はもちろんこうい
ったゆき子の想いを敏感に察して知らんぷりを決め込んでいるだけである。
富岡は、昨日すでにはっきりと「幸田ゆき子は、加野には似合わないよ」と
断言していた。その前には吐き捨てるように、ゆき子のことを「取り澄まし
てる女じゃないか?」とまで言っていた。つまり〈取り澄ました女〉ゆき子
に似合う男は、同じく取り澄ましたダンディな男の富岡ということを、富岡
はよく知っている。
自分の後ろをひたすら黙ってついてくる〈白いワンピース〉を着た女が、
部屋に〈黒いパンツ〉を脱ぎ散らかすような女であることも、見ずして知っ
ているのである。富岡にとって当面の問題は、〈哀愁の面紗〉の後ろで一人
で昂奮して、やるせなげに溜息などついている、そのゆき子の〈面紗〉をい
つ、どのように剥がすか、なのである。
作者林芙美子にしてみれば、富岡とゆき子の、男と女のドラマをどのよう
に発展させるか、どのように読者の興味を繋ぎながら描くかということであ
る。林芙美子の書き継ぎ方は実に旨いとしか言いようがない。


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