2009
06.26

林芙美子の文学(連載23)林芙美子の『浮雲』について(21)

ドストエフスキー関係, 林芙美子の文学, 林芙美子関係

林芙美子の文学(連載23)林芙美子の『浮雲』について(21)
清水正

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林芙美子記念館
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林芙美子の文学(連載23)
林芙美子の『浮雲』について(21)

清水正


林芙美子の文学(連載23)
林芙美子の『浮雲』について(21)
清水正

林芙美子の代表作『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』の関係に肉薄して
いく。

2009年5月29日(土曜)
「昨夜は怒ったンだって?」
「あら、何をですの……」
「加野がね、幸田君がとても、僕を怒ってるって言った……」
「ええ、とても、こたえちゃったんンです」
(198 〈十一〉)
仕事の指示などどうでもいい。富岡は昨夜のプライベートなことを話題に
する。富岡の毒舌に「怒った」ということは、ゆき子が富岡の言葉に心動か
されたということである。ゆき子が「ええ、とても、こたえちゃったンで
す」と応えていることは、彼女が富岡を受け入れていることを示している。
富岡はそれを敏感に察している。作者は富岡の微妙な心理の襞に分け入って、
それを直接的に描写することはしない。
富岡は、ヘルメットをかぶり、腰の図嚢から植林地図を出して、それを
拡げながら歩いた。森の中で、山鳩が近々と啼き始めた。白い地図の反射を
受けて、富岡は思いついたように、胸のポケットから、薄紅いサングラスを
出して高い鼻にかけた。地図は急に薄紅く染った。空の細い隙間から、高原
の強い日光がぎらぎらと道に降りそそいでいる。
(198 〈十一〉)
富岡は今、ゆき子に対する想いを押さえ込んで、仕事のポーズをする。
〈狭い人道〉へと這入った富岡は、森の中で山鳩の鳴く声を耳にしている。
〈山鳩の鳴く声〉は富岡の心に束の間の平安が訪れた隠喩である。昨夜の
〈妖怪変化〉、今朝の〈教会の鐘〉〈ゆき子の泣き腫れた眼〉〈ゆき子の優
しい表情〉〈ニウの仏像の顔〉・・富岡の内面は不断に揺れ動いている。富
岡は繊細な男で、神経が細いのである。
林芙美子はそういった男の、内面の動きを自然描写に託して描いている。
ゆき子もまた富岡の内面に入り込んで、いろいろと詮索しない。言葉が言葉
を招き寄せるというように、ひとの心を詮索せずに、ひたすら見て、感じて
いる。林芙美子の文章は簡潔で分かりやすいが、林芙美子が求めているのは
読者の感性である。ものに感ずる心がなければ、林芙美子の文章を体感する
ことはできない。
「白い地図の反射を受けて」と作者は書く。〈白い地図〉を〈植林地図〉
とだけ読み取っていたのでは、富岡の内面の波動を受け止めたことにはなら
ない。〈白い地図〉は、白い靴を履き、白いワンピースを着て、富岡を追っ
てきたゆき子でもあるのだ。富岡が思わず、胸のポケットからサングラスを
とり出して高い鼻にかけたのは、〈ゆき子〉の反射の眩しさに耐えられなか
ったというわけだ。
〈薄紅いサングラス〉と富岡の〈高い鼻〉を見ているのは作者が用意した
カメラだけではなく、むしろ富岡を必死で追いかけてきたゆき子の熱い眼差
しである。多分、富岡のかけていたサングラスは高級品であったろう。〈高
い鼻〉は富岡のプライドの高さや、彼が背の高い美男子であることも示して
いる。ゆき子は林芙美子と同様に、おしゃれな美男子が好みだったのである。
サングラスをかけた途端に〈白い地図〉は薄紅く染まる。白いワンピース
のゆき子もまた、富岡がサングラスをかけて見れば薄紅く染まるだろう。読
者はここで、富岡を熱く見詰め続けるゆき子の視線を感じなければ、白い地
図が薄紅く染まる瞬間の、富岡の内面の衝撃を共有することはできない。そ
んなこんなの想いが凝縮された場面であるからこそ、次の「空の細い隙間か
ら、高原の強い日光がぎらぎらと道に降りそそいでいる」が衝迫力を持って
鮮やかなのである。
〈高原の強い日光〉の〈ぎらぎら〉よりも、さらに強く、富岡の内面に降
り注ぐゆき子の熱い視線があり、反射がある。富岡は、すでにこの時、ゆき
子に対して肉眼では見詰めることができなかったのかもしれない。富岡は以
降、ずっとゆき子に対して〈薄紅いサングラス〉をかけて関わっていたのか
もしれないということである。
作者は、富岡の心理の深奥に降りて行かず、富岡の意識の次元に寄り添っ
て描写を続ける。
富岡は、日本の女と歩くことに、何となく四囲に気を兼ねていた。内地の
習慣が、遠い地に来ていても、富岡の日本人根性をおびえさせているのだ。
(198 〈十一〉)
富岡の心のうちにゆき子に対する特別な想いがないのであれば、べつに
〈日本人根性〉をおびえさせることもなかったであろう。ゆき子に対する想
いが〈秘中の秘〉のようなかたちで意識されていたからこそ富岡は必要以上
に〈おびえ〉て、サングラスなどをかけたのである。富岡は四囲を恐れて、
女に手をつけないような男ではない。現に富岡は、女中のニウと関係を持っ
ている。富岡は「何となく四囲に気を兼ね」ながらも、自分の慾情には忠実
な男なのである。
富岡は追ってきたゆき子に仕事の指示を与えて事務所へ帰すような野暮な
ことはしない。富岡は女心の何たるかを心得ているので、路が二つに岐れた
ところで、敢えて〈狭い人道〉の方へと這入ったのである。ゆき子は富岡の
抑制された慾情に黙って従った。ここにいるのは、昨夜、加野に言い寄られ
て、眼を「獣のように光」らせたゆき子ではない。ゆき子もまた富岡に同調
して、慾情を巧妙に押さえ込んでいる。はたして、森の中の二人、
〈狭い人道〉に這入りこんだ二人は、これからどのような関係を持つのか。
林芙美子の書き方は実にうまく自然に読者の興味をかきたてる。


コメント

  1. いつもお世話になります。
    林芙美子論、素晴らしいです。

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