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林芙美子の文学(連載22)林芙美子の『浮雲』について⑳

林芙美子の文学(連載22)林芙美子の『浮雲』について⑳
清水正

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林芙美子記念館
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林芙美子の文学(連載22)
林芙美子の『浮雲』について⑳

清水正


林芙美子の文学(連載22)
林芙美子の『浮雲』について⑳
清水正

林芙美子の代表作『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』の関係に肉薄して
いく。

2009年5月28日(木曜)
「空は切り開いた森の中を、河のように青く流れていた」と作者は書いてい
る。これは客観描写であると同時に富岡が見上げた空である。この〈空〉が
青く流れる〈河〉にたとえられていることに注意しなければならない。先に
も指摘したように、富岡が眺める先に母性としての水(湖、飛瀑、河)があ
る。邦子、ニウ、ゆき子といった女性たちを通して、富岡は根源としての女
性性(母性)を求めている。
人の歩いて来る気配で、富岡が、ふっと後を振り返ると、意外なことには、
幸田ゆき子が、白いスカートをなびかせながら、急ぎ足で歩いて来ていた。
富岡は、自分の眼のあやまりではないかと思った。立ち停ってやった。
ゆき子は、息をはずませながら近寄って来た。
(197 〈十一〉)
富岡は一人でマンキンへ出掛ける気になった。食事を終えて、準備を整え、
いざ事務所を出るまでにどのくらいの時間を費やしたのか。ゆき子には黙っ
て食堂を出たのか。それとも行き先を言って、挨拶ぐらいは交わしたのか。
林芙美子は、そのへんのことを何ひとつ記していない。省略された時間が、
この小説の緊密度を高めている。
「空は切り開いた森の中を、河のように青く流れていた」という詩的描写
の直後に、富岡が振り返ると〈白いスカート〉をたなびかせながらゆき子が
急ぎ足で歩いてくる。天空の〈青〉から、地上の〈白〉への変換、〈河〉と
いう女性性の隠喩が〈幸田ゆき子〉という具体的な女となって富岡の眼前に
現れてくる。
林芙美子は「人の歩いて来る気配で」富岡が振り返ったと書いているが、
「常緑濶葉樹林が、枝を組み、葉を唇づけあって、朝の太陽を鬱蒼とふさい
でい」る森の中を一人歩きながら、富岡がひたすら〈幸田ゆき子〉のことを
想い続けていたことは明白である。まさに、富岡の願望をそのまま現実化し
たような場面である。
が、しかし林芙美子はあくまでも、森の中での富岡とゆき子の出会いは
〈意外なこと〉であったかのように書いている。富岡が自らの願望を無意識
の底へと抑え込んでいたように、作者もまた富岡の意識の次元に身をすり寄
せながら書いている。林芙美子の小説技法は巧妙で、それを駆使しながら読
者を徐々に作品世界の深みへと連れ込んでいく。
「どうしたの?」
「私、今日の仕事、何をすればいいンでしょう?」
「仕事?」
「ええ……」
「加野君は?」
「とてもよく眠っていらっしゃいますわ」
安南人の林務官がいるはずだが、来たばかりの幸田ゆき子には言葉が判
らないのだ。
「牧田さん、何か、仕事を言いつけてゆかなかったの?」
「いいえ、何もおっしゃいませんわ……」
(197 〈十一〉)
男と女、同じ〈浮雲〉のような存在である富岡とゆき子が出会うべくして
出会ったわけだが、何事にも起承転結はあるということで、彼ら二人は未だ
〈起〉の段階にある。富岡もゆき子も、自分の心の底に潜んでいる本音の声
をストレートに発することはない。言わば、どうでもいいようなことを口実
にして、ゆき子は富岡の後を追ってきたのである。もし、ゆき子が〈今日の
仕事〉の内容だけを知りたかったのであれば、加野が起きてくるのを待って
彼の指示を仰げばよい。ゆき子にして見れば、加野が正体もなく深い眠りに
落ちていたことは、富岡を追う理由を与えてくれたようなものである。毒舌
家ではあるが、照れ屋でもある富岡の積極的なアプローチを待つよりは、何
か理由を見つけて自分のほうから接近したほうがいいとゆき子は考えたので
ある。
一晩中、泣いて過ごしたゆき子の心の中に存在したのは白い肉の加野では
なく、毒舌で彼女を侮辱した富岡なのである。ここで二人が交わす、仕事上
のことなど、実は二人にとってどうでもいい。読者もまたそのことを分かっ
て、二人の会話に付き合っている。この何でもないような会話を、彼らの心
の秘密に通じている読者が読むから、それなりの緊迫感が伝わってくる。い
きなり、相手の心の奥底を覗き込んだりせずに、知らん振りして会話を続け
る。これもまた恋愛の〈起〉における不文律のマナーである。
二人は自然に、マンキンのほうへ歩を運んだ。富岡は黙って歩いた。ゆ
き子も黙って富岡の後からついて行った。ときどき、軍のトラックや、自動
車が通る。運転している兵隊が、日本の女を見て、はっと驚いたような表情
で通り過ぎて行った。ゆき子は富岡からわざと離れて歩いている。
(197
〈十一〉)
お互いに求め合っている二人が「自然に」、黙って同じ方向に向かって
歩いている。手を繋いでいるわけでもない、肩を組んでいるわけでもない、
ゆき子は富岡の後ろを「わざと」一定の距離を置いて黙って歩いている。戦
中戦後の、まだ古き良き日本の文化が生き残っていた頃の典型的な男と女の
歩く姿と言ってもいい。師の影を踏まずにいたのは弟子だけではない、女も
また男の影を踏まない距離を置いて黙って歩いていた。戦後六十四年たった
今、そんな風に歩きながらデートする男女は一人もいない。尤も、当時にあ
っても、離れて歩いていたのは、ひとの眼や世間の眼を気にしてのことであ
って、二人きりになればぴったりくっついていただろう。
いつまでも富岡がものを言わないので、ゆき子は、もう一度、小さい声
で、「どうしたらいいンでしょう?」と訊いてみた。
富岡はゆっくり振り返って、
「この先に、安南王の墓があるンですがね。見物したらどうです?」と、
怒ったように言った。
(197 〈十一〉)
ゆき子はもう一度、仕事上のことを富岡に訊く。森の中まで富岡を追って
来たゆき子が〈仕事〉のことなどどうでもいいと思っていたことは明らかで、
しかしあくまでもその〈大義名分〉上のことを口にするので、何もかもお見
通しの富岡はそのことには応えず、話をはぐらかすように、怒った口調で墓
の見物を勧める。
昨夜、ゆき子と二人の時を過ごし、慾情にかられながら目的を達すること
ができなかった加野は、苛々して寝つかれず、深酒で酔いつぶれてしまった。
富岡もまたニウや邦子や、ゆき子を想って〈妖怪変化〉の出没する夜を過ご
した。ゆき子は富岡を想って一晩中泣き明かした。そんな夜を過ごした二人
が、今、ダラットの森の中を歩いているのだ。彼ら二人が共通して求めてい
るものは明らかなのに、その目標物を手を延ばして掴み取ることが未だ許さ
れてはいないのだ。
何本もの枝が絡み合い、無数の葉が唇づけあっている、そんな妄想を抱い
て歩く富岡を追って〈白いスカート〉のゆき子が現れたのだ。苛々は慾情に
駆られた加野だけのものではない。ゆき子のこの〈白いスカート〉が、やが
て赤く染まるか、黒く染まるのか。
富岡は大股に歩いている。ゆき子には、富岡が親切なのかどうか、少し
も、判らなかった。後姿を、ゆき子は卑しいと思った。富岡は、ヘルメット
帽子を手にぶらぶら振っている。音のしないラバソールの靴が気持ちよさそ
うだった。ゆき子も、やっとの思いで、サイゴンで安い白靴を買い、いまも
それをはいているのだ。
(197 〈十一〉)
ゆき子の眼差しを通して、読者もまた大股に歩く富岡の後ろ姿を見る。
「富岡が親切なのかどうか、少しも、判らなかった」というのは、ゆき子の
意識にのぼった思いである。問題は、ゆき子が富岡の後姿を「卑しいと思っ
た」ことである。いったい、何を卑しいと感じたのか、作者はいっさい説明
しない。富岡の後姿に感じた〈卑しさ〉に感応する〈卑しさ〉がゆき子にも
あったということだ。ゆき子の純白な〈白いスカート〉で覆われた慾情と、
富岡のそっけない態度に隠された慾情が、今、富岡の後姿を直視するゆき子
の眼差しによって露呈したと言ってもいい。
が、ゆき子も作者も、慾情については触れない。ゆき子の眼差しが捕らえ
ているのは、富岡の手でぶらぶら振られているヘルメット帽子であり、音の
しないラバソールの靴である。帽子や靴が、性的なものを意味する隠喩とし
て描かれているが、ゆき子がそのことを意識していたわけではない。ゆき子
は男を誘惑する〈赤頭巾〉だが、今のところ〈白いスカート〉と〈白い靴〉
を履いた白雪姫を装っている。 引用するしかないんだよ、わかるか。
路が二つに岐れた。狭い人道のほうへ這入って、しばらく行くと、いつの
間にか、富岡の歩調はにぶくなり、ゆき子と肩を並べるくらいになった。ゆ
き子は、ああ自動車道路は、軍の自動車が通るので、あんなに大股に歩いた
のかと、富岡の考えに思い当たった。
(198 〈十一〉)
「路が二つに岐れた」・・おそろしい言葉だ。〈岐路〉なのだ。黙って富
岡の後をついて来たゆき子の〈岐路〉なのだ。ゆき子は富岡とは違った道を
歩むこともできたし、後戻りすることもできた。富岡は「狭い人道のほうへ
這入って」行った。〈狭い人道〉・・。〈狭い〉けれど〈人道〉なのである。
〈人道〉だから、ゆき子は富岡の後を追って行った。その後ろ姿がどんなに
卑しい姿に見えたとしても、富岡は〈人道〉を歩いている。
どこに〈人道〉があるのか。なにもかもメチャクチャな時代にあって、富
岡は狭い狭い〈人道〉を歩いている。ゆき子はそれがわかっている。だから
富岡の後を黙ってついて行っている。


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