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林芙美子の文学(連載21)林芙美子の『浮雲』について⑲

林芙美子の文学(連載21)林芙美子の『浮雲』について⑲
清水正

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林芙美子記念館
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林芙美子の文学(連載21)
林芙美子の『浮雲』について⑲

清水正


林芙美子の文学(連載21)
林芙美子の『浮雲』について⑲
清水正

林芙美子の代表作『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』の関係に肉薄して
いく。

2009年5月26日(火曜)
身支度をととのえて、食堂へ降りて行くと、窓ぎわに、幸田ゆき子が、
独りで食事をしていた。
「お早よう……」
ゆき子は泣き腫れたような眼で、富岡の挨拶に微笑しただけであった。
富岡は、ゆき子の優しい表情を見て、照れ臭かった。そのまま怒ったように、
自分の席へ行き、さっさと食事を始めた。食事を運ぶニウも、まるきり人が
変ってしまっている。仏像のような表情のない顔で、コオヒイや、トースト
を運んで来る。事務所のほうでは、マリーの打つタイプの音が忙わしそうだ
った。(
197 〈十一〉)
〈十〉はもっぱら富岡の眼差しを通して彼自身の思いや加野の思いが描か
れた。ニウや妻の邦子やゆき子を想う富岡の思いや、ゆき子に対する慾情に
捕らわれた加野の苛々などはすべて富岡の主観を通して描かれた。つまり
〈十〉ではゆき子自身には照明が与えられなかった。ゆき子がどのような思
いで自分の部屋に戻ってきて、どのような一夜を過ごしたのか、読者は全く
報告されなかった。
それが〈十一〉で、食堂で独り食事しているゆき子の姿が、階段を降りて
いく富岡の眼差しに捕らえられる。「お早よう……」と声をかけたのは富岡
である。ゆき子は泣き腫れたような眼で微笑する。この短い文章で、昨夜一
晩、ゆき子がどのような思いで時を過ごしたか、そして今、富岡をどのよう
な気持ちで迎えたのか、を端的に表現している。富岡は、ゆき子の優しい微
笑に照れ臭くなり、怒ったように食堂の席へと行き、さっさと食事をする。
男と女がこれから深い仲へと発展していく時の、短い言葉、微笑である。
ゆき子はただ富岡を憎くて泣いていたわけではない。激しい愛へと向かう
憎しみがあり怒りがある。憎しみと怒りの橋を渡れば愛へと辿りつけるわけ
ではないし、辿りついた愛の沼がより深いどろ沼であったりするわけだが、
今、二人は運命の糸に導かれたかのようにして、ダラットの食堂で、話を交
わすこともなく食事の時を過ごしている。
富岡とゆき子の関係を誰よりも深く察知して嫉妬の渦のただ中にいるのが
ニウである。昨夜、富岡と長い接吻を交わして、〈昆虫のような笑い声〉を
発したニウ、花畑で憎たらしいほどの健康さを体現していたニウが、今、富
岡とゆき子に嫉妬して〈仏像のような表情のない顔〉で働いている。
富岡はゆき子の微笑の挨拶の意味するところを十分に分かっているし、ニ
ウの仏像の顔が意味するところも分かっている。分かっていながら、そのこ
とを頭の中で言葉にしない。言葉にすれば事はさらに厄介なことになるし、
責任の所在もはっきりしてしまう。ところが富岡は、一人の夫として、一人
の愛人として、何の責任も負えない。富岡は、まさに浮雲のように、風の流
れるままにその身をまかせきっている。こんなことをしたらいけない、とい
う気持ちが生じたにしても、その気持ちを支える根拠がない。
倫理や道徳は一つの建前であって、建前が要求されるときには、その建前
を前面に出すが、建前などだれも問題にすることがなければ、自分の欲求に
従うまでのことである。ここダラットでは、富岡も加野も、所長の牧田も、
建前などをうるさく言う者はただの一人もいない。肉欲が募ればサイゴンの
歓楽街へでも出かけて行って処理して来るまでのことである。戦争で人殺し
をしているのに〈倫理〉も〈道徳〉もあるまいというのが、当時生きていた
者たちの本音であったろう。
富岡は、ゆき子とニウに対する想いに蓋をしたまま、事務所の方から聞こ
えてくるマリーの打つタイプの忙しい音に耳を傾けている。林芙美子はここ
でも富岡の心理の底へと降下していくことをせず、カメラを水平的に移動さ
せる。
食事を済まして、富岡は漂然と、四キロほど離れた、マンキンへ行く気
になった。安南王の陵墓附近の、林野巡視の駐在所まで、一人で出掛けて行
った。気持ちが屈している時は、釣りに出て行くよりも、むしろ、森林を相
手に自問自答したほうが快適であろう。・・ダラットの部落部落には、大小
さまざまの製材所があった。キイッと、耳をつんざく、裂かれる樹木の悲鳴
を聞きながら、曲がりくねった、勾配のある自動車道を、富岡は黙々として
歩いた。沿道は巨大なシイノキや、オブリカスト、ナギや、カッチャ松の森
で、常緑濶葉樹林が、枝を組み、葉を唇づけあって、朝の太陽を鬱蒼とふさ
いでいた。空は切り開いた森の中を、河のように青く流れていた。
(197
〈十一〉)
富岡は一人で四キロ離れたマンキンへ行くことにする。〈気持ちが屈して
いる時〉は〈釣り〉よりも、〈森林を相手に自問自答したほうが快適〉と考
えたからである。つい先程、昨夜の妖怪変化は雲散霧消してしまったはずな
のに、食堂でゆき子に会い、ニウの仏像のような顔に接して、富岡は気持ち
が屈してしまったらしい。富岡はデリケートな、ものに感じやすい男なのだ。
ところで面白いのは、作者は「森林を相手に自問自答したほうが快適であ
ろう」と書きながら、富岡の〈自問自答〉を全く書いていないことである。
しかし書いてはいないが、富岡の内面世界が直に伝わってくるような描き方
をしている。富岡は「キイッと、耳をつんざく、裂かれる樹木の悲鳴を聞き
ながら」内地で夫の帰りを待つ妻の邦子を、仏像の顔をして嫉妬と怒りを押
さえ込んでいるニウを、泣き腫れた眼で微笑の挨拶を返したゆき子を想った
であろう。否、彼女たち三人の内なる〈悲鳴〉だけでなく、ゆき子に慾情し
て酔いつぶれた加野の、そして自身の内面の〈裂かれる……悲鳴〉を重ねて、
富岡は黙々として歩いたはずである。
林芙美子は富岡の内部の声を具体的に書き記すのではなく、自然の描写に
託して表現する。「常緑濶葉樹林が、枝を組み、葉を唇づけあって、朝の太
陽を鬱蒼とふさいでいた」などという描写は並みの小説家には書けない。こ
の描写に凝縮されたエロスの肉汁が滴り落ちている。〈常緑濶葉樹林〉とは
どんな状況下にあっても衰えることのない性的エネルギーを湛えた男と女の
隠喩である。
富岡、ニウ、ゆき子、加野といった〈常緑濶葉樹林〉が、慾情にかられて
〈枝を組み〉〈葉を唇づけあって〉いるのだ。こんな凝縮されたエロティッ
クな光景はない。富岡の内面を言葉で直接的に表現するのではなく、自然の
描写に仮託することで、エロスを体感的に感じることになる。おそらく富岡
の頭の中に〈富岡とニウ、ゆき子〉〈富岡とゆき子、加野〉といった二重の
三角関係のゴチャゴチャが浮かんでいたはずである。
富岡は、これらの泥沼の三角関係を予期していた。だからこそ林芙美子は
「朝の太陽を鬱蒼とふさいでいた」という描写で富岡の内面を的確に表現し
たのである。


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