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林芙美子の文学(連載20)林芙美子の『浮雲』について⑱

林芙美子の文学(連載20)林芙美子の『浮雲』について⑱
清水正

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林芙美子記念館
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林芙美子の文学(連載20)
林芙美子の『浮雲』について⑱

清水正


林芙美子の文学(連載20)
林芙美子の『浮雲』について⑱
清水正

林芙美子の代表作『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』の関係に肉薄して
いく。

2009年5月25日(月曜)
富岡は、顔を洗いに洗面所へ出て行ったが、そのついでに、加野の扉を叩
いてみた。返事がなかった。ノブに手をかけると、扉はニスの匂いをさせて
すっと開いた。窓は開けっぱなし、床には服をぬぎすてたまま、加野は茶縞
のだんだら模様のパンツ一つで、裸でベッドに寝ていた。むきたての玉子の
ような、蒼味がかったすべすべした肌で、うつぶせになって眠っている。唇
は開いたままときどき、樋に水の溜るようないびきをあげている。天地無情
の姿かなと、富岡は、加野の冷い肩を大きくゆすぶって起した。加野はにぶ
く眼を開けた。昨夜の痴情のためか、眼が血走り、視線がさだまらない様子
だった。
(196 〈十〉)
「躯を動かすこと自体に無意味なものを感じる」富岡が、それでも顔を洗
いに洗面所へ出て行く。〈無意味〉な地点から〈日常〉の世界へと移行する
ために、富岡は躯を動かす。富岡は今までも、これからも躯を動かす意味を
見いだせないままに、惰性的に日常の世界で生きるために躯を動かすことに
なろう。
眠れない夜を、いつの間にか眠りについて目覚めた富岡がまず最初にした
ことは窓を開けてラダット高原の朝日を浴びた光景を眺めることであった。
次いで富岡の眼差しはニウの姿を捕らえるが、ニウの姿を眼にした彼はとう
ぜんのこととしてゆき子のことを想ったであろう。妻がおり、ニウがおり、
新たにゆき子の存在が気になりはじめた富岡は、それでも虚無の枕に頭を沈
めていることが最もよい状態と感じていた。
その富岡が洗面所に向かったということは、生理的欲求に従ったまでのこ
とということも含めて、日常の持つ力そのものに屈伏せざるを得なかったこ
とを意味している。富岡の虚無は、日常を断ち切って、彼を新たな世界へと
踏み込ませることをしない。ラスコーリニコフが屋根裏部屋から通りへ出て、
何か思う惑うらしくのろのろとк橋の方へ向かっていったようには、富岡に
は目指すべき〈橋〉が存在しなかった。
〈橋〉の向こう側の〈神〉の世界への踏み越えといったテーマが富岡には
まったく存在しない。富岡は窓を開けて外界の世界へ眼差しを向けることは
できても、その世界の彼方にある神的領域へと眼差しを注ぐことはない。富
岡の生を支えているのは、昨日と変わらぬ今日であり、今日と変わらぬ明日
である。つまり富岡は日常の中に埋没して生きている。
洗面所という余りにも日常的な場所に行くために富岡は躯を動かした、そ
してそのついでに加野の部屋の扉を叩いた。ゆき子のことが気になってしか
たのない富岡にしてみれば、洗面所よりも加野のことがまず第一に気になっ
たはずだが、そのついでに」加野の扉を叩いたというところに彼の一種の気
取りがかいま見える。
扉を開けたときに鼻孔をつくニスの匂い、加野の冷たい肩の感触などは林
芙美子ならでの優れた感覚描写と言えようか。茶縞のだんだら模様のパンツ、
蒼味がかったすべすべした肌、樋に水の溜まるようないびき、無理に起こさ
れた加野の血走って視点の定まらない様子など、林芙美子の描写はここでも
臭覚、視覚、触覚が総動員されている。富岡の感覚を通して描かれるが、こ
の場面は客観的なカメラが捕らえた場面ともなっているので、読者もまた加
野の部屋の様子や、パンツ一枚でうつ伏せに寝ている加野の姿などを鮮明に
眼にすることができる。
富岡は、そのまま洗面所に行き、冷たいシャワーを浴びた。朝になった
のだ、何事もないじゃないか……。昨夜の妖怪変化は雲散霧消してしまった
のだ。大判のタオルにくるまり、急いで二階へ馳け上る元気が出た。アイロ
ンのきいた、白い半袖の上着に、ギャパヂンの茶色の長洋袴をはいて、鏡の
前で苦手な髯剃り作業にかかる。コオヒイの香ばしい匂いが二階までのぼっ
て来た。教会の鐘が鳴り始める。
(196 ~197 〈十一〉)
この場面を読んですぐに想い起こしたのは、老婆殺しの妄想にかられてペ
テルブルクの街を彷徨っていたラスコーリニコフが、ペトロフスキー島の藪
の中で眠りに落ち、痩せ馬殺しの夢を見た後で、『神さま! 私に道をお示
しください。私は断念いたします。あの呪われた……私の空想を!』を祈る
場面である。作者は次のように書いた「橋を渡りながら、彼は静かな落ちつ
いた気持でネワ川を眺め、赤々と輝く太陽のまばゆいばかりの夕映えに目を
やった。体は衰弱しきっていたが、疲労感はほとんど感じなかった。それは、
まる一月も化膿していた心臓の腫物が、ふいにつぶれたような思いだった。
自由、自由! 彼はいまや、あのまやかしから、妖術から、魔力から、悪魔
の誘惑から自由である!」(引用は岩波文庫上巻・江川卓訳。129 )と。
冷たいシャワーを浴びただけで、昨夜の妖怪変化が雲散霧消してしまった
と思うのは、富岡の肯定的な錯覚である。しかし、作者はその富岡の錯覚を
しばし保証する。元気良く二階へ馳け上がって髯を剃りはじめた富岡は〈コ
オヒイの香ばしい匂い〉を嗅ぎ、教会の鐘の音を耳にする。まるでそれらは
富岡の〈復活〉を祝しているかのようではないか。しかし、〈妖怪変化〉の
物語はまだ導入部に入ったばかり、いよいよこれから本格的に開始されるの
だ。


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