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林芙美子の文学(連載19)林芙美子の『浮雲』について⑰

林芙美子の文学(連載19)林芙美子の『浮雲』について⑰
清水正

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林芙美子記念館
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林芙美子の文学(連載19)
林芙美子の『浮雲』について⑰

清水正


林芙美子の文学(連載19)
林芙美子の『浮雲』について⑰
清水正

林芙美子の代表作『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』の関係に肉薄して
いく。

2009年5月25日(月曜)
〈十一〉を読む
「ボンヂュウル……」
マリーの柔い、朝の挨拶が、階下の踊り場で聞えた。重い頭を枕から持
ち上げて、富岡は、腕時計を眺めた。九時を指している。そんな時間なのか
と、ゆっくり起きて、富岡兼吾はしばらくベッドで煙草を吸った。ずきずき
と頭が痛んだ。何をしたらいいのか、いっこうに、躯は動きたがらない。す
べてが茫々としている。小禽が可愛くさえずっていた。ゆっくりと窓を開け
ると、かあっとした高原の空と、緑は、お互いに、上と下とが反射しあって
いるかのような爽涼さであった。渋色の、光って冷たそうな服を来た、ニウ
が、広い庭隅の花畑に立っていた。疲れを知らない、女の健康さが、富岡は
憎くもある。長い接吻をしたあと、昆虫のような笑い声をたてた、ニウの心
の中が、富岡には不思議であった。思いきりのびをして、また、ゆっくりと、
ベッドに腰をかける。躯を動かすこと自体に無意味なものを感じる。
(196
〈十〉)
引用して改めて思うが、林芙美子の文章は鮮明に映像化される。富岡の聴
覚、視覚を通してひとの声や姿がはっきりと捕らえられる。読者はまるで映
画館の観客席に座って映画を観るように、作者が描いた場面を読みすすんで
行く。富岡の気だるい感じや、富岡がベッドで吸う煙草の煙の匂いまで伝わ
ってくる。富岡のズキズキする頭の痛さまで感じてくる。「すべてが茫々と
している」という富岡の虚無の感覚が直に伝わってくる。うまい。林芙美子
はうまいなあ、と思う。同じ小説家だったら密かに嫉妬するだろうと思う。
この気だるい、虚無のただ中にひたって何もする気のない富岡の耳に、小
禽の可愛らしいさえずりが聞こえてくる。なにげない描写に見えて、ここに
は富岡の優しい心のありようも端的に表現されている。小禽のさえずりを可
愛いと思う、そういう優しさを富岡は持っている。その富岡が「ゆっくりと
窓を開ける」のだ。すると富岡の眼に「かあっとした高原の空」がいっぺん
に襲いかかってくる。この高原の青空は、富岡の贅沢な憂鬱の灰色を一挙に
塗り変える力を持っている。
作者は続いて、高原の「緑は、お互いに、上と下とが反射しあっているか
のような爽涼さであった」と書く。空の青と、高原の緑がお互いに反射しあ
っている光景を眺めながら、富岡は胸一杯に爽涼感を味わっている。この感
覚はひとり富岡だけのものでもない。読者もまた富岡と一体となって眼前に
開けたダラットの高原の爽やかな青と緑の反射する眩しいほどの光景を眺め
ている。富岡の内なる憂鬱な気分と、外界の爽やかな光景との対比が、見事
に、端的に描かれる。
富岡の眼差しは次に、広い庭の隅の花畑に立っているニウの姿を捕らえる。
ニウは〈渋色の、光って冷たそうな服〉を着ている。カメラは富岡が窓を開
けて見た外界の世界を俯瞰的に捕らえ、次にニウに対象をしぼり込んで映し
出す。面白いのは、ここでニウの着ている服の色まで鮮やかに捕らえながら、
彼女の顔の表情をアップで映し出していないことである。
作者は意図的にそうしているのだろうか。描かれた限りで判断すれば、富
岡はニウの顔をきちんと凝視したことがないということになる。ニウは富岡
の肉欲を満足させるだけの〈女〉であり、富岡の身の回りの世話をする〈女
中〉であって、未だ人格を備えた女性として描かれていない。
作者は「疲れを知らない、女の健康さが、富岡は憎くもある」と書いた。
ニウはまるで健康な動物のような存在と見られている。これは単に富岡がニ
ウを蔑視しているというよりは、生物の次元での女の優越性に対するひがみ
や、女の逞しい健康なからだに対する畏怖の感情も含まれているだろう。あ
るいは、異人種のニウに対して、本当には理解できない苛立ちもあったかも
知れない。
作者は「長い接吻をしたあと、昆虫のような笑い声をたてた、ニウの心の
中が、富岡には不思議であった」とも書いた。富岡にとってニウはついに理
解不能な〈昆虫〉のような存在でしかなかったのであろうか。〈長い接吻〉
は普通ならお互いの愛の確認を意味する。しかし〈接吻〉の後、ニウの笑い
声が〈昆虫のような笑い声〉に聞こえてしまう富岡にとって、ニウは愛の相
手ではなかったということになる。
ニウに対する〈長い接吻〉は愛の証というよりは、富岡のニウに対する欺
瞞の証である。だからこそ、ニウが喜びの声をあげても、その声が昆虫のよ
うな笑い声、何か奇妙な理解しがたい、さらに言えば彼自身の欺瞞を鋭く突
く嘲りの声のようにも聞こえてしまうということである。が、富岡は自分の
心の闇の中にどこまでも降りて、その実態を明晰に認識することを巧妙に回
避する傾向がある。富岡はニウの心の中が不思議である、というような他人
事のような決めつけ方をして、ニウと自分との、本当の愛の通っていない関
係の欺瞞から眼をそらす。さらに言えば、真実の愛も、欺瞞の愛も、その区
別が磨滅した虚無の気だるい気分の中に漂っているのである。
そういった虚無に支配されている富岡を作者は「思いきりののびをして、
また、ゆっくりと、ベッドに腰をかける。躯を動かすこと自体に無意味なも
のを感じる」と書いた。富岡の虚無を作者林芙美子もまた共有しているとい
う証である。違いは、富岡は虚無の直中を生きるだけだが、林芙美子はその
虚無を生きるほかなかった一人の男を徹底して描き続けたということである。
虚無を描く虚無のただ中にあって、林芙美子は闘い続けた小説家なのであ
る。「躯を動かすこと自体に無意味なものを感じる」富岡は、いつグレゴー
ル・ザムザに変身してもおかしくはなかった。世界を拒みつつ、世界に内属
するジレンマをかかえたまま、富岡はその退屈な生を生き続ける。なぜなら、
富岡は死ぬことの意味からも拒まれているから。


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