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林芙美子の文学(連載16)林芙美子の『浮雲』について⑭

林芙美子の文学(連載16)林芙美子の『浮雲』について⑭
清水正

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林芙美子記念館
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林芙美子の文学(連載16)
林芙美子の『浮雲』について⑭

清水正


林芙美子の文学(連載16)
林芙美子の『浮雲』について⑭
清水正

林芙美子の代表作『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』の関係に肉薄して
いく。

2009年5月21日(木曜)
『浮雲』の中に〈立派な人間〉はただの一人も登場しない。林芙美子は人
間をありのままに描いている。ドストエフスキーの人間認識の一つに、すべ
ての人間は一人の例外もなく卑劣漢だというのがある。『虐げられた人々』
のワルコフスキー公爵、『罪と罰』のラスコーリニコフ、『悪霊』のピョー
トル・ヴェルホヴェーンスキー、『カラマーゾフの兄弟』のフョードル・カ
ラマーゾフなどにそういった人間認識が付与されている。しかしドストエフ
スキーの場合は、他方で神を信仰する、この世で真理を体現している人間も
存在しているかも知れないという思いがある。『罪と罰』のソーニャ、『白
痴』のムイシュキン公爵、『カラマーゾフの兄弟』のアリョーシャ、ゾシマ
長老などがそういった考えのもとに創作されている。
わたしはドストエフスキーはこの両極に引き裂かれた混沌の精神を生きた
ディオニュソス的な作家と見ているが、林芙美子の小説に信仰に向かう純粋
無垢な人間は登場しない。富岡もゆき子も、そして加野も、自らの慾情を否
定しないし、否定する根拠を持っていない。
富岡は友人から女を奪って妻にし、女中のニウと関係を続け、ゆき子とも
男と女の関係の泥沼に入り込んで行くが、加野にもまた暗い過去があったこ
とは「船の中に女をしのばせて、あわただしいあそびをした」云々という言
葉で明らかである。ゆき子が「獣のような眼の光り」を発すれば、富岡も加
野も〈獣〉としての本能を抑えきることはできないのである。理性や分別な
どは〈慾情〉という獣の前では従順にひれ伏すか逃げだすほかはない草食動
物なのである。
生きるとは、自らのさまざまな欲求に従うことであって、強者も弱者も等
しく、その度合いに応じて欲求を満足させるために生きている。とりあえず、
今、加野はゆき子に慾情し、ゆき子を自分のものにしようとしているのだが、
自己保身の分別が働いて、そのことに気づかぬままにゆき子の最大の理解者
足ろうとしている。この欺瞞に気づかないところに加野のゆき子に対する限
界と、自分自身に対する限界がある。
もし加野が獣としての本能に忠実であれば、富岡という獣が自分の最大の
ライバルであることにすぐに気づいただろうし、富岡がゆき子をものにする
前に自分のものにしたであろう。加野が富岡の呼ぶ声に従って道へ出て行っ
てしまったその時、獣としての加野はすでに富岡に敗れていたのである。否、
その前に、獣としての加野が、獣としてのゆき子に敗れていたと言うべきか
もしれない。
〈十〉を読む
富岡はおもしろくもなかったので、食堂の前で加野に別れると、さっさ
と二階へ上って行った。夜光時計を見ると、十一時をかなりまわっていた。
部屋へ這入ると、女中のニウが、富岡の洗濯物を整理して、棚へしまってい
た。にぶい動作で、片づけている。富岡はゆっくり片づけている、ニウの様
子にやりきれない淋しさになり、裏梯子から標本室のほうへ降りて行った。
標本室に燈火をつけて、円い木の椅子に、腰を掛けた。陳列に並んだ、乾い
た標本を、ひとわたり眺めながら、何のためにこんなところに所在なく腰を
掛けているのか、自分で自分が判らなくなっていた。
 (193 〈十〉)
〈九〉における富岡と加野の会話においても、浮き彫りになったのは彼ら
一人一人の孤独である。同じ山林事務所で働く先輩後輩と言っても、そこに
ただ一人の女が介入してくるだけで、その女に関心を抱く男たちは孤独の殻
の中に身を竦めるのである。交わす言葉は相手の心に向けてのものではなく、
ちっぽけな心理的駆け引きへと落ちていく。
加野の〈白状〉〈告白〉はとりあえず〈好都合〉だからなされたのであっ
て、ゆき子に対する加野自身の真実の思いが語られたわけではない。加野は
自分のあるがままの思いを富岡に白状する気など微塵もない。ゆき子の慾情
に駆られた小心者の加野が、ライバルの富岡に自分の思いを正直に語ること
はない。二人の会話を読んでいてつくづく思うのは、彼らの発する言葉は、
内部にその多くを残して、ほんの二言三言口に出すだけなのなのだな、とい
うことである。
ドストエフスキーの人物たちは、まるで長大な論文を朗読するように饒舌
に自らの思想を語るが、林芙美子の人物たちは多くを語らない。語るべき言
葉は口に出るまでに何度も厳しい自己検閲を経ることになる。富岡は草むら
から出てきた加野に対する不快な思いを口に出して言わず、加野はその不快
の反射を受けながらもそのこと自体について触れようとはしない。お互いに
そのことには触れないことが〈好都合〉であるかのように、肝心要について
遠回しの探りしか入れようとしない。
読者は加野とゆき子の関係を知っているが、富岡はそれを知らない。富岡
が〈正直〉に〈白状〉されたのは「娘だよ。手ひどくやっつけられた」とい
うことだけであって、加野とゆき子の間にどこまでの関係があったのかを知
ることはできない。富岡は加野がゆき子に関しては〈秘密〉を守り通す気で
いることを知って、なおさら不快感を増したに違いない。加野は言わば、ゆ
き子のことで富岡に心を閉ざした。富岡と加野の間にどのような友情が成立
してかは詳らかにしないが、ゆき子のことで二人の間に修復不可能な亀裂が
生じてしまったことは明白である。彼ら二人はお互いに、今のところその亀
裂に布を被せて知らん振りをしているに過ぎない。
作者は「富岡はおもしろくもなかったので」と書いているが、その内部に
具体的には立ち入ろうとしない。作者が描くのは、富岡の眼差しが捕らえた
女中のニウである。ニウは富岡の洗濯物を「にぶい動作」で「ゆっくり」片
づけている。その様子に富岡は「やりきれない淋しさ」になる。ニウの〈や
りきれない淋しさ〉が富岡に伝染したのか、それともニウの様子に妻の邦子
をだぶらせたのか。いずれにせよ、林芙美子が描くニウの姿は、読者の魂を
直撃する。
読者はニウがどんな顔をしているのか、どんな服装をしていたのかを知ら
ない。ニウの年齢も、家族関係も、生い立ちも知らない。ニウと富岡はどの
ようにして出会い、どのような関係を続けているのか、ニウが富岡に対して
どのような思いを抱いているのか、その具体を何も知らない。読者はただ
「女中のニウが、富岡の洗濯物を整理して、棚へしまっていた。にぶい動作
で、片づけている」という場面を見せられるだけである。しかし、この短い
場面が、ニウの内面と富岡との関係をすべて凝縮して語り尽くしている。
時間は夜の十一時過ぎである。ニウはひたすら富岡の帰りを待っていた。
てきぱきやればすぐに終える洗濯物の整理を、にぶい動作でゆっくりゆっく
り片づけながら、富岡の帰りを待っていたのだ。富岡の帰りを待っているの
は、現地妻のニウだけではない。ニウの姿は内地の妻邦子のそれに重なる。
ニウは富岡の熱い抱擁を、優しい言葉を掛けられることを期待して待ってい
る。が、富岡はニウを待たせながら、ゆき子を追って行った加野のことが気
になって、夜遅くまで戻ってこなかった。ゆき子と加野のことで不愉快な気
持ちのまま、富岡はニウの待っている部屋へと這入ってきたのだ。
ニウはまるで従順な下女のように、富岡の顔を見るでもなく、怒りや悲し
みを表に出すわけでもない。ニウはひたすら黙って「ゆっくり片づけてい
る」。この〈にぶい動作〉そのものに、ニウの富岡に対するすべての思いが
表出している。これは、ものに感ずる心を持っている男ならば、実に怖い姿
である。〈やりきれない淋しさ〉は富岡だけのものではない。
ニウも、妻の邦子も、この〈やりきれない淋しさ〉の直中に生きている。
「何のために、こんなところに所在なく腰を掛けているのか、自分で自分が
判らなくなっていた」この思いもまた富岡一人のものではない。何で、夜遅
くまで富岡の帰りを待ちながら、夫でもない男の洗濯物など整理していなけ
ればならないのか、ニウの描かれざる思いに眼差しを向ければその〈淋し
さ〉に戦慄する。内地でひたすら夫の帰りを待っている邦子にもまた「何の
ために……」という思いが不断に過っていたはずである。


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