梁石日の「終りなき始まり」

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地上を水平に移動するタクシードライバー
 梁石日の『終りなき始まり』(朝日新聞社)に登場するヒロイン淳花は自分の気持ちに正直で、感情を抑えることができない。主人公の文忠明はタクシー運転手で暮らしをたてている。妻もおり、子供も二人いるが、淳花と深い関係にあることをべつに疚しいこととは思っていない。忠明は自分を無頼漢とでも思っていたのだろうか。描かれた限りでみれば、彼は生活力のない中途半端な男にみえる。なにしろ彼は気儘に運転手をしているので、まとまった金を稼ぐことができず、満足に生活費を入れられない。そのくせ淳花とはしょっちゅう会って飲んだりセックスしたりしている。二十年連れ添った妻はこんな忠明に愛想をつかして口もきかない。お互いに息が詰まるような生活を強いられているが、忠明も妻も、ほかに出ていくあてがないので我慢している。忠明はまだ淳花がいるからいいようなものの、妻にとって愛想をつかした男との生活は地獄であったにちがいない。両親が不仲な子供は、もうそれだけで十分に不幸である。が、子供たちを誰よりも愛しているという忠明は、どういうわけか彼らの内部に眼差しを向けることはなかった。彼の心をとらえているのは、実は何もないのかもしれない。彼は在日朝鮮人、淳花は在日韓国人で、新宿のスナック「ファティ」で知り合い、その後急速に親しくなった。それにしても、忠明が淳花に魅かれるのは分かるが、なぜ淳花がこんな中途半端なろくでなしの男に魅かれたのか理解に苦しむ。忠明は男としての性的魅力に溢れていたのだろうか。彼は淳花といるとすぐに勃起する男で、かなり激しいセックスをする。男と女が深い仲になる一つの要因としてセックスを欠かすことはできない。もし忠明がインポであったなら、淳花との関係ははじめから成立しなかったようにも思う。
 この小説には光州事件を初めとして様々な政治的事件がとりあげられ、登場人物のあいだで烈しく議論されてはいるが、忠明に限って言えば、すでに人間の問題を政治的次元で解決できるとは思っていないことが分かる。彼は政治の問題に関しては意外と覚めた眼差しを注いでいる。否、政治や文学や芸術、それに女に関しても、特別な期待など抱いていない。忠明は淳花との関係をも、もう一つの冷静なカメラで見つめている。彼は淳花のように、生きてある〈今〉そのものに全身を没することはできない、そういったタイプの男である。彼がタクシードライバーであったということは単なる偶然ではない。在日朝鮮人である彼が不可避的にこういった職業に就かざるを得なかったというのでもない。彼は運転手としてこの地上の世界を水平的にどこまでも移動することができる。垂直的な諸問題、たとえば「人間はどう生きるべきか」「在日のアイディンティはどこに求めるべきか」などといったことの本質的な追求を断念してしまった者にとって、世界を水平的に移動し続けることはひとつの快楽なのである。ハイデガーの言葉で換言すれば、世界へと頽落する快感とでも言えようか。忠明にとって〈今〉を激しく生きる淳花の愛を受動的に受け入れることも、この〈快楽〉と同じような性格を持っている。読者は忠明と淳花の烈しいセックスの場面に騙され、二人の間に純粋な愛が培われていたなどと思ってはなるまい。忠明は淳花のからだを受け入れ、快楽を貪っているが、淳花の内なる願いに関しては何ひとつ応えていない。淳花は在日韓国人であることを自覚したときから、真剣に自己のアイディンティティを求めた。彼女は朝鮮の伝統的な伽耶琴(カヤグム)を習い、その習得によって韓国人の本源を掴もうとする。彼女の願いは愛する忠明と共に韓国に渡り、本格的に伽耶琴に打ち込むことであった。しかし忠明には淳花のその願いを叶えてやろうとする気持ちはなかった。彼は在日朝鮮人であるが、母国語を知らなかったし、敢えてその勉強をしようという気もなかった。淳花の内的な願望を叶えてやることのできない忠明は、いずれ淳花との関係にも破綻が訪れるであろうことをはっきりと予感していた。淳花は〈今〉を熱情的に生きるが、忠明は〈今〉を流れているだけである。二人はセックスで〈今〉を共有しても、心は別々の時空を生きている。ここに二人の孤独がある。どんなに烈しく求め合い、時と場所もわきまえずセックスをしても、二人は各々の〈孤独〉を噛みしめるほかはない。
 文忠明は作者梁石日(ヤンソギル)自身をモデルにしているが、梁は忠明をいっさいカッコイイ男としては描いていない。忠明は生活能力のない、妻も愛人も幸福にはできなかった中途半端なろくでなしである。ただ一つ、この男の取り柄は〈文学〉を捨てなかったことにある。忠明は〈小説〉を書くことで、自らの生きてある姿に真摯に立ち向かっている。傍から見て、どんなにぶざまに見えようが、彼が〈文学〉と共にあるかぎりは、少なくとも彼は自分の生に誠実であるとは言える。絵に描いたようなすばらしい愛や幸福があるわけではない。生きて〈ある〉ということのうちには、悲しい、苦しい、どうしようもないことが含まれている。淳花と同棲した忠明の所に、妻の無言電話がかかってくる場面は卑劣、卑怯を超えて辛い思いが立ち上がってくる。愛想をつかしてさえ、自分を捨てた男の所に電話をかけてしまう女の指の震えにこめられた〈何か〉を感じるとき、それは悲しい、せつないなどという形容をはるかに超えてしまう。
 忠明の最後の女として登場した田代圭子は、感情の起伏の烈しい淳花とは対極的なおとなしい女である。この女は〈文学〉に賭けている忠明を最もよく理解している。淳花には忠明を自分の意のままに支配しようとするわがままな気持ちがあったが、圭子にはそういった支配欲はない。忠明に淳花の死を知らせる圭子の、静かだが確固たる愛には心を撃たれる。圭子は忠明と淳花の関係を知った上で、それを許容する優しさがある。
 八月に入ってすぐに韓国へ行ってきた。ソウルに着いたその日、教え子の李恩珠に案内された古本屋に李良枝(イヤンジ)の『由熙(ユヒ)』(講談社)を発見した時には、その偶然に驚いた。李良枝は淳花のモデルになった女性である。今、李良枝は日本よりも韓国で読まれているのかもしれない(ソウル市内の大書店の日本作家のコーナーに李良枝の韓国語訳の著作が五冊ほど置いてあった)。朝鮮の伝統的な伽耶琴や舞踊を習うことで、母国の本源に迫ろうとした李良枝は、やがて小説を書くようになる。「群像」(一九八八年十一月号)に発表された「由熙(ユヒ)」は第百回芥川賞を受賞する。小説家としての未来が期待されたが、李良枝は三十七歳という若さで病死してしまった。はたして李良枝は『由熙』という小説で何を追求したかったのであろうか。(この小説については次回でとりあげたい。なお、今月最も注目した小説は「文學界」に発表された玄月の「おしゃべりな犬」であった。今、わたしは在日の作家に注目している)。
(「図書新聞」2002年9月7日)

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