2009
06.24

「日本文学特論Ⅱ」(日芸大学院講座)坂本綾乃(連載8)

ドストエフスキー関係, 日本文学特論Ⅱ

「日本文学特論Ⅱ」(日芸大学院講座)坂本綾乃(連載7)
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「日本文学特論Ⅱ」(日芸大学院講座)坂本綾乃(連載8)
「マルメラードフの告白」について②
坂本綾乃



「日本文学特論Ⅱ」(日芸大学院講座)坂本綾乃(連載8)
「マルメラードフの告白」について②
坂本綾乃

 自分の身の上を語る酔っ払いのマルメラードフ。彼は私にとってただの酔っ払いではない、ラスコーリニコフと同様に何かを持った存在であると書いたが、清水正教授の著書、『ドストエフスキー論全集 2巻「停止した分裂者の覚書」』の中の「マルメラードフの「告白」の読解と再構築」を読むことで、見方が変わってきた。
 1、マルメラードフにとってのラスコーリニコフ
 マルメラードフの告白と言うと、酔っ払いながら身の上を語るマルメラードフ自身に目が行ってしまう。それは彼の独特な口調の絡みっぷりと、彼を取り巻く周り(ラスコーリニコフをはじめとする、酒場の人々)の様子があるからだろう。何度も何度も繰り返し語ってきたであろう、身の上話を本当の意味で理解することができると思えたラスコーリニコフの出現は、ラスコーリニコフにとっては偶然の出来事であったかもしれないが、マルメラードフにとっては必然だったに違いない。「いわずとも知り抜いているそこらのやじ馬どもに、己の恥がさらしたいためじゃごわせん。ものに感じる心を持った教育のある人をさがしているからなんで」とあるように、マルメラードフはラスコーリニコフのような人、いやラスコーリニコフを待っていたのだ。
 マルメラードフが、階級の低い教養のない連中を一種の傲慢な侮蔑の色を浮かべて排していたことから、彼が階級や教養に対して敏感に反応していることが見て取れる。そんな彼がなぜ酒に溺れることとなったのだろうか…
 マルメラードフにとって、ラスコーリニコフは自分の眼鏡にかなう人物であり、そんなラスコーリニコフに対して「告白」をしていく。
 
 2、カチェリーナ
 マルメラードフの告白において多く語られているのが、妻のカチェリーナと娘のソーニャのことだ。
マルメラードフは、別にカチェリーナに恋い焦がれていたわけでもなく、幼い子ども三人を抱えて困窮していた様子を見るに見かねて、プロポーズしたのだ。
マルメラードフはカチェリーナのことを語るさいに、「貴婦人」「奥方」などを用いて持ち上げている。そして何度も彼女の家柄や教養を強調していることから、家柄や教養を兼ね備えながらも困窮している。そういった女性に手を差し伸べたことでマルメラードフはどこか優越感を感じ取っていたのではないだろうか。
カチェリーナはどうだろうか、マルメラードフが持ち上げるような家柄での高い教養を持った女性とは到底思えない発言をソーニャにしている。読者は、彼女を「貴婦人」と思うことがなかなかできない。カチェリーナにしてみれば、自分のような貴族の家柄出身で、教養をもつのに何でまた、マルメラードフのような男のプロポーズを受け入れなければならない状態になったのかと思うだろう。幼い子どもを抱えた状態ではどうすることもできなかった。
マルメラードフとカチェリーナの間には「愛」はなかった。当初、カチェリーナの身分や教養のこともあり、一滴の酒にも手を出さなかったと語るマルメラードフも、肉体的にも精神的にも慰めてもらえなかったことで次第に酒に溺れていく。この二人の関係はあまりにも特異で世間一般でいうところの夫婦像は見えてこない。同居人と言ったほうがむしろしっくりくるだろう。
しかし、ソーニャの身売り一件のあとで、再就職を決めたマルメラードフに対してカチェリーナがとった行動は思わず笑ってしまうほどに、慈愛に満ちている。マルメラードフが「神の御国に引っ越してきたようなあんばいだった」といように、カチェリーナが育ってきた環境が垣間見えるのだ。
 どうやって工面したのか、カチェリーナはマルメラードフの服一式をそろえる。
おまけに、マルメラードフが最初の給料二十三ルーブリ四〇カペイカをそっくりもってかえるや、「まあ、なんてかわいい坊ちゃん!」と今まで散々罵っていたことを微塵も感じさせないくらいに豹変する。確かに私だって自分の彼氏がよれよれのスーツを着ていたなら、一着ぐらい良いものを買ってあげたくなるだろうが、それにしてもカチェリーナという女はしたたかだ。
 3、ソーニャ
 ソーニャが体を初めて売ってきたその時、マルメラードフは寝ていたという。しかも酔って寝ていて、そのままソーニャが帰って来てからの一部始終を見ている。酔っているといいながら、自分の目でしっかりと娘が体を売ってきた事実を見ている。マルメラードフの語りではソーニャ像はまるで聖女のようにとれるが、本当の聖女であるのなら体は売らないだろう。
 ソーニャが初めて体を売りにいく前に、カチェリーナは「なにを大事にしているのさ! たいしたお宝でもあるまいに! 」と言っているが、ソーニャが帰ってきたあとの行動を見ると、本心ではなかったように感じる。
確かにソーニャは自分の処女を金で売った。それも高いかどうかも分からない三〇ルーブリといった値段で売ったのだ。しかし、考えようによってはソーニャは体を売ったことで家族を救っている。肉をパンに、血をワインに変えたといわれるキリストまでは行かないが、自己犠牲といった形で人を救っているのである。そういった意味では汚れているかもしれないが、聖女であることには変わりないだろう。 
 しかし、ソーニャの境遇はカチェリーナのそれとは違った意味で悲惨だ。経済的にも、また自分が育った環境(酔いどれの父親、肺病もちの義母、幼い弟妹)を見捨てて生きていくことは彼女にはできなかった。日に十五カペイカにもならない手仕事では一家の窮状を救うことはできそうもない。そんな状況の中で、三度にわたって女衒のダーリヤ・フランツェヴェナが家主のアマリヤを通して身売りの件で話を問い合わせてくる。このことはソーニャがカチェリーナのように、気の強い女性でなかったがゆえに受け入れざるをえなかったのだ。
 自分の娘が体を売ろうとしていることを知っていながらも目をつぶっていたマルメラードフは、体を売ろうか売るまいかで悩んでいたソーニャを罵ったカチェリーナよりも性質が悪い。マルメラードフの話を聞いた人はソーニャに対して同情するも、カチェリーナに対しては反感を覚えるだろう。しかし、マルメラードフは、先手を打ってカチェリーナを擁護する。カチェリーナを擁護することで、見てみぬ振りをした自分自身をも擁護しているのだ。
 体を売ったソーニャだが、なぜ売春婦にまで身を落とさなければならなかったのだろうか、しかるべき手順を踏んでいれば黄色い鑑札を受けることもなかったろうに、あまりにも哀れである。再度職を失った父親に対して何も言わずになけなしの金を渡すソーニャ、なぜマルメラードフを罵らなかったのか?
 彼女は、酒に溺れる父親、病に苦しむ母親、その全てを受け入れた。だから、マルメラードフに何も言わなかった。
 ドストエフスキーが、ソーニャが客をとっていることを書かなかったことで、彼女の売春婦としての存在がはっきりと形を成さなくなった。ゆえに読者は彼女を、運命に身を任せる、おとなしい女と美化する。しかし、ソーニャだってはっきりとした感情をもっていただろう。彼女なりの葛藤を越えた上で身を売った彼女を、おとなしい女と括ってしまうことは、ソーニャについて考えれば考えるほどできなくなる。
 マルメラードフの告白はマルメラードフが語る形を取っているが、彼自身をはじめ、カチェリーナ、ソーニャの三人のそれぞれが見て取れるようになっている。

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