林芙美子の文学(連載6)林芙美子の『浮雲』について④
清水正
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林芙美子の文学(連載6)
林芙美子の『浮雲』について④
清水正
林芙美子の文学(連載6)
林芙美子の『浮雲』について④
清水正
林芙美子の代表作『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』の関係に肉薄して
いく。
2009年5月9日(土曜)
所長の牧田は富岡にゆき子を紹介し、ここで初めてゆき子は男の名前(富
岡兼吾)を知る。次の叙述場面は「革張りのソファに遠く離れて腰をかけ
た」ゆき子の姿を、牧田の眼差しによって捕らえている。
昨夜、ホテルのロビーで、瀬谷が、ゆき子のことを、地味な女だから、か
えって、仕事にはいいだろう。サイゴンに置いて来た篠井という女は、これ
はちょっと美人だから問題を起しはしないかと心配しているンだと話してい
たが、こうして遠くから見る幸田ゆき子の全景は、瀬谷の言うほど地味な女
にも見えなかった。珍しくパアマネントをかけていないのも気に入った。第
一、つつましい。きちんとそろえたむき出しの脚は、スカートの下からぽっ
てりとした肉づきで、これは故国の練馬大根なりと微笑された。畳や障子を
思い出させるなつかしさで、なだらかな肩や、肌の蒼く澄んだ首筋に、同族
のよしみを感じ合掌したくなっていた。少々額の広いのも、女中のニウより
は数等見ばえがした。混血児のマリーのように、六角眼鏡をかけていないの
も気に入った。(184 ~185 〈七〉)
牧田の眼差しを通して、作者はここでゆき子の客観的な姿を読者に報告し
ている。はたして富岡はゆき子をどのように思っていたのか。作者は敢えて、
富岡のゆき子に対する印象を書かないことで、ゆき子が富岡に抱いた魅力を
読者にも共有させる。魅力のある男は、その正体をそうそう簡単に晒されて
はならない。少なくとも、ゆき子の眼に魅惑的な男と映った富岡は、しばし
読者にとっても魅惑的な存在でなければなるまい。
富岡は読書家であるらしいが、彼の愛読書の一冊にドストエフスキーの
『悪霊』がある。ということは、作者の林芙美子もまた『悪霊』を読んで、
それなりに影響を受けていたということを意味している。わたしが『浮雲』
論を書きたいと思った理由の一つに、『浮雲』が『悪霊』をどのように受け
入れ、消化し、それを独自の文学へと構築したかを明らかにしたいという気
持ちがあった。
どういうわけか、『悪霊』という小説は小説家の創作的な野心を刺激する
らしい。日本では坂口安吾や椎名麟三や埴谷雄高などが『悪霊』の影響を深
く受けて作家活動を続けたが、わたしは林芙美子こそが、ある意味、最も
『悪霊』を自分のものにした小説家だと思っている。
男の小説家はドストエフスキーを読むと、やはり人物に付与された思想や
哲学に影響されやすい。ところが林芙美子は『悪霊』を読んでも、人物たち
の思想などにはまったくと言っていいほど頓着していない。つまり林芙美子
は、ドストエフスキーの思想や神学に微動だにしない自分自身の確固たる哲
学があったということである。
ドストエフスキーの人物には、神を信仰する者、神に反逆する者たちが登
場してかまびすしい議論を展開するが、『浮雲』にはそういった神をめぐっ
ての議論などは少しもない。ゆき子の処女を奪った伊庭杉夫が後に新興宗教
の宣伝マンのような役割を負うことになるが、彼は宗教を金儲けの手段とし
て考えているだけで、ドストエフスキーが後期諸作品で徹底して追求した神
の存在の問題などには一切関与することはない。林芙美子にとって、ドスト
エフスキーが問題にした神はなんら関わってこない。
『放浪記』の作者林芙美子は、神さまが何もしてくれないということを知
っている。林芙美子は神に対して過大な評価もしないし、敢えて貶めること
もしない。ドストエフスキーの人神論者たちは、神に反逆する形でしか神を
信仰しえなかったという逆説をどうしようもなく抱え込んでいるが、林芙美
子にはそんな屈折した反逆もないし信仰もない。林芙美子は自分自身の力し
か信じていない。彼女は一人、果てしのない荒野のただ中で書くことで戦い
続けた作家である。
そういった作家が、創作活動の最後の最後に描きだした人物が幸田ゆき子
であり、富岡兼吾であった。わたしはこの二人の人物が、日本の中でどれほ
ど普遍的な恐るべき存在であるかを明らかにしたい。この二人の人物に、坂
口安吾や埴谷雄高などが観念的に、虚妄的に拵えあげた要素はない。幸田ゆ
き子と富岡兼吾は血肉を備えた人間として描かれており、作者の観念的な産
物ではない。
『吹雪物語』や『死霊』にのめり込んだ文学青年たちに、『浮雲』のリア
リティは理解不能なのであろうか。人間はまず、現実の世界を生きなければ
ならない。その生きることの積み重ねのなかで、人間の姿を彫っていく。そ
れは血肉の通った人間であって、観念のかたまりのような不具の存在ではな
い。
確かに人間はただ現実を暮らしているだけの存在ではなく、さまざまなこ
とを考え、空想し、妄想する存在でもある。しかし、絶対に忘れてはならな
いのは、人間は肉体存在として否応なくこの現実世界に据え置かれた存在だ
ということである。観念や妄想では決して決着のつかない現実があり、林芙
美子はその現実を生きることで小説を書きつづけた。
林芙美子の人物たちは自分の観念に巻き込まれたり、そのことで他者たち
との関係を遮断することもないし、精神病院に隔離されることもない。林芙
美子の人物たちは、いつも現実の世界に足をつけている。観念で、ハイスピ
ードで現実の世界を走りきったような妄想にかられることはない。一歩、一
歩、それも背中に食い込む重い荷物を背負って歩く、それが林芙美子の人物
の歩行の仕方であり、それ以外の仕方はない。林芙美子の人物が神のことを
思う場合でも、いつも彼らは背に、下ろすことのできない荷を背負った、そ
の屈んだ姿勢で神を思うのだ。
だれが、書斎の神学者の生意気な、気取った、空虚な言葉になどだまされ
るものか。林芙美子の人物は、神を祈りの対象としても、救済の対象として
も、そして反逆の対象としても見てはいないのだ。敢えて言うなら、林芙美
子は神を自分と同等の存在、つまり同じように大きな荷物を背負って呻き声
をあげながら一歩、一歩を歩んで行く者、さらに敢えていうなら、自分の同
伴者として思っているのだ。
神は自分の上にも下にも存在しない。尊敬もしないし軽蔑もしない。生き
ていくことに、腹をくくった人間の信仰というものはこういうものだ。毎日
曜日、教会に通って賛美歌を歌っているから信仰者なのではない。磔になっ
たキリスト像に頭をさげてお祈りするから信仰者なのではない。林芙美子の
一見〈無神論〉としか思えない、その底にわたしは彼女の孤独な、孤独な祈
りの姿を見る。
林芙美子は紛れもない文学者である。文学者は自分の作品の中に、自分の
すべてを投げ出す他はない。『浮雲』は、林芙美子が人生の最後において、
自分のすべてを投げこんだ作品である。この作品をきちんと検証すれば、林
芙美子という文学に命を賭けた小説家の全貌が浮上してくるはずである。
幸田ゆき子という、ある意味では作者林芙美子のすべてが投影されている
ような女が関わった男たち、この小説においては伊庭杉夫、加野久次郎、富
岡兼吾、外国人のジョオなどの男たち、特に最後まで執着した富岡兼吾をき
ちんと見れば、林芙美子が惚れた男、身を破滅させてまで惚れた男が、敗戦
後の日本の男の〈最も魅力のある男〉の象徴となっていることが判るだろう。
ドストエフスキーの読者なら、『悪霊』のニコライ・スタヴローギンの存
在をすぐに想起するだろう。今、ここで『悪霊』全体を視野に入れて『浮
雲』論を展開するつもりはない。すでに『悪霊』論には千七百枚を費やして
いる。ここでわたしが強調したいのは、富岡兼吾が林芙美子版ニコライ・ス
タヴローギンであったということである。
はっきり言ってわたしは興奮を抑えられない気持ちだ。わたしが誕生した
一九四九年に『浮雲』は書かれたのだ。そしてこの『浮雲』に、林芙美子は
ニコライ・スタヴローギンが日本人であれば〈富岡兼吾〉になるほかはない
というふうに、富岡兼吾を作り上げたのだ。この〈発見〉に六十年を待たな
ければならなかった林芙美子の無念を思い、わたしはひとり興奮しているの
である。