ドストエフスキー関係 清水正のチェーホフ論

続・座談会「ドストエフスキー派から見たチェーホフ」

座談会「ドストエフスキー派から見たチェーホフ」(連載②)
清水正・横尾和博・下原敏彦・下原康子
「Д文学通信」(編集発行人・清水正)1117号(06・6・2)に発表。
「江古田文学」62号(06・7・31)に再録。
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「江古田文学」62号(06・7・31)
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座談会「ドストエフスキー派から見たチェーホフ」(連載②)
清水正・横尾和博・下原敏彦・下原康子

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─善悪観念の磨滅─

清水 これが真実であるか虚偽であるかということはわかるんですか?

下原康子 それは自分で決定しなきゃいけない。どういう決定の局面があるか
わからないけど、そういうのをクリアしてきたと思うんですよ、チェーホフも
ドステフスキーも。クリアしてきたというか根っから精神の人たちかな。非常
に虚偽だとかが嫌いだった。だからそういう指標みたいなのはあった人たちで
すね。それは神とか持ち出さなくても。それでいて寛容でならなきゃいけなか
ったというのもあるんですよね。

清水 どうにもならない問題だと僕がいつも思っているのは、一つはニコライ
・スタヴローギンの問題がある。何が善で何が悪なのかわからない。
例えば僕はいつも授業なんかで言うんだけども、動物愛護団体の人々は犬や
猫など可愛がらなければいけないと言いながら、同時に人間は動物を殺してい
るわけですね。保健所で一日にどれくらいの野良犬や野良猫が殺されているの
かとか、ウサギやネズミが医療用実験としてどれだけ犠牲にされているのかと
か、そういうことは報道されてないだけのことであって、やっぱり殺されてい
るわけです。で、人間は動物を食料にもしているわけです。人間が人間を殺し
て食料にしているなんてことは、今日あまりないだろうけど、しかし人間以外
の動物に関しては牛でも馬でも鳥でも、人間は殺して食べています。だから狂
牛病が問題になったときに、何十万頭もの牛が殺された。しかし牛一匹一匹の
命が大切である、とか言う風に報道されたことはないですよ。つまり、人間の
社会が幸福でありさえすればという考えですね、人間の幸福が危機に陥るかも
しれない場合は何十万だろうが何百万疋だろうが牛や鳥は殺されてもいいのだ
という人間優位の考えが根底にある。
にもかかわらず、例えば小学校でウサギが弱っているからと穴掘って埋めち
ゃった先生が社会的に批判されたりする。じゃあ我々は一つ一つの事象に関し
て良いとか悪いとか、これが真実でありこれが虚偽であるということが言える
のかというと、どうも言えなくなってしまうんですね。それはどういうことか
というと、絶対不動の視点から物を見るというその視点が崩れてしまったんで
すね。この立場からみるとこれは正しいけども、あちらからみると悪になる、
といった複数の視点、カメラを自己の意識空間の中に取り付けてしまったとき
に、この視点から見ると四角でもこっちから見りゃ丸く見える、また眼を閉じ
てしまえば闇になるとか、つまり事象は様々な面があるんであって何が良いと
か悪いとか言えないんです。俺はこの林檎を食べておいしかった。そういうこ
とは言えるけども、林檎自体が〈おいしい〉とか〈まずい〉とかは言えない。
俺が食べておいしかったからお前もおいしいだろうとは言えないんですね。
そうすると僕なんかは、いろんな動物が殺され食べられているそういう状況
の中で、せめて自分が飼っている猫だけは寿命を全うさせてやろうくらいのこ
としか思えないわけですよ。いいとか悪いとかじゃなくて、そういう形での引
き受け方しかできない。だから自分の飼っている猫が虐待されれば、命を張っ
て戦うかもしれない。しかし野良猫が誰かに殺されそうになっているというと
ころにしゃしゃり出ていく、ということまではできないんですよ。それはなぜ
かというと、猫が助かっちゃえばそれに殺されるネズミだっているでしょ。だ
からいいことだと思ってやっていることが実はそうではない、ということもあ
る。さっき康子さんが言われたように、虚偽は嫌いだと言っても、その虚偽が
普遍性を持たないわけです。

下原康子 だからみんな、要するに個別ですよね。

清水 しかもその個別も時間によって変わるんですよね。これがさっきから言
っているイワーノフの熱烈に愛した、結婚した、駆け落ちまでした、にもかか
わらず冷めてしまった……これですよね。冷めてしまったことに関しては、そ
れは真実でしょう。イワーノフにとってはね。それしか言えないわけですよ。
だからイワーノフは聞かれたらそれしか言ってません。愛してもないのに愛し
てるとは言えないから。だから、そういうことはまあわかるかな、と。

横尾 あくまでも善悪とか普遍的なものはなくて、二十一世紀の我々がもうそ
ういうことが分かっているわけですよね。あらゆるものの価値が相対的になっ
て、例えば善悪の価値なんてそれ以上に相対的で、こちら側の岸だけでは測れ
なくて向こう側の岸の善悪についても測れない。そういう風な時代に来ている
なかで、例えばドストエフスキーもチェーホフも十九世紀の作家ですし、十九
世紀の時代というか十九世紀のロシアの社会、そこに規定されているようなと
ころがある。さっき下原さんもロシアの状況のことをおっしゃってましたが、
一八八〇年代~九〇年代ロシアの状況はあったと思うんですが、チェーホフの
「どうでもいい」という視点はそこまで届いている。二十一世紀の善悪のこち
ら側については言えるんだけれど、善悪の向こう側のことまで当時はなかなか
言えなかったと思う。それはやっぱり「どうでもいい」というキーワードを持
っているからで、現代の我々が読んでどこに共感するかというと、そこに共感
するんじゃないかという気がします。

清水 死後の世界において魂は永世であるという信仰がドストエフスキーには
あったけれど、チェーホフにそれはあまりないでしょ。チェーホフは死んだら
死にっきり、というように僕は感じますが、どうですか?

横尾 死というものについて、死の向こう側の、俗にいう天国とかあの世とか
浄土とかそういう概念ではなくて死の概念ですね。それはチェーホフが医者で
あることと関係しているのかも知れないですね。

─問題提起と解決不可能─
清水 今の社会で起きていることに関して一つ一つ突っつくと大変なことにな
るけども、僕は現代ジャーナリズとは〈問題提起はできるが解決はできない〉
と思う。それを典型的に表しているのは田原総一朗司会の「朝まで生テレビ」
だと思うんですね。僕がいつも言っているのはハイデッガーの言う非本来的な
現存在の様態、その都度その都度日本の国民の大多数が関心を寄せているよう
な問題を取り上げる、その問題の専門家を集めて朝まで議論をさせるわけだけ
ども、朝になる頃には曖昧に終わる、と。
僕は四十年ドストエフスキーを読みつづけてきて、どんどん曖昧になってき
て、益々分からなくなってきているのに、たかだか三~四時間議論してわかる
わけがないんだよ。僕はあれを見ていていつも思うのは、ジャーナリズムは問
題提起はできる、でも解決を与えることはできない。
下原康子 解決はまあいいんだけど、ちゃんとした問題提起をしているのには
あまりお目にかかれない。問題提起そのものが何やら表面的でその場限り。そ
の点チェーホフの問題提起はすごいと思う。解決は何もないけど(笑)。でも
問題提起が正しくされれば、それが芸術の一番の価値じゃないですかね。
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清水 なぜ文学に関わるかというと、文学は人間を深く問いつめていってるか
らなわけで。例えば、テレビ報道が文学を超えるようなことをやればそっちへ
行くだろうけど、やっぱりドストエフスキーを読んだりしている人から見ると
それは表面的な浅い特集を何時間も組んでいるという風に見えざるを得ないだ
ろう、と。こっちはチェーホフの台詞一行で何時間も考えたりしてるわけです
からね。

下原康子 だからすごく満足感があるんですよね。問題提起をしてくれたもの
を読んだっていう。そして問題提起同士が繋がっていくみたいなとこがあって、
解決はもうなくていい。読むたびに問題提起が違っても見えるし、どれを読ん
でも正しい問題提起をチェーホフはしてると思います。それがすごい信頼でき
るというか、一生涯にこれだけ問題提起をしながら、この人は自分の個別の問
題で動いた人だからそれはむしろ隠していたかもしれない。医学の分野では隠
しながら一生働きつづけた人でしょう?
清水 チェーホフは結核をやっていますよね。だからいつ自分が死ぬか分から
ないというのはいつも思っていただろうから、七十、八十まで生きようとは思
ってなかったでしょうね。短い自分の人生を精一杯駆けた抜けたというかねえ。
駆けるような格好を見せないで駆けたんだろうな(笑)。写真を見てもそれこ
そどうでもいいさ、みたいな顔をしているんだけども、人一倍一生懸命働きつ
づけた。
下原康子 小さいときから本当に自立した人だけど、それでも足りなくてサハ
リンに行くんだから、相当徹底したものを見なきゃ気がすまないっていう人。
ドストエフスキーは期せずしてシベリアに行っちゃったけど彼も癲癇を抱えて
いたし、要するに二人とも病気なんだけどそれ以上に非常に精神の健康があっ
た。その点トルストイは最後になってジタバタした感じが(笑)。
─『サハリン島』をめぐって─
清水 僕は五月十三日に青森の弘前に行って工藤正廣さんと話をすることにな
ってるんです。『サハリン島』を中心にということですので今回読んだんです
けど、やっぱりあれを読むとなぜサハリンなの? ということは誰もが疑問に
思うところですね。
横尾 何歳で行ってるんですか?
清水 三十歳くらいです。それで彼は病弱なわけでしょう? それでよくあん
な最果ての極寒の地に行く気になったもんだ。親族、友人知人みんな反対して
いるところへ敢えて行くわけだ。しかも単に行くんじゃなくて、色んな文献を
漁って、十分に準備してそれで行くわけですね。『サハリン島』を読む限り、
単なる学術調査報告書以上の非常に学術的なところがあるし、やっぱり彼は医
学者でもあったんだなと思わせるような、資料の扱いも的確だし、しかもそれ
だけじゃなくてしょっちゅう部落を尋ねて行って一人一人と話をして、それを
書き留めるわけでしょ。どうしてなの? っていう感じがありますね。それは
『サハリン島』の中でも出てきますよ。ある男が「どうしてこんなところへ来
たんだ」と。国家から命令されてきたのか、というのもあるんだろうけど。僕
だったらスパイじゃないの? と思うくらいに、不思議な感じを受けましたよ。
なんでサハリンをこれだけ調査するのか。
横尾 ドストエフスキーの場合は望んでシベリアに行ったわけじゃないですか
らね。なんでチェーホフはこんなモチベーションがあったのかな。
清水 だから僕はドストエフスキーの『死の家の記録』と関連付けて『サハリ
ン島』論を書きはじめましたけれど、なんか面白いね。面白いというかこれは
ちゃんと批評しなきゃと思ってるんですよ。だから今回読み直して、チェーホ
フにおけるサハリンの問題と戯曲・・五大戯曲『イワーノフ』『かもめ』『桜
の園』『三人姉妹』『ワーニャ伯父さん』これに関しては今回徹底して書こう
と思っています。
─チェーホフの戯曲に関して─
清水 チェーホフにおける戯曲という問題、これをちょっと本格的にやってみ
たいなと思ってるんです。何故そういう風に思うかというと、僕は戯曲を書き
たかったんですよ。僕は意識空間内分裂者ですから、我がたくさんあるんです
ね。批評というのはふつう一人称〈私〉で書きますよね。しかもその一人称
〈私〉をフィクションだとは思ってくれないわけですよ。〈私〉=〈ここに生
きている清水正〉として捉えられるわけですよ。ところが僕はそれにこだわる
必要はないと思います。だから太郎とか花子とか様々なキャラクターを設定し
て、太郎から見た『桜の園』はこういう風に見えるよ、とかいうものを自分の
意識空間の中で議論させたいというのがあるんですね。それを十代の後半から
ずーっと持っている。ところがドストエフスキーの批評を書き続けてきたんで、
それができなかった。今回はチェーホフの戯曲を自分なりに検証しながら、自
分が書こうと思っていた戯曲って何なのかな、というのを打ち出していきたい
と思っているんですよ。
学生にも言うんですが、日本人の男性は大体三つくらいの一人称で生きてる
んです。ものすごく改まった時には〈私〉、友達や同僚には〈僕〉〈俺〉を使
います。日本人の男性で〈僕〉だけで統一している人はいないですよ。飲みの
席では〈俺〉とか言っているわけですよ。改まった席で社長に俺はさあ、とか、
お前はよお、とかあり得ないですよ、日本の社会の中ではね。複数の一人称を
無意識のうちに駆使しているわけでしょ。
ところが外国語は、ロシア語ではヤー(Я)しかないんですから。翻訳の問
題を考えた時に、チェーホフでもドストエフスキーでもいいですけど、例えば
『罪と罰』を取り上げても、全部ヤーなわけですよね。ソーニャでもラスコー
リニコフでも全部ヤーなんですから。それを日本語で直す時には、女言葉に直
したり年寄り臭く〈わしは〉とかやってみたり、つまり日本人である訳者が訳
し分けているんです。だからこれを全部〈私〉で統一したらどういう印象を受
けるのかな、と興味があるんですよ。
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だから僕の場合、意識空間内分裂ということで五~六人の人物を登場させて
批評を書きたいなと思うんですよ。それは「問題提起はできるけども解決はな
い」ということなんですから、それで充分なんですよ。
バフチンの『ドストエフスキイ 創作方法の諸問題』が冬樹社から翻訳刊行
されて、テキスト自体を検証するという批評方法が盛んになった。そうすると
作者はどう考えているんだ、という問い自体があまり重要視されなくなった。
だから『イワーノフ』という戯曲のなかではイワーノフはこう考えた、リヴォ
ーフはこう考えた、アンナはこう考えたということで充分なんですよ。作者チ
ェーホフというのがそれと別個にいるのかといえば、そうではなくてチェーホ
フの考えは全人物の中に入りこんでるでしょ。しかし人物の考えを全部含んだ
作者チェーホフというのはチェーホフ全体を指しているんじゃないんですね。
だから作者は作者で自分の考えを言ったらいいでしょう。しかしあなたは自分
の作品について絶対者じゃないよっていう、そういうところで僕の批評は作者
の意図を超えてしまう。だから今現在生きている小説家は僕に批評されるのは
嫌でしょうね。
下原康子 清水さんの批評は読んでいて何となく分かったんですが、要するに
スポットが当たらなかったところにスポットをあてる、書かれなかったところ
を読む、という批評ですね。
横尾 人称の問題はすごく大事で、僕も今回、チェーホフのことを書いた時に、
〈私〉ではなく〈俺〉で書いたんです。「俺は愚か者だからチェーホフに偏見
を持っていた」という書き出しで書いたんです。それはやっぱり、ずーっと本
当にチェーホフを読んでなかったから改めて〈私〉と書くよりは〈俺〉と書い
た方が面白いかな、と思ってそういう風に書いたんです。そういう風に人称を
変えて書くというのは日本人の特徴であり、日本人はそういう読み方ができる
んだけど、ヤーとあった場合それを〈私〉と読むのか〈僕〉と読むのか〈俺〉
と読むのか、というのは非常に難しい問題で、そういうニュアンス一つによっ
て全然読み方が変わっちゃう。そこに光を当てるということと、俗な言葉でい
うと清水先生がおっしゃったように多声的な、色んな人の声、というのを戯曲
だと色々書けますよね。ところが批評とか小説はなかなかそういうことが書け
ない。そういう意味でチェーホフにおける戯曲の意味というのは、小説だとあ
まり出てこないんですけど、戯曲だと登場人物の声が聞こえてくる。ここのと
ころをきちんと分析すると、非常に面白いと思いますね。
清水 今日は「ドストエフスキー派から見たチェーホフ」ということで話をす
すめてきたわけですが、いずれ戯曲を一つ一つ取り上げて話しましょうか。こ
ういう形でやると乗るしね(笑)。おもしろんじゃないかと思う。
横尾 私は『退屈な話』論でいうと、『退屈な話』なんかもドストエフスキー
が同じ登場人物、例えばニコライ、カーチャ、それから妻とその娘とかをドス
トエフスキーが書いたらどうなるのか。同じ登場人物と舞台を使ってドストエ
フスキーが書いたらどうなるのかというのを、例えば清水先生に書いてもらい
たい。または私や下原さんが書く、そういう風にやったらおもしろいんじゃな
いかと思う。
清水 『イワーノフ』にシャベーリスキーてのが出てくるでしょう? これも
面白いですよねえ。シャベーリスキー、〈喋り過ぎ〉で〈喋り好き〉(笑)。
ドストエフスキーの『白痴』の中にフェルディシチェンコというのが出てくる
でしょ。〈ふる出しチンコ〉、あまり大きな声じゃ言えないけど、時たま日本
人には面白いと感じる名前がある。
下原康子 チェーホフの戯曲も脇役にドストエフスキー的な人物が結構出てき
ますね。『三人姉妹』に、決闘するやつとか。
─『サハリン島』をめぐって─
清水 僕は読んでいてちょっとでもドストエフスキーに関係するような箇所は
すぐにチェックするんですよ。さり気なく出してるんだよね、チェーホフは。
『サハリン島』を書いたときも、ドストエフスキーのシベリヤ体験をものすご
く意識していたと思いますね。
下原康子 二人ともその後の作品に生の情報としては出してないですよね。あ
れはあれ、って感じで。二人とも『死の家の記録』と『サハリン島』は別格で
すね。
清水 『サハリン島』はまだ読み終わったばかりくらいですか?
下原康子 『サハリン島』は読んでないです。
清水 え! 読んでないの?
下原康子 読んでないけど、たぶんあれは医学的な貢献ではないかな、と思っ
ています。文学修行の為に行ったんじゃないんじゃないかな。
下原敏彦 僕はシーボルトをかなり読んで、間宮林蔵とかも……日本に対して
かなり関心があったと知って興味をそそられた。僕は、日本が明治維新をやっ
たときに、チェーホフはどういう風に革命を起こしたのか知りたかったんじゃ
ないかと思う。どういう風に日本は良くなったか。ロシアはめちゃめちゃでし
たけど、日本は革命を起こして人民の国になったわけです。それから二三年く
らいたってすごくいい国になってるんじゃないか、と考えた。それから、シー
ボルトの『ジャポン』がベストセラーになってあれを読んでるから。
横尾 佐藤清郎さんの書いた解説を今読んだんですけど、『退屈な話』を書い
た翌年ですかね。「押しも押されもしない一流作家になって、(略)三十歳の
ときに、当時は地の果てとも思われていた遠いサハリン島へ、シベリアの悪路
一万キロを越えて出かけてゆきました。理由はいろいろと詮索されております
が、要するに、前年の兄のニコライの死を契機に、マンネリ化する生活の大転
換を計ろうとしたのと、サハリンという祖国の恥部を知ることによっていのち
の眠っている部分を揺り動かそうとしたのだといえます」(集英社 世界文学
全集43 昭和44年6月)と書いてあるんですけど、これだけだと納得できない
ようなところがありますよね(笑)。
清水 まあ、一大決心であることには間違いない。
下原康子 あと、間をあけたかったんじゃないかな。一年くらい。
清水 うん……。『サハリン島』についてまたやりますか?
横尾 そうですね、またやりたいです。チェーホフ、益々面白くなってきまし
たね。清水先生の本を読んで、今日話をして。
下原敏彦 でもサハリンから帰ってきても変わってないですよね。作品がすご
く変わったとか、そういうことはあまり感じられない。
清水 下原さんがチェーホフのサハリンでの売春行為みたいなことについて触
れていますけど、つまりドストエフスキーの『死の家の記録』では女囚のこと
とかには触れてないじゃないですか。男と女の問題とかセックスの問題とかね。
ところがチェーホフはちゃんと触れてますよ。つまり当時サハリンにいた女囚
たちとか、流刑囚の妻たちがどうやって生活をしていたのかと言うと、みんな
売春していたわけですね。だからお前たち何で食ってるんだ、と聞くと「私た
ち自分の体で食ってるんだ」と答える。チェーホフはそこのところをちゃんと
書いている。人間が生きている、その原寸大の姿を的確に描いている。単なる
学術調査報告書じゃないんですね。彼はいちいちコメントは付けないけども、
じかに会って話をしてその人間がどういう言葉を発したかを残しているから、
文学になっているんです。サハリンに流されてきた流刑囚は実に悲惨な生活を
している、あるいは監獄に入れられている囚人たちがどういう状況の中に置か
れているかとか、それを的確に書いてますね。カメラで写真を撮ってきたかの
ように、言葉で報告しているわけです。男と女の関係についてもきちんと書い
てますね。そこら辺はドストエフスキーとはちょっと違う。しかも当時のアレ
クサンドロフスク長官に政治犯との接触は厳しく禁じられていたわけですよね。
他の人たちとはおおいに結構、フリーパスだと言われてますから色んな人と会
ってきているわけです
下原敏彦 日本の久世という日本の領事ともハイキングに行ってます。
清水 しかし、何かが残るのよ、これだけじゃないだろう、という。何かね、
変な匂いを感じるんだよ。
下原康子 帰ってきてトルストイと決別、じゃないけど……。
清水 ロシアの作家の場合は、例えばドストエフスキーもずーっと死ぬまで官
憲が付きまとっていた、とまことしやかに言われる。誰もそれをはっきり証拠
立てて言ってる人はいないんです。が、ドストエフスキーは釈放されても、ず
っと当局はつけている。
横尾 それはそうですよね。当時は第三課でしたっけ?
清水 僕はそういう政治状況の中で『罪と罰』を書いたことのすごさってのを
思うわけです。だって僕から言わせると、あれは皇帝殺しですよ。つまりラス
コーリニコフが俺に〈あれ〉ができるだろうかと言うのは、高利貸しの老婆ア
リョーナ殺しではないんですよ。やっぱり皇帝殺しなんですよ。俺に〈皇帝殺
し〉ができるだろうか、というのがまずあって、もっと深いところに〈復活〉
ができるだろうかというのがあるんです。当時の検閲官が「お前これ老婆殺し
にしてあるけど、実は皇帝殺しだろう」とばれたら大変なことになるんですよ。
今度こそ本当に死刑になるかもしれない、というぎりぎりのところでドストエ
フスキーは書いている。
ドストエフスキーの作品は百年くらい経ってもわからないところがまだたく
さんあると思う。『悪霊』なんかを原典であたっていったら、スパイ用語で溢
れてるんですね。僕が読む前まではそういう風に読まれてなかったんですよ。
だからアントン・ゲーというのは国家から派遣されたスパイだとか、そんなこ
とを言ってるひとは誰もいなかった。あれはスパイ小説なんですよ。スクヴァ
レーシニキという場所を舞台にした革命運動顛末記という報告書をアントン・
ゲーが国家当局に提出するわけですよ。だからピョートル・ヴェルホヴェーン
スキーという二重スパイの資料を手に入れなければアントン・ゲーは書けない
んですよ。そうするとピョートルはまんまと彼だけ上手く生き延びるんですけ
ど、僕が権力者だったらピョートルは生かしておかない。アントン・ゲーだっ
て危ないんですよ。報告書出した後に抹殺される可能性だってあるわけです。
まさにロシアはそういう時代を迎えるわけですね。スターリンが独裁者にな
った時にみんなそうですよ。だからニコライ・スタヴローギンが自殺したとき
の「誰をも罰する事なかれ、余みずからのわざなり」という遺書はピョートル
が書いた可能性があるわけですよ。つまりピョートル一味によってニコライは
殺されているわけですよ。あれは政治力学の世界から言ったら、ニコライが生
き延びる道はないですよね。あんなに色んなこと知ってる人間を生かしておく
わけないんだから。やっぱりニコライ・スタヴローギンは殺されていると思っ
て間違いない。
『悪霊』を細かく読んでいくと、ピョートルは六つくらい離れた駅に一人で
行ってることがあるんですよ。恐らくそこで仲間と会ってニコライを殺してい
る。それは僕の解釈の中で浮かび上がっていくことなんだけど、そんなのは政
治家からいったら当たり前のことであって、ニコライが自殺したという次元だ
けでずっと読まれてきたこと自体がちゃんちゃらおかしいということになる。
『悪霊』の世界の中にはまだ隠されているものがあるだろう。ましてや『カ
ラマーゾフ兄弟』はなおさらだろう、というそういう眼差しでチェーホフの
『サハリン島』を読んでいくと、何か妙に感じるところがあるわけです。(
略)
横尾 チェーホフの時代ってドストエフスキーの時代より荒れてた時代ですよ
ね。革命前夜みたいな。チェーホフはそういう時、どういう位置にいたんです
かね。
下原康子 ゴーリキーとかとは仲良しだったんですよね。
下原敏彦 うん、仲良し。
横尾 今、清水先生がおっしゃったように当局との関係でいうと、そういう謎
みたいなのがありますよね。全く関わっていなかったのか、そういう発言を一
切していなかったのか。
清水 それ『サハリン島』には書いてないですね。こういう目的でサハリンへ
行ったんだという明確なことは書いてないですよ。但し暗示してるんですよね。
だから気になっているんでしょう。なぜわざわざサハリンに行くのか、という
ことを誰もが聞きたいわけですよ。
下原康子 政治犯と接触してはいけない、というのは……。
清水 でも接触しているんですよ。
横尾 政治犯と接触したというのは、見えない報告書として当時のロシアの当
局に上げられたという推理ができますね。
清水 雑誌に連載されたから、公表されたものは今我々が読むことができる。
しかしそれは雑誌社だけに公表するために送ったもので、そうでないものをど
こかに送っていた可能性があるんですよ。そうすると、この『サハリン島』と
いう作品、サハリン調査報告書みたいなものは、サハリン行きの正当な理由と
いうか、大義名分になるでしょ。それで完璧にカモフラージュして、実は違う
ところへ違う報告書を出していた可能性だってあるわけだから、一概にきれい
ごとだけではすまないものがある。
あの徹底ぶりは一体なんなんだろう? いったいあそこまでやる必要があっ
たのか、ということですね。性別から民族から家族の人数まで全部調査書を作
って、一人一人に書いてもらって、話をしてきて……一人の小説家がそこまで
どうしてやる必要があるのかという謎です。僕は晩年の宮沢賢治の肥料設計な
んかと重ねてみて思うところもあるが、そうでないところもある。なんかもっ
と違った国家的な使命をおびていなければ、あそこまでできないんじゃないか。
そういう疑念は残るんです。
下原敏彦 あまりにも詳しすぎるんですね。家畜の数とか(笑)。
清水 あの調子で日本に来られてたら、日本もかなり調査されていたと思いま
すね。
横尾 だって完全にスパイですよね。デジカメもビデオもあるわけじゃないし、
唯一書くことだったわけですから。
清水 当時のロシアにとってサハリンがどういう政治的軍事的意味を持つのか、
とかいうところまで行っちゃうからね。大変なことになるよ。
下原康子 でも当局にこういう調査に行きます、っていう文書をちゃんと出し
てるでしょ?
清水 しかし『悪霊』を熟読して『死霊』を書いた埴谷雄高だってピョートル
は革命運動の指導者という捉え方しかしていない。ところがそれはちゃんちゃ
らおかしいでしょう? ピョートルは二重スパイもいいとこですよ。彼は革命
運動家を一皿盛りしてポクロフ祭までに当局に進呈するという約束でスクヴァ
レーシニキに入り込んできたんですよ。
下原康子 その話はピョートルが主役になりますよね。
清水 僕の再構築批評で言うと、『悪霊』の闇の世界が一転すると、ピョート
ルがキリストになっちゃうんですよ。だから大変な世界になるんです。スパー
ソフに行くんだってステパンが言うでしょう。スパーソフというのは、つまり
キリスト様のところです。ステパンはキリスト様のところまで行く気はなかっ
たし、スパーソフの意味も分かっていなかった。福音書売りの女ソフィヤ・マ
トヴェーヴナが、実は私をスパーソフへ連れてってくれる女地主がいると言う。
しかし『悪霊』の中にこの女地主は出てこない。この女地主の名前はナジェー
ジダ・エゴーロヴナ・スヴェトリーツィナと言って、名は〈希望〉を、父称は
〈百姓〉を、苗字は〈光〉を意味します。僕のヴィジョンの中では、ステパン
ならぬその息子と言われるピョートルが、この聖母に抱かれている〈キリス
ト〉になるのです。我々が四でいる暗黒の表舞台をいっきに変換すると、そう
いった明の裏舞台が現れてくるというわけです。しかし、こういった再構築以
前に、書かれてある舞台もはっきり見えていなかったというのがドストエフス
キー文学百年の読みの歴史であったということです。
下原康子 スタヴローギンの告白はどういう位置づけですか?
清水 それはそれでまた考えなくちゃいけないけど、それを超えたすごい世界
が僕の中で開けてきちゃう。だから、もう今までの批評の領域とは違うよね。
完全に再構築。つまりドストエフスキーが描いてなかったところを描いていっ
ちゃう。僕は授業ではほとんどドストエフスキーが書いていない話をしてるん
ですよ。だけど読み込んでいくと、描いていない世界がそのように見えてくる。
そういう目でチェーホフの『サハリン島』を読んでいくと、ん? と思うとこ
ろがあるんですよね。
下原康子 ピョートルって確かに二重スパイの方が座りがいいですよね(笑)。
清水 ピョートルの抱え込んでいる虚無はすごいですよ。虚無の世界に入り込
むと、神の声がよく響くんですよ。そこまでドストエフスキーが意識したかは、
また別問題ですが。それは、ドストエフスキーが描いた世界と清水正が再構築
した世界はまた別個のものということです。
チェーホフにおける『サハリン島』は、またやりましょうよ。

横尾
はい、『サハリン島』は『サハリン島』で一つの大きなテーマですから
ね。
─チェーホフ的気分─
清水 チェーホフ体験とか、そういうことをチェーホフが好きな人はあんまり
言わないよね。
下原康子 とにかく主義とかいうものに全く縁のない人ですからね。トルスト
イイズムというのはあるけども、チェーホフは一切ない。
清水 チェーホフを好きな人は、そういうのをあまり論じたがらないね。
下原康子 チェーホフ的気分ていうのはありますね。気分でわかっちゃう。
横尾 気分というのは虚無とかそういうことをいうんですかね。ニヒリズムと
か、さっき言った「どうでもいい」とか。
清水 気怠い感じがあるね。
下原康子 そうですか? 私はあまり気怠さは感じません。逆に元気がでるよ
うな。
横尾 『退屈な話』を読んだとき、これがなぜ「退屈な話」なのかわからなか
った。面白いじゃないか、って(笑)。
清水 そこがチェーホフの狙いですよね。私の『退屈な話』ほど面白い「退屈
な話」はない、って。今日は、チェーホフをめぐっていろいろと話して来まし
たが、是非、これからも定期的にとりあげることにしたいですね。本日はどう
もありがとうございました。


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