2009
06.12

座談会「ドストエフスキー派から見たチェーホフ」

ドストエフスキー関係, 清水正のチェーホフ論

座談会「ドストエフスキー派から見たチェーホフ」(連載①)
清水正・横尾和博・下原敏彦・下原康子

「Д文学通信」(編集発行人・清水正)1117号(06・6・2)に発表。
「江古田文学」62号(06・7・31)に再録。
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「Д文学通信」(編集発行人・清水正)1117号(06・6・2)
ここをクリックして下さい 「清水正の本」


座談会
ドストエフスキー派から見たチェーホフ
(連載①)
清水正 横尾和博 下原敏彦 下原康子
─ドストエフスキーからチェーホフへ─
清水 僕は十七歳の時に『地下生活者の手記』を読んでからずっとドストエフ
スキーを読んできました。ドストエフスキーさえあれば、ほかの文学作品はい
らないという感じでずっと読んできて、ある時急にドストエフスキーを読むの
がしんどくなったというか、息苦しく思えた時がありました。ドストエフスキ
ーの文学の主人公は屋根裏部屋の住人だったり発狂してしまうような人間ばか
りなのでなんか息苦しい。ドストエフスキーはもういい、と思った時期があっ
て、それでトルストイを読んだのが三十歳を過ぎてから、『戦争と平和』『ア
ンナ・カレーニナ』『復活』を読んだんです。二十代の時にはトルストイも読
めなかったのが、三十代になって読めるようになったんですね。
チェーホフに関してはイオシフ・ヘイフィッツ監督の『子犬を連れた貴婦
人』という映画は観ていて、この映画に関しては批評してもいいなという気持
ちはずっと持っていたんです。しかしチェーホフの文学そのものに関して批評
しようという気はあまりなかった。たまたま二〇〇三年に鳥影社の窪田尚さん
からチェーホフについて何か書きませんかというお話があって、それで書いて
もいいよ、ということで一気に『チェーホフを読め』を書き下ろしたんです。
チェーホフの作品はたくさんありますが、ドストエフスキーと関連するよう
な作品を論じようということで『六号室』『黒衣の僧』『退屈な話』を取り上
げました。チェーホフはドストエフスキーとの関連であまり読まれていなかっ
たんですが、読んでみると、結構ドストエフスキーのことを意識していたんじ
ゃないかと感じました。よく考えてみれば当たり前のことで、ドストエフスキ
ーが生まれたのが一八二一年、トルストイが生まれたのがその七年後です。ド
ストエフスキーが死んだ一八八一年、チェーホフは二十歳だったわけですが、
先行する偉大な作家としてトルストイがおり、ドストエフスキーがおったわけ
ですね。ロシア文壇の中で新しく小説家として出立するには、ドストエフスキ
ーもトルストイも乗り越えていってやろう、くらいの気持ちがなければいけな
い。チェーホフは直接的にドストエフスキーに関するコメントをしていません
が、だからこそ意識していたのかもしれない。
なぜチェーホフを読めるようになったかというと、まず志賀直哉があります。
十代二十代は志賀直哉もチェーホフも全く読めなかったし、志賀直哉の小説な
んてまともに取り扱う気もなかった。しかし五十歳を過ぎてから志賀直哉が読
めるようになった。志賀直哉が読めると大抵の小説は読めるんですね。それで
チェーホフもそういう繋がりの中で読めるようになったのかな、という風に思
っています。
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─チェーホフとの出会い─
下原康子 チェーホフとの出会いはあまり覚えてないんですけども、ドストエ
フスキーを読み始めてから他のロシア文学も読むようになりました。その頃に
中央公論社版の全集が出たと思うんですね。何か一つ読んで気に入ったので買
ったんです。だから割と初期の短編から入りました。そしたらけっこう面白く
て、それからどんどん中編に近いものも読むようになって、すごく気に入った
んです。でもその当時、戯曲はわからなかったですね。今回もう一度戯曲を読
み直そうと『三人姉妹』と今『桜の園』を途中まで読んでいますけど、やっと
わかってきたかなぁ、という感じですね。だから私は中編が非常に好きです。
清水 読み始めたのは何歳くらいのときなんですか?
下原康子 二十代後半です。
清水 ドストエフスキーが最初ですか? それともドストエフスキーより以前
にチェーホフを読んでいましたか?
下原康子 ドストエフスキーが先です。ドストエフスキーは『地下生活者の手
記』を読んで、こんなに面白いものがあったかという感じで入りましたので、
短大に通っていた頃、二十歳くらいですかね。
清水 僕もドストエフスキーは『地下生活者の手記』が最初です。あれを面白
いと思う人は変わってるかもしれませんね。
下原康子 あれから入ったから好きになった。あれのトーンがずっと変わらな
いですね。ドストエフスキーはこれだ、みたいなのがあって。
清水 ドストエフスキーかチェーホフ、どちらかをとれと言われたら、どちら
を取りますか?
下原康子 うーん……すごく悩みますけど、やっぱりドストエフスキーかな。
どちらかを絶対に取らなきゃいけない、と言われたら。
清水 ではまた詳しく窺うとして、下原敏彦さんはどうでしょう?
下原敏彦 僕は二十歳くらいまで翻訳文学を全然読んでいませんでした。まあ
短編とかは読んでいましたが、いわゆる文学書というのは読んでいなくて、チ
ェーホフも『桜の園』を書いた人という事くらいは学校の本なんかで知ってま
したが、その程度でした。ドストエフスキーを読んでから、世界文学全集に挑
戦! というわけで図書館へ行きまして、そこにチェーホフが並んでいたんで
最初から読み始めました。ドストエフスキーを読んだ後だから楽なんですよね、
短いし。でも本格的に読んだのは清水先生の『志賀直哉とドストエフスキー』
の評を書いた時に、志賀直哉という人はすごい作家だと初めてわかりまして、
それからチェーホフと志賀直哉は似たところがあるなと思ってからです。
清水 チェーホフを読んだのはいつ頃なんですか?
下原敏彦 やっぱり二十代後半から三十前後です。ドストエフスキーは二十六
~七歳ですね。
清水 やはり最初にドストエフスキーから入ったんですね。では横尾さんはど
うでしょう?
横尾 私がドストエフスキーを読んだのが十八歳か十九歳だったと思います。
『罪と罰』を初めて読んだ時はドストエフスキーのすごさに胸が震えるような
感動を覚えて、それ以来ずっとドストエフスキーの作品を読みました。そして
ロシア文学全体を読んでみようと思い立った。私は血液型がA型なもんですか
ら(笑)、いわゆる近代ロシア文学といわれるプーシキンから始まってずーっ
と系統的に読んでいったんです。ドストエフスキーはドストエフスキーで読ん
でいって、それと平行する形でプーシキン、ゴーゴリー……ロシア文学史みた
いな感じでずっと読んでいく中で、二十代の後半くらいでチェーホフを読んだ
んです。読んだんですけど短編は全然記憶に残っていなくて……。読むという
ことは字面だけを追う行為と、読んでいて胸が震えるくらいの感動を覚えて自
分の考え方が変わってしまうような読み方とかいろいろな読み方があると思う
んですが、多分その頃は自分の考えも浅くて、チェーホフを読んでもあまり感
動しなかったし、読んだ記憶も曖昧になっていた。あまりいい出会いではなか
ったですね。
もう一度チェーホフを読んでみようかなと思ったのは、清水先生から『チェ
ーホフを読め』をいただいて、読んだらこんなにチェーホフというのは面白い
んだ、と思い直したんです。清水先生の本を全部読んでから作品を読んだら、
やっぱり作品もすごい面白かったということですね。
ドストエフスキーとの関わりでいうと、ドストエフスキーとトルストイとい
うチェーホフに先行する二人の作家がいる中でチェーホフはやっぱりそれなり
に考えて書いたのかな、とか色んな事を思います。それは後で述べるとしても、
やっぱり私が思うのはドストエフスキーと同じくらいチェーホフも気違いだな、
と。気違いとは悪い意味でなく、文学気違いのことで、そういう印象を今は持
っています。
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─ドストエフスキーとチェーホフの相違─
清水 横尾さんがチェーホフを最初に読んだ時に、あまり印象に残っていない
というお話でしたけど、強いて言えば何が残っていますか?
横尾 再度読み直して思ったんですが、強いて言えばやっぱり『六号室』です。
清水 『六号室』というのはドストエフスキー的な作品ですよね。康子さんは
どう思われますか?
下原康子 そうですね。あと『退屈な話』も。チェーホフの『地下室の手記』
という感じですね。
清水 下原さんはどうですか。作品を挙げるとすると、チェーホフの中では。
下原敏彦 『黒衣の僧』ですね。僕は田舎の描写や牧歌的な話が好きなんです。
清水 『チェーホフを読め』で書きましたが、ドストエフスキーとチェーホフ
の違いはどこにあるのかというと、ドストエフスキーは神の存在を真正面から
取り上げていった。ところがチェーホフは神があるかないかということに関し
て真正面から問うているわけではない。そこが大きな違いですね。僕はドスト
エフスキーをずっと読んでるから、ドストエフスキーが問題にする神というも
のは僕にとっても問題になっているわけですが、別に日本人は神がなくても生
きていけるんですよね。志賀直哉も若い頃は内村鑑三のところに出入りしてキ
リスト教の影響を受けているけれども、内村鑑三と別れてからはあまり神のこ
とを真正面から触れることはない。神よりは自然の方が問題になっている。後
は神を問わない日常の暮らし、日常生活を淡々と生きている男と女、夫婦、そ
ういったものを描いている。それは身辺雑記のようなもので、それのどこが面
白いかと言われればいっこうに面白くないんだけども、しかしその面白くない
人生というものを我々は生きている。チェーホフもまた淡々と生きている人間
の日常的な暮らしにおける喜怒哀楽を書いている。ということで、チェーホフ
の方が現代人には近いかな、という感じはするわけです。
若い頃、非常に観念的なものに惹かれていた時にはとてもじゃないけど志賀
直哉もチェーホフも読めなかった。しかし自分の一日を振り返ってみれば、お
前の生きている生の様態はチェーホフが書いてる世界であって、ドストエフス
キーの書いてる世界じゃないだろう、みたいなことを突きつけられる。「まさ
にそうだ」としか言いようがない。そこにチェーホフのリアリティがある。そ
ういうことですかね、僕が感じたことは。
ドストエフスキーの文学は怒濤のような波が押し寄せてきて、そこで溺れち
ゃうやつもいれば叫んでるやつもいる、非常に喜怒哀楽が激しいわけですね。
神があるかないか、とか非常に極端です。チェーホフの人物たちは中間で、黒
でもないし白でもない、グレーゾーンを生きてる、という感じがします。それ
は原寸大の、僕自身も含めた日本人の姿と共通する部分があるんじゃないか。
自分というものを正直に眺めれば、自分の鏡像はチェーホフの作品の中に描か
れてる。そういったところでの共感はありますね。
横尾 おっしゃる通りで、私はドストエフスキーとチェーホフとの違いでいう
と、ドストエフスキーは清水先生が言ったようにダイナミックじゃないですか。
動的な狂気みたいなものが現れている。チェーホフは静的な狂気みたいなもの
が溢れていて、よくよく読んでみれば『六号室』も『退屈な話』もチェーホフ
の描いている人物は結構おかしいというか、内面の過剰さというものがあるん
だけども、それを胃腸の中に押さえている。やはりドストエフスキーとは全然
違うな、と思います。登場人物を一人一人洗い出してみると大変面白い人間像
が描かれていて、日常性との間で揺れる振幅というものに我々は共鳴するのか
な、とそういう感じがしています。たぶんチェーホフの作品の中の人物像とい
うのは、今読まなかったら私もこのまま出会うことがなかったんですけど、清
水先生の本によって『退屈な話』の老教授ですとか、『六号室』のお師匠さん
とかそういう人たちが持つ静かな怪しさというものに非常に共鳴を受けました。
─『悪霊』と『退屈な話』─
清水 僕は『退屈な話』のニコライ・ステパーノヴィチ教授は『悪霊』のニコ
ライ・スタヴローギンとステパン・トロフィーモヴィチに由来する名前ではな
いかと書きましたけど、どうですかね?
横尾 まったくその通りだと思います。
清水 そうするとチェーホフはものすごく『悪霊』を読んでいた可能性があり
ますね。日本の場合も世界の場合もそうですけど、小説家は『悪霊』が好きで
すよね。
横尾 好きですね。
清水 日本でいうと葛西善蔵がそうだし、椎名麟三は二十六~七の時に『悪
霊』を読んで小説家になろうとするわけでしょう。埴谷雄高はまさに『悪霊』
の影響を受けて『死霊』を書き始めたわけだし。それから横光利一もやっぱり
『悪霊』ですよ。坂口安吾もそうですね。日本以外ではアルベール・カミュが
『悪霊』を脚本化してますね。『悪霊』という小説は何だか知らないけれど、
小説家の創作欲をそそるところがあるんですね。もし『退屈な話』の老教授の
名前が『悪霊』のニコライ・スタヴローギンとステパン・トロフィーモヴィチ
を意識した名前だとすると、チェーホフの『悪霊』の読み方というのをきちん
と捉え直す必要があるなと僕は思って、『退屈な話』論を書いたわけです。
ただドストエフスキーの場合は、人間の内面世界を徹底的に暴いていく。独
白だけで何十枚も書いていく。ところがチェーホフの場合は決して言わない。
闇の中に押さえ込んでいくものは最後まで押さえ込んでいく。だからニコライ
教授とカーチャの関係なんかも、普通に読んでれば単なる養父と養女の関係で
しかない。ところが僕の読み方でいくと、そんな単純なものじゃなくなる。親
子ほど年の離れたカーチャとニコライにはきちんと男と女の関係があって、の
っぴきならない関係だったんだよ、と。だってそういう風に読んでいかないと
最後の場面なんておかしいでしょう。ところが、あえてそういうことを指摘し
ないと、読者の大半はそのことに気づきませんね。
だからそこに読みの問題がある。つまりチェーホフの文学というのは或る意
味で熟練した読者を要請している。普通に読んでいったらわからない。例えば
ドストエフスキーの文学を三十年四十年読んできて、ドストエフスキーのテキ
ストにゆさぶりをかけてやってきたような、そういう読み方でチェーホフを読
まないとチェーホフの文学というのはなかなか底の割れない仕立てになってい
る。今までチェーホフのテキストは上っ面の上っ面を読んできたのかという気
がしましたね。
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横尾 私も昔に読んだときは上っ面しか読んでないから印象に残ってない。中
に共感するようなものはなかったんですね。やっぱり奥が深いですよね。この
奥行きが何なのかということは、残りますよね。
─チェーホフにおける愛─
清水 あともう一つは、イオシフ監督の映画『小犬を連れた貴婦人』では、銀
行員のグーロフは妻も子もある身で小犬を連れた人妻と不倫の関係になるわけ
だけども、なんかこう純粋な愛を求めている男のように思えたわけです、その
不倫の愛に苦悩する男の姿に僕は心うたれていました。それでいざチェーホフ
論を書く時に原作にあたってみると、この男はなんという俗物だろうと思って
衝撃を受けました。さらにチェーホフが、こんな俗物な男を実によく的確に描
いているという点にも衝撃を受けたわけです。小犬を連れた貴婦人を誘惑して
ひと夏のアバンチュールを楽しもうという女好きな男の非常に俗っぽいところ
・・若い頃は大学の文学部に入って作家を志望するが途中で挫折、歌手になろ
うとするがそれも中途半端に終わる、それで金持ちの女と金目当てで結婚して、
それで子供まで作ったのに浮気ばっかりしている・・そういう非常に俗っぽい
男の俗っぽさが実に的確に描かれているなと思うんです。チェーホフは純粋な
愛とかを信じてなかったんでしょうね、そういう感じをすごく受けました。
先ほど康子さんが戯曲の話をしましたけども、戯曲で言いますと例えば『イ
ワーノフ』、イワーノフはユダヤ人の女アンナと結婚するんですね。結婚した
のが三十歳、現在三十五歳という設定になっています。アンナとは熱烈な恋愛
で、永遠の愛を誓って結婚したんだけども、一年くらい前からあまり好きでは
なくなってしまう。それで彼は空虚と倦怠を感じて憂鬱症に陥ってるわけです。
アンナは肺結核になっていて、リヴォーフという医師にいわせると余命幾ばく
もないと宣告されている。にもかかわらずこのイワーノフは同情も哀れみも感
じない、という風に言ってるわけです。リヴォーフ医師はあんたのような冷酷
な感情を持った冷ややかな男はいない、お前みたいな嫌な男はいないよ、みた
いなことをはっきり言うんですけど、僕はこれが不思議なんです。烈しい恋愛
感情をもって結婚までした、しかし愛がなくなった時に死を間近に控えた妻に
同情も哀れみも感じないというこの男、イワーノフ……、僕なんかはちょっと
考えられないような感情なんだけども……。
そういった点に関してはどうですか? 人間が永遠の愛を誓って結婚したっ
て、そんな熱烈な恋愛感情を持てなくなるであろうことはみんな分かってます
よね。一年続く人もいるし三年続く人もいる、十年続く人もいるかもしれない。
しかし結婚して三十年も四十年も経っているのに自分の奥さんの顔を見てドキ
ドキする人は下原さん以外にいないと思うんですがね(笑)。つまり、人間の
恋愛感情というのはなかなか持続しないものである、ということは当然だとし
ても、しかし熱烈な恋愛感情を持って結婚した妻がいつ死ぬかも分からない状
況に置かれているのに、同情も哀れみも感じないと言っているこのイワーノフ
という男は、こりゃどういうもんですかねぇ。僕はチェーホフにとっての愛と
は何なのかを、改めて問いたい気持ちになっているんですよ。
横尾 『イワーノフ』だけじゃなくて他もみんなそうですよね。私は今回『イ
ワーノフ』を読んでないからあまり思い出せないんですが、『退屈な話』のニ
コライ教授と奥さんワーリャの関係、それから『かわいい女』でも旦那さんが
死んじゃうと次から次へと相手を代えて、純粋な女なのかなんなのか、そうい
う不思議さみたいなのがありますよね。それをすーっと読んじゃうと通り過ぎ
てしまうけど、立ち止まってこいつは何なんだろうと思うと、ある種の恐怖み
たいなものが見えてくるというのはありますね。
清水 精神病理学的な用語で片づけたら簡単なことかもしれないけれど、人間
の感情の摩訶不思議さをチェーホフは告発しているというか、描いているんで
すよね。だからイワーノフは決して恐怖におののいているのではなくて、ちゃ
んと自分の心をそれなりに分析してはいるんですね。で、ひとに聞かれると
「わからない」と言うんです。チェーホフの多くの人物たちはなぜ自分がこう
いう気持ちになるのかわからないと言うんですね。
例えばニコライ・ステパーノヴィチ老教授。『退屈な話』で老教授をハリコ
フのホテルにまで追って来たカーチャは「どうかおっしゃって、私がどうすれ
ばいいか?」と訊ねます。ニコライは「カーチャ、良心に誓って言うが、私に
はわからないのだ……」としか言いませんね。「わからない」と言われりゃ、
僕だって何もわからないですからね。
若い頃はわかったつもりになってる。しかしだんだん齢を重ねていくうちに、
いろいろな人生の局面に立ち会ってくる度に、ますます人生というものがわか
らなくなってくる。自分の心に正直に向かい合うと「わからない」としか言い
ようがないわけですね。だからイワーノフは、自分の心に関してものすごく誠
実なわけです。絶対取り繕ったりしないわけです。愛がなくなれば、愛がなく
なっているという自分の心に忠実だから、その時に心にもなく「いやあ、僕は
いまだに君を愛しているよ」とかそういうことをチェーホフの人物は絶対に言
わないんですね。しかし自分の心に対して忠実・誠実な男でも女でも、傍から
見ればこんな嫌な奴はいないですよね。だからアンナを診察しているリヴォー
フ医師はものすごく苛立つんですよ。なぜ自分の妻がこんな風に苦しんでいる
のに、なんでお前は毎夜毎夜外出してしまうんだ、なぜ奥さんの側にいてあげ
られないんだ、って怒りを爆発させていますよ。
ところで、アンナはリヴォーフに「なんのためにあなたはここにいらっしゃ
るのです? どんな共通点があなたとあの冷酷で薄情な……いや、ご主人のこ
とはよしましょう!・・どんな共通点があなたと、この空虚で俗悪な周囲との
間にあるのです?」と訊れて、こう答えています「あなたはニコライのことを
ああだこうだと仰しゃるけども、どこからお聞きになったのです。半年くらい
でひとりの人を知り尽せるかしら? あれは、ドクトル、すばらしい人です」
と。イワーノフのことを「すばらしい人」だと言っているんです。自分に対し
て同情も哀れみも感じないとはっきり言ってるイワーノフに対して「すばらし
い人です」と言っている。「あなたが二三年前のあの人をご存知ないのが残念
だわ。今でこそ、ふさぎ込んで、だまって、手をこまねいているけれど、以前
には……ふるいつきたくなるようでしたわ」と。「あたしは一目惚れ」とも言
ってます・・このときちょっとアンナは笑うんですよね。「ちらッと見ただけ
で、コロリ!」で、そのときイワーノフが「行こう」と言ったわけです。「あ
たしは、はさみで朽葉を切り落すように、何もかも断ち切って、一緒に行きま
した」で、次に「……」があってしばし間をおいて、「それが今は……今では
あの人は、他の女と楽しむためにレーベヂェフの家へ出かけて行く。そしてあ
たしは……庭に坐って、ふくろうの鳴くのを聞いている」と言っています。だ
から、妻のアンナはみんな知ってるわけですよ。イワーノフの心が自分から離
れてしまっていることを。しかし引き留めずにはおれない。アンナは夫を愛し
続けているわけですから。
ここら辺のチェーホフの描き方は、実にうまいと思うんです。非常に冷静な
眼差しで男と女の関係を的確に描いている。もう何も言うことはないわけです。
だからアンナとイワーノフが会ったときにものすごい熱烈な恋愛感情が発生し
て、男が「行こう」と言ったら、すぐぱっと行ったわけでしょ。そのときに、
アンナはユダヤ人で金もたくさん持っていて、だからこそイワーノフは金が目
当てで結婚したんだろう、とか陰口を言われるんだけれども、しかし非常に自
己献身的なというか、自己犠牲的な女なんですね、アンナは。つまりイワーノ
フの為だったら何もかも捨てて何もかも犠牲にしてあなたについていく、とい
う所のある女なんですよ。そのことをよーく知っているんですね、イワーノフ
は。でも心変わりしてしまったんですね。
おそらくチェーホフが言いたいのは、男と女の愛など所詮そんなものだ、っ
てことですね。駆け落ちまでして親の反対を押し切って二人きりになった、そ
のくらい激しい感情を持っていて、永遠の愛を誓ってすら、時の流れの中でそ
れは変わっていくもんなんだ、というこの冷徹な眼差しがチェーホフの中にあ
る。そこを決して誤魔化さない。
横尾 そこはわからない、というところがチェーホフの凄さだと思います。ド
ストエフスキーの場合も別の言い方で、二×二=四にならないと言っています
が、チェーホフが言っているのはまた別の次元における二×二=四にならない
んだと、そういうことはわからないんだ、ということですよね。チェーホフの
凄さというのは、我々はこの年齢になると色んなことがわかってくるというこ
ともありますし、作家と同じ位の年齢になって初めてわかることとか、作家を
超えた年齢になって初めて分かることとか色々ありますが、チェーホフは二十
代から三十代前半くらいですよね。それでこれだけのことを書けるというのは、
すごい才能だなと思います。
─チェーホフにおける老成─
清水 老成してるのかねぇ。普通、三十歳くらいだったら「わからない」とか
言いたくないですよね。
横尾 そういう境地に達しないですね。
下原敏彦 若年寄りですね。『退屈な話』を書いたのは二十九歳ですよね。そ
れで教授が六十二歳で、その辺をドストエフスキーと比較する時に『貧しき人
々』を書いたときは二十三歳で四十歳くらいの主人公の気持ちを書いた。そう
いうところを意識してるのかな、と読んでて思ったんですけど。
横尾 その辺の不思議さというのはすごく残りますよね。例えば今の日本の二
十九歳の作家が六十二歳の主人公をチェーホフのように書けるかといったら、
まず書けないでしょう。自分と等身大の人間しか書けないですよ。それは単に
想像力がないからだとか、文学的に貧困だとかだけでなく、それ以外の何かが
決定的に違う。だからチェーホフなんだ、だからドストエフスキーなんだとい
うことですけどね。
清水 『貧しき人々』のマカール・ジェーヴシキンというのは四十歳を超えて
るんですか?
下原敏彦 そうですね、四十過ぎの中年。
清水 僕の意識の中では三十代半ばくらいの感覚だったけどね。つまり現代日
本人の年齢感覚でいうと、相当違うでしょ? 「私はすっかりおしまいになっ
てしまった人間ですよ」なんて言ってる『罪と罰』の予審判事ポルフィーリイ
が三十五歳ですからね。今の感覚でいったら三十五歳なんて青年でしょ。でも
僕が二十歳前後の時に『罪と罰』を読んでたときのポルフィーリイのイメージ
はかなりの老人という感じでしたよね。
下原康子 うん、五十代だね。
清水 だからロシア人における三十代なんてのは、腹は出てるし頭は薄くなっ
てるし、完全にオッサンなんですよね。それを考えると、年齢に関するイージ
は時代によって随分違いますね。
─過剰の文学と抑制の文学─
ドストエフスキーの文学はとにかく過剰でしょ、お喋りし始めるとぶわーっ
と喋っているわけだから。チェーホフの場合は相当刈り込まれてますね。この
言葉だけは残しておこう、余分なものは全部省いてしまおうみたいな、そうい
う台詞なっているけれども、ドストエフスキーは過剰ですね。ただ、ドストエ
フスキー好きの人たちはその過剰なものを過剰に感じないわけですよ。だから
あの過剰な世界からチェーホフを読み始めると、まあなんとサラッと書いてる
かなあ、という風に思う。だけどそのサラッと書かれているところにまた、深
さがある。つまり台詞の行間まで読めるようになってくると、チェーホフは書
いていないけど、そうとう深みのあることを描いているんだな、ということが
分かりますね。
─医学と文学─
横尾 私がもう一つ疑問に思うことは、チェーホフはお医者さんじゃないです
か。チェーホフは一八八〇年代の西洋医学を勉強していますから、昔の怪しい
医学ではなくて、きちんと理論づけしたいわゆる合理主義的な医学だったと思
うんですよ。それを勉強しながら何故小説を書いているかというと、二十九歳
にして人生はわからないというわけでしょ? カーチャと六十二歳の教授が最
後に対面してもわからないと言う、ということは医学という合理主義ともう一
つ自分の中の心の問題が非常に乖離していたのか、あるいは二重写しになって
ぶれていたのか。その辺のことが、もうちょっと勉強してみたいなという気が
します。チェーホフの謎だという気がするんですね。
清水 なんか合理的に割り切っているところもあるよね。人間はわからないと
言いながら、同時に非常に合理的に割り切っていて、科学を信頼していたよう
な台詞も出てきますからね。それから、チェーホフは人類の未来の幸福みたい
なものを彼は大真面目に言っているようなところがありますね。人間の幸福と
か科学の明るい未来みたいなものに対して、これじゃ手塚治虫じゃないか、み
たいな(笑)。そういうものを素朴に、単純に信じているようなところがあり
ますね。そのことをも疑っているという視点は、僕はあまり感じなかったな。
下原康子 ドストエフスキーと違うのは、ドストエフスキーの中には働く人は
全然出てこないですよね。チェーホフの作品にはとにかく働く人が出てくる。
みんな職業を持っていて、働くということに重きを置いてますよね。そこがす
ごく違うと思います。チェーホフは二足の草蛙を生涯穿きつづけた。それもち
ょっとした謎だけど、働くこと、そして科学、そういうものに対する思い入れ
があって、それを自分で子供の頃から非常に訓練してきた人のような感じがす
る。それだけ自分にも厳しいけど、やっぱり他人にも厳しいな、という。ドス
トエフスキーはすごく寛容な気がするんですけど、チェーホフはやや怖い。こ
こに二人並んでたら、そりゃチェーホフの方に女性がどーっといきますよ。だ
けど非常に困って相談する時にチェーホフには行けない(笑)。
清水 チェーホフに限らず、医者の息子とか、医者やりながら作家活動を続け
た人は日本でもいるじゃないですか。医学と文学というのはなんか関係あるの
かね?
横尾 やっぱり医学には二×二=四で割り切れないところがあるから、文学に
惹かれるのかな。
─死を超えた愛と絶望のドラマ─
─テキストの解体と再構築批評─

清水 やっぱり死の問題があるでしょうね。死の場面に何度も立ち会っていく
と、どんなに生きても結局は死んでいくんだ、という。老教授とカーチャの関
係だって、僕なりの読み方をしていくと酒びたりになるほど切ないですよ。だ
からカーチャが老教授のところを去っていくときに二度と振り返らないでしょ。
じゃあカーチャはどこへ行った? 老教授ニコライは自分はもう死ぬんだ、と
言ってるんだけども、カーチャにしてみれば老教授が死のうが死ぬまいが関係
ないですよ。カーチャが求めているのはニコライの愛なんですから。愛は死を
超えているわけですよ。だけども、カーチャは相手から愛の言葉を得られなか
った。「わからない」としか言われないんですから。ただ「飯でも食いに行こ
う」とか馬鹿なことしか言われない。
そのときに女は断念する。ニコライとの関係の綱をパチっと切るんですね。
そして二度と振り返らない。角を曲がっていく時に黒い服がちらっと見える。
カーチャは喪服なんです。カーチャは単に場所を移動しただけじゃないんです
よ。もう彼女だって死に向かっているんですよ。だから、死を覚悟してカーチ
ャはやってきたにもかかわらず、ニコライはそれをわかっていながら、しかし
「わからない」としか言えない。
と、僕のような解釈をしたときに、ものすごくぶわーっとくるんですよ。あ
る意味で僕の読み方は、ドストエフスキーの世界にチェーホフを解放するよう
なところがあるんですね。僕流でいうと、ドストエフスキーの広大な世界の中
にチェーホフの人物たちを解き放った時に、僕は僕なりの再構築した世界の中
で自分がうち震えるみたいなとこがあるんです。だって、ニコライはカーチャ
のことを私の宝物だと言ってるわけですよ。しかしその宝物を自ら手放さざる
をえないんです。そのときにニコライは自分の心を絶対に偽らないから、愛し
てないのに愛してるとは言わない。だからニコライは、自分の心に誠実である、
その誠実さだけは絶対に手放さないんですね。ここに打たれていくわけですよ。
そうすると、チャーホフという作家は描かないで描いていく作家だな、と。
ただヒントをちょこっと書いているんだよね。ちょこっと書かれているヒント
から読者の方がどこまで読み取っていくか。
ただし僕はドストエフスキーの『罪と罰』も俳句みたいに思えてきてるんで
す、つまり五七五の世界である、と。つまりあれは一週間ぐらいの作品でしょ。
そうするとほとんど書かれてないわけですよ。書かれていない闇の領域があま
りにも広すぎる。僕はドストエフスキーの作品ですら、ちょこっとしか書かれ
てないな、と思っちゃうんです。チェーホフはもっとちょこっとしか書かなく
て、人間の世界を嘆いているというかね。やっぱりドストエフスキーとかチェ
ーホフとかじゃなくて読み方の問題ですね。
横尾 当然ありますね。清水先生が新しく作られた領域で、日本の文芸批評と
いうのは作家論だとか作品論だとかテキスト批評だとか色んなことをやってき
たけども、結局何一つ残っていかない。それから、研究という領域は実証主義
ですから、実証的な研究を重視していくけども、本当に文学作品はいわゆる想
像力と創造力で読んでいく。
私は清水先生の批評はいわゆるテキストを再構築していく批評じゃないかと
思うんですけど、そういう読みというのはなかなかできないですよね。読者と
いうのは常にテキストがあって、それの受け手でしかないんだけども、読者と
いうのは実は一方的に与えられる受け手ではなくて、読者の方が作者よりもっ
と想像力を上回って一つの世界を読み解いていくということのすごさ。それは
清水先生が新しく開拓した分野だと思うんですよ。
そうやってチェーホフを読んでいくと、やっぱりおもしろい。特に『退屈な
話』のニコライ教授とカーチャの話の余命半年しかないニコライ教授の心境を
読み解いていくところなんかおもしろいと思いますね。
─チェーホフの「どうでもいい」をめぐって─
清水 もう一つチェーホフのキーワードとして「どうでもいい」。この「どう
でもいい」というのは、僕も二十歳くらいの時には言ってたと思いますよ。つ
まり案外若い時に言ってるもんなんだよね、「どうでもいいよ」とかそんなの
は。で、五十過ぎてからチェーホフを読んで「どうでもいい」ってのが出てき
て、改めて「どうでもいい」ということを考え直してるんですがね。「どうで
もいい」ってことは一体どういうことだろう。身近なところで、案外「どうで
もいい」と言ってる人は多いですよ。授業で学生さんたちに話しているときで
も、そういうことを言うか? と尋ねると結構言ってるんですよね。
この「どうでもいい」について、ちょっと話しましょうか。下原さん、どう
ですかね?
下原敏彦 当時の社会背景としては、革命に向かっていたんですよ。チェーホ
フは、僕の考えとしては『悪霊』にどうも躓くということで、どうなるかわか
らない、と言ってるんじゃないかな……。『悪霊』を革命小説として読む。チ
ェーホフの頭の中には革命に向かっていきたいという考えがあって、書いてな
いですけど文学的にはドストエフスキーを尊敬していたと思うんですよ。だか
らドストエフスキーのああいう小説を読んじゃうと、ドストエフスキーて何だ
ったんだろうな、という……
清水 それで「どうでもいい」というのは、どういうことですか?
下原敏彦 そうすると、自分の中でわからないところを、そうやって結論をだ
さない。未来に対して。それが「どうでもいい」ということなんじゃないかと
思います。
清水 ちょっと待ってください。チェーホフはドストエフスキーの『悪霊』は
どちらかというと革命小説として考えていた、チェーホフは革命に対して希望
を持っていた、ということですか。そうしたら「どうでもいい」じゃないんじ
ゃないですか?
下原敏彦 ドストエフスキーは尊敬するけども、ドストエフスキーにそういう
ことを言われちゃうと、未来に対しての自分の予想がつきにくいというか、判
断がしにくい。
清水 僕は「判断がしにくい」と「どうでもいい」がイコールになるとは思わ
ない。僕の文脈で言っちゃうと、ドストエフスキーは神があるかないかという
ことをものすごく問題にしていた。ところがチェーホフにしてみれば神があろ
うがなかろうが「どうだっていい」と。そういう意味での「どうでもいい」と
いうのが非常に強かったんじゃないかな、と僕は思う。それから、若い頃の
「どうでもいい」というのは、わからなくてやけっぱちになってどうでもいい
という。
下原敏彦 僕が言いたいのは、革命がおきようがおきまいが「どうでもいい」
と。
清水 康子さんはいかがですか?
下原康子 なんかどうでもいいというか、何の意味かわからない、というとこ
ろがありますよね。これが何の意味を持つのかわからない台詞が結構あって、
どうして自分がこんなことをやってしまったのかわけがわからない、とか。
『退屈な話』の中でも、老教授がいきなり怒りだして怒鳴りつけたりして、そ
れを考えたってなぜこういうことが起きるのかさっぱりわからない。この世の
中が解体するような感じ。ずーっと考えつづけていると自分の言った言葉も向
うの反応も何が何やらわからない、意味がわかんなくなっちゃうっていうかね。
どうでもいい、じゃなくてぼやけて意味がわからなくなってしまう。生活の中
で、人生の中で、これがどういう意味を持つものかもうわからない、そんな感
じがどの作品を読んでもありますね。ぱっと怒りが爆発するけれども、すぐに
反省して、反省したら反省したでなぜ反省したかわからない。相手に謝ろうと
思うけども、なぜ謝るのかわからない。向うが何か言っても、自分の怒りが本
物かどうかもわからない。真剣になればなるほどわからない、というところに
チェーホフは嵌ってしまっていて。
で、『退屈な話』はカーチャよりも年が倍ほどもある老教授が主人公だけど
も、あれはたぶんチェーホフの精神的自画像だと思いますね。多分そういうこ
とを吹っ切るためにサハリンに行ったのかな(笑)。サハリンはね、ドストエ
フスキーのシベリアだったかな、と思ったりもするんですけどね。
清水 サハリンについてはまた後で話をすることにして、横尾さんどうです
か?
横尾 「どうでもいい」というのは、結論から言えばチェーホフはどうでもよ
くなかったんですよね。どうでもよくないから「どうでもいい」という言葉を
あえて使った。それはチェーホフのある種の文学的な境地というのかな。だか
らキーワードになったんじゃないかと思うんです。清水先生が最初におっしゃ
った、今の若者たちの「どうでもいいや」という、割とやけっぱちになっちゃ
たりあんまり深く物事を考えないで言うニュアンスと、同じ言葉なんだけどチ
ェーホフの「どうでもいい」はどうでもよくないから「どうでもいい」と言っ
てるんじゃないかと思うんですよ。例えば、白い紙というのは紙だけだと自分
が白であると自覚できないんですね。暗い闇というのは闇だけだと自分が闇だ
と自覚できない、光があるから自分が闇だと自覚できる。それと同じように、
どうでもよくないから「どうでもいい」ってことを自覚できる。
そのどうでもよくなったことが、さっき言ったんですけど、医学の道を極め
たとか、死というものに立ち会ったとか、先行するドストエフスキーやトルス
トイがいたとか、それに対する自分の文学をどういう風に作ろうか考えたりと
か、そういう色んな思いがあったんじゃないかな、と。その部分は私自身も解
明できてないんですけど、そういうキーワードから解いていくと今言ったよう
な感じがしますね。
清水 つまり四十、五十になって「どうでもいい」と口にする人は、どうでも
よくないことを抱え込んできた人だと思います。
─「どうでもよくない」こと─
清水 「どうでもいい」ということを考える上で、これは絶対にどうでもよく
ない、このことは譲れないということが一つあるとすれば、下原さん、何です
か?
下原敏彦 今の社会状況……靖国問題はどうでもよくないような問題じゃない
かな。
清水 つまり靖国問題で小泉総理が参拝するしないについて、行ったっていい
し行かなくったっていいよというんじゃなくて、やっぱりそれは行くべきだよ、
あるいは行かない方がいいよ、とそういうことですか?
下原敏彦 そうですね。
清水 これは下原さんの中ではどうですか?
下原敏彦 今の現状から、他の国との関連ではなくて、東条英機が祀られてる
のには反対です。戦犯がいなければ別にいいんですけど。
清水 横尾さんはどうですか?
横尾 やっぱり私の問題に引きつけて言うと、大半のことはどうでもいいんで
すけど(笑)。下原さんが言われたような社会的なこともそうですし。唯一こ
こは譲れないなというのは、科学技術と心の問題ですね。文明がどんどん発達
してインターネットや携帯電話、いわゆる二×二=四になるようなものがドス
トエフスキーの時代よりもっと加速して、そういう時に人の心の問題が置き去
りにされるというのは良くないなと思います。そこにこだわる、というのが文
学の役割ではないか、そこは譲れないという感じがしています。
清水 康子さんはどうですか?
下原康子 どうにもならないことを「どうでもいい」と言ってるんだと思うん
だけど、自分の問題としてどうにもならないとなったときに、それをどう考え
るかが一番大事な問題で、その時に一ばんチェーホフやドストエフスキーが共
通して嫌ったのが、虚偽とか嘘とかそういうことだったと思う。だからどうに
もならないときにそれを貫けるか、虚偽を排除できるかといことが……
清水 虚偽ということは分かっているんですね?
下原康子 そうです。


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