2009
06.11

チャップリンの『街の灯』を観る(清水正)

清水正のチャップリン論

チャップリンの『街の灯』を観る(清水正)
0012.jpg
Д文学通信1116号・1145号に発表した『街の灯』論  
ここをクリックしてください清水正の本


チャップリンの『街の灯』を観る
清水正

2006年5月23日(火曜)
『街の灯』論
・・一・・
チャップリンの『街の灯』に関してはずいぶん前にテレビで見たことがあ
った。特集で『街の灯』の撮影秘話のようなものを見た記憶もある。それか
らおそらく三十年近くもたっているのではないかと思う。時の流れは歳を経
るたびに急速で、十年前も昨日の出来事も大差がないように感じてしまう。
やるべきことは山積みされているというのに、時はなんの容赦もなく過ぎて
いく。まさに光陰矢の如し、少年老いやすく学なりがたし、である。
先日、本屋でチャップリンの『街の灯』がDVDで五百円で売っていたの
で早速買ってきた。近頃、世界映画の名作が次々にDVD化され安価で入手
できるようになった。わたしが学生の頃、映画は劇場で見る他はなく、ずい
ぶんと手間隙かけて観たものだが、近頃はずいぶんと便利になった。DVD
で見られるということは、時間や場所に制約されることがなくなったという
こと、どこでもいつでも観られる利点がある。それに何より有り難いのは、
早送りや一時停止が可能になったことで、重要な場面は繰り返し何度でも観
られるということである。つまり映画批評においても文芸批評と同じ条件が
揃ったということになる。
わたしは大学に行く朝に、実に久しぶりに『街の灯』を観た。そして観お
わった時には涙で顔がぐしゃぐしゃになった。あの最後の場面、ルンペンの
チャップリンと花売り娘の再会の場面に、わたしはとめどもなく涙を流した。
顔を洗う必要がないくらいに涙が出た。わたしは五回ほど繰り返し繰り返し
この場面を見直した。そしてその度に感動した。こんなにひとを感動させる
映画がまたとあろうか。わたしは再び最初からこの『街の灯』を観ることに
なった。
濡れぎぬの罪で刑務所に入れられていたルンペンのチャップリンは、久し
ぶりに解放されて街をぶらついている。彼はいつの間にか、盲目の花売り娘
が仕事場にしていた街角にやって来る。彼の眼差しは確かに花売り娘の姿を
探している。しかしそこに目当ての娘の姿はない。彼はしょげながら通りを
歩いていく。と、彼の背後のビルの一角に「フラワー ストアー」の看板が
見える。が、彼はそれに気がつかない。カメラは二人の新聞売りの少年を捕
らえる。刑務所帰りのチャップリンに、二人の少年は眼を付ける。ルンペン
のチャップリンと新聞売りの少年は、お互いにからかったり、たわいもない
喧嘩をしたりする、いわば同じ仲間である。さっそく少年は吹き筒に紙玉を
詰めて、チャップリンの頭に飛ばす。チャップリンは少年たちを威嚇するが、
彼らはさらに紙鉄砲をくらわしてしらんぷりを決め込む。少年とチャップリ
ンのたわいもないやりとり、この間の取り方は抜群である。何しろチャップ
リンには、花売り娘との劇的な再会が待っている。そのクライマックスは、
急速に直線的になし遂げられてはならない。その前に必ずワンクッションを
置くことで、クライマックスの効果を最大限に発揮させなければならない。
これはドラマ作りの常套手段でもある。
先にカメラは「フラワーショップ」をさりげなく映し出し、花屋で忙しげ
に働いている美しい女性を捕らえている。彼女はすでに盲目の貧しい花売り
娘ではない。彼女はチャップリンが必死で働いた金で、アパートを追い出さ
れずにすみ、さらに手術で眼が見えるようになっている。彼女は自分に優し
く言葉をかけ、花を買ってくれ、アパート代と手術代を恵んでくれた者を、
大金持ちの美しい青年として想像していた。それは、チャップリンが初めて
花売り娘と出会った時、彼が高級自動車の中を通りすぎて路へと出たからで
ある。眼の見えない彼女の耳に、高級自動車の停車音と花を買ってくれた男
のイメージが重なっていた。以来、彼女は「フラワー ストアー」を経営し
ながら、自分の恩人を探し続けていた。この日、花屋に一台の高級自動車が
止まる。彼女の耳はその音に反応し、降りてきた若く美しい青年の姿を追う。
青年は「花をください」とお婆さんに声をかける。その声は、彼女の知って
いる声とは違う。彼女はがっかりして再び仕事にかかる。
監督チャップリンの手法は見事というほかはなない。眼が開いた花売り娘
が探しているのは、金持ちの若くて優しい青年である。これでは彼女がどん
なに必死に探してもルンペン・チャップリンを発見することはできないだろ
う。観客は絶望的な気分になる。しかし、ここで絶望的な気分にさせておく
ことが、クライマックスの感激を増幅させることになる。
ルンペン・チャップリンは新聞少年の紙鉄砲を頭に受けて、プリプリしな
がら通りを歩いている。と、路に一輪の萎れかけた白い花が落ちている。彼
は、まるでそれが花売り娘の化身ででもあるかのように、そっと手に取る。
この姿を花売り娘が見て、花好きなルンペン・チャップリンに声をかけ、新
しい売り物の花一輪を差し出す。この瞬間、観客の誰もが胸をキュンとさせ
るだろう。ルンペン・チャップリンはじっと娘の顔を凝視する。このチャッ
プリンの顔がすばらしい。ずっと思い続けていた花売り娘が今、自分の目の
前にいて優しく微笑んでいるのだ。が、チャップリンに大袈裟な身振り手振
りはまったくない。彼は胸の高鳴りを押さえ込んで、ただ静かに彼女の顔を
凝視する。娘はルンペン・チャップリンが自分に惚れているのだと思い、お
婆さんに向かって軽い冗談口をたたく。この段階における娘は、ルンペン・
チャップリンに対して上位に立った優しさを示している。何しろ相手はルン
ペンで一文無しなのである。薄汚れた燕尾服、ぶかぶかの靴、汚れた帽子を
身にまとった、乞食同然の男が、まさか自分の恩人などとは微塵も思ってい
ない時点での、娘の対応である。彼女はお婆さんに命じて小銭を出させ、そ
れを受け取ると、自らの手でルンペンにわたそうとする。が、ルンペン・チ
ャップリンは眼が見えるようになった娘に怖じ気づいてその場から逃げだそ
うとする。娘は彼を追いかけ、呼び止める。彼は立ち止まる。この時の立ち
止まった姿勢に気をつけよう。彼は娘から逃げきる気持ちはさらさらない。
かと言って、彼女の方へと自ら歩み寄る気持ちもない。言わば、彼の心は千
々に乱れている。このまま姿を隠してしまうべきか、それとも……。まさか
ルンペン・チャップリンに、娘に向かって自分があなたの恩人なんだと名乗
る、そんな功名心はまったくない。彼は純粋に、眼が開いて元気に働いてい
る娘を見て感激しているのだ。この感激は胸が張り裂けんばかりの感激であ
り、だからこそ静かに心の奥底へと沈められているのである。彼は立ち止ま
る。娘は彼の手をとり、その掌に小銭を握らせる。娘の右手が彼の小銭を握
った手の甲に触れる。と、その瞬間、手の感触が蘇る。カメラは娘の顔をア
ップ、続いてルンペン・チャップリンの顔をアップする。彼はおずおずとし
た臆病な眼差しを娘に向け、そして一語一語噛みしめるように聞く。You ca
n see now ? 娘は彼の顔をじっと見つめながら答える Yes,I can see no
w. ここで一気に涙が吹き出す。ルンペン・チャップリンは「きみは眼が見
えるようになったのか?」などと陳腐なことを聞いているのではない。娘は
「わたしは眼が見えるようになった」等と陳腐な言葉を発しているのではな
い。ルンペン・チャップリンはYou can see now ?と聞いている。ここで重
要なのは〈now 〉である。単に眼が見えているのかどうか、という質問なら、
すでに観客のすべてがそれを知っている。手術が成功し、眼が見えているか
らこそ、娘はてきぱきと仕事をし、明るく笑っている。だから、そんな誰も
がすでに知っていることを、ここでルンペン・チャップリンが繰り返す必要
は全くない。彼が聞いているのは〈now 〉である、〈now 〉が見えているの
か? と聞いているのである。それでは〈now 〉とは何か。〈now 〉とは
〈愛〉である、〈愛の光〉である。ルンペン・チャップリンが娘に聞いてい
るのは、You can see now ? つまり〈愛〉が、〈今〉見えているか、と聞
いているのである。単に眼が見えているだけなら、そんな人間は吐き捨てる
ほどたくさん存在するのだ。眼が見えていて、視力の精度が高くても、〈
愛〉の見えていない者は多い。花売り娘は手術が成功して眼が見えるように
なっても、未だ彼女は本当の〈愛〉を発見するまでにはいたっていなかった。
彼女は未だ、愛の人を〈高級自動車〉〈大金持ち〉〈若く優しい美青年〉の
イメージで捕らえていた。路上に落ちていた小さな、萎れかけた一輪の花を
そっと拾い上げる心優しい男、がそのルンペン・チャップリンを見てさえ、
娘は自分の眼の手術代をくれた〈愛の人〉をその眼で発見することはできな
かったのである。もし、娘がルンペン・チャップリンを追わず、その手に小
銭を握らせず、彼の手に触れなければ、おそらく娘は永遠に自分の恩人を発
見することはできなかったろう。が、〈今〉、ルンペン・チャップリンの手
に触れた〈今〉、はじめて娘は眼前の男が〈愛の人〉であることを発見した
のである。娘が口にするYes,I can see now. の〈now 〉がいかにすばらし
いかである。この時、ルンペン・チャップリンの口にした〈now 〉と娘の発
した〈now 〉が合体したのである。〈now 〉と〈now 〉が今、この瞬間、
〈愛の光〉となって発光し、観客の胸を貫くのである。ユー キャン シー
……ナウ? アイ キャン シー…… ナウである。この〈now 〉に撃た
れなければ、この最後のシーンの感動を本当に分かち合うことはできない。
このラストシーンで涙したわたしは、このときチャップリン論を書こうと
思った。チャップリンの映画は観られなければならない。多くの若者たちに
チャップリンのすばらしさを、その凄さを伝えよう、と思ったのである。ま
ずはこんなに感動した『街の灯』論からはじめよう、ということで、本腰を
入れて『街の灯』を観なおしたのである。
『街の灯』は平和と繁栄を象徴するかのような一九二、三〇年代アメリカ
の都市の夜の光景から展開する。高層ビル群、そのビルの窓々に灯っている
明かり、忙しく走り抜ける自動車のヘッドライトの交錯……。まさにアメリ
カは〈平和〉と〈繁栄〉を誇っていた。が、『街の灯』の〈灯〉が、夜の街
を照らしだす自動車のヘッドライトや高層ビルの窓から漏れる電灯の明かり
でないことは、すでに明白である。続いて画面は、「平和と繁栄」を祝して、
巨大な記念碑を寄贈する式典の場へと変換する。政治家らしい男が大袈裟な
手振り身振りで演説している。続いて紹介されたゲストはまさに虚飾に身を
包んだ女である。監督チャップリンは二人の演説と挨拶を、英語でもドイツ
語でも、つまり何語でもない〈声〉として演出している。観客は役者の手振
り、身振り、その何語でもない〈声〉によって二人が、政治と経済の欺瞞の
世界に身をひたした俗物中の俗物であることを知る。やがて音楽が奏でられ、
除幕式が執り行われる。幕が徐々に上げられ、やがて巨大な記念碑像がその
全貌を現す。と、その像の中央部によれよれの燕尾服とぶかぶかの靴を履い
た、例のルンペン・チャップリンが寝そべっているのが見える。厳粛な式典
は一挙に、ばかばかしいグロテスクな茶番劇へと一変する。演奏は中止され、
会場はてんやわんやの大騒ぎ、寝ていたチャップリンは仕方なく記念碑像か
ら降りようとするが、ズボンが像の持つ剣に引っ掛かってなかなか降りるこ
とができない。監督チャップリンは、ルンペン・チャップリンのこういった
滑稽な仕種によって、欺瞞的な式典を徹底的に笑いのめそうと図っている。
チャップリンが求めているのは高層ビルでも高級自動車でもない。巨大な記
念碑像を寄贈することでも、そのために大袈裟な式典を開催することでもな
い。彼が求めているのは本当の〈街の灯〉、すなわち〈愛の光〉である。
2006年5月25日(木曜)
・・二・・
監督チャップリンの演出構成はいたるところ眼を見張るものがある。一回ぐ
らい観ただけでは、おそらく多くのものを見落とすことになろう。まず花売
り娘から見ていこう。彼女は、自分に優しく声をかけ、花を買ってくれた男
を金持ちと思ってしまった。ぐうぜん交差点で止まった自動車の座席をくぐ
り抜けてルンペン・チャップリンが歩道へと出てきたからであり、その直後
に彼が花を買ったからである。花売り娘はまだ夢見る乙女であり、その姿は
清純そのものとして描き出されている。彼女は祖母とふたりきりでアパート
の二階に住んでいる。彼女は帰って来るとレコードを聞き、窓の外に飼って
いる鳥の世話をしたりする。つまり眼の見えない彼女にとって音楽や鳥の鳴
き声が唯一の楽しみなのである。年頃の娘らしく彼女もまた自分の理想的な
〈白馬の童子〉を夢見ている。同じアパートに住んでいる娘が迎えに来た彼
氏と楽しげにデートに出掛けていく。花売り娘は窓から顔を出して、その幸
福そうな恋人同士の声を聞いて、自分もまた先程の優しい男を思い出してう
っとりしている。この場面になんとも言えない哀しみが漂うのは、彼女が自
分の飼っている鳥のように〈籠の中の鳥〉であるからである。彼女は花を売
りに行くときだけ街へと出る。仕事が終われば、まっすぐアパートへ帰って
レコードでも聞いているより暇の潰しようはない。彼女が願っているのは、
優しい男の顔を自分の眼で見ることであり、彼との新しい生活であったろう。
しかし、それはまさに夢の夢である。この盲目の花売り娘の夢を叶えさせる
ことのできる人は、監督チャップリンのほかにはいないだろう。
さて、ルンペン・チャップリンの方を見てみよう。すでに陽は落ちて、街
には街灯の光が灯っている。画面左には黒い川面に街灯の明かりがかすかに
映って揺らいでいる。川岸の通路に一人の紳士がやってきて、いきなり紐を
とりだし、それを首にまきつけて川に飛び込もうとしている。そこへ寝ぐら
を求めてルンペン・チャップリンが階段を降りてくる。紳士の異常な振る舞
いに気づいたルンペン・チャップリンは必死に止める。二人の間にすったも
んだが展開される。大金持ちの紳士は人生に絶望して死のうとしている。浮
浪者のチャップリンは、一文無しにもかかわらず希望を捨てていない。生き
ようとする者が川に落ち、死のうとする者がそれを助ける。それを監督チャ
ップリンは二回も繰り返した。自殺をギャグの材料とすることで、死は生の
希望へと変換される。紳士はルンペン・チャップリンを命の恩人と見なして、
彼を自分の家へと連れていく。紳士は大富豪で立派な邸宅を構えている。紳
士はルンペン・チャップリンをワインでもてなす。高級なワインを何本もあ
けてルンペンにご馳走する。酩酊状態の紳士はグラスをあおりながら、右手
に持ったワインのボトルを下に向け、ルンペンのダブダブのズボンの中へと
注いでしまう。これは観客の笑いを誘うギャグの一つと考えられるが、精神
分析学的には彼の性的欲望の発露とも考えられる。ボトルからルンペンのズ
ボンへと注ぎこまれるワインは紳士の旺盛な性欲を意味しているのか、それ
とも紳士の早漏を意味しているのであろうか。そもそもなぜこの紳士は川に
身投げなどしようと思ったのかである。彼の邸宅に下男はいるが、妻や子供
の姿はない。子供の存在は明確ではないが、妻に関しては外出して帰って来
ないことが下男の口から分かっている。推測するに、何かもめごとがあって
妻が家を出たのである。そのことが紳士の絶望の原因であるらしい。酩酊し
た紳士が箪笥の上に飾ってあった妻の写真を腹だたしげに手で払いのけるシ
ーンがある。監督チャップリンは紳士の家庭事情や自殺の原因を執拗に追求
しない。それは脇に置かれ、あくまでも大金持ちの紳士とルンペン・チャッ
プリンの絡みを執拗にギャグ満載で描きだしている。
酒に酔っている時の紳士は寛容で実に気前がよく、ルンペン・チャップリ
ンを親友として扱う。愛車のロールス・ロイスも何の躊躇もなくルンペン・
チャップリンにあげてしまう。しかし、酔いがさめるとガラッとひとが変わ
って、昨夜の親愛ぶりはどこへやら、冷酷にルンペン・チャップリンを屋敷
から追い出してしまう。この紳士の二重人格的豹変ぶりがこれまた面白い。
金持ちの気まぐれが端的に、誇張されて演出されている。〈気まぐれ〉とは、
自分を神のような位置に据え置いた者の他者に対する態度である。紳士に仕
える下男は、その度にルンペン・チャップリンをもてなしたり、排斥したり
しなければならない。下男はそのことに慣れているからべつに深刻に悩みは
しないだろうが、ルンペン・チャップリンにとってはたまったものではない。
一度、もらったはずの車は、次の朝にはまた紳士のものとなっているのだ。
これではどっちの〈紳士〉を信用していいのかさっぱり分からないことにな
る。
ところで、紳士の二重性格は彼だけのものではないことに注意しなければ
ならない。ルンペン・チャップリンのその姿に改めて注目してみよう。彼は
窮屈な燕尾服にだぶだぶのズボンを履いている。汚れた山高帽子、安物のス
テッキ、ちょびヒゲ……これらは彼が紳士気取りでいることを示している。
彼が真面目に〈紳士〉を気取れば気取るほど、その仕種や恰好は滑稽となる。
つまりルンペン・チャップリンは紳士のパロディである。この浮浪者の身な
りをその気取りを笑い飛ばすことは誰にでもできる。しかしこの笑いを監督
チャップリンは十分に計算に入れている。主人公は浮浪者でもあり紳士でも
あることによって、持てる者の傲慢や気まぐれを暴くことができる。彼は笑
われる存在でありながら、同時に笑う者を笑らわせることができる。しかし
彼は単に、金持ちの気まぐれを欺瞞を暴く機能として登場しているのではな
い。ルンペン・チャップリンは一文無しの、紳士を気取った道化であるが、
しかしこの男こそは人間である。人間であるから、人間としての欲望を否定
したり、歪めたり、抑圧したりはしない。彼は無邪気に浮浪者として街を漂
流している。彼は無垢であり、心優しい浮浪者である。金持ちの紳士が高級
自動車をくれると言った時、そのことにまったく怖じ気づくことなく、あっ
さりともらい受けている。
ルンペン・チャップリンは紳士から金をもらうと、すぐに花売り娘に近づ
いて籠一杯の花を買い上げ、意気揚々と腕を組み、高級車で娘のアパートま
で送り届ける。彼はれっきとした紳士として振る舞い、花売り娘の絶大なる
信用を得る。娘は頭からルンペン・チャップリンが本当の紳士であると思い
込み、自分の部屋に戻ると祖母に彼のことをうっとりとして話す。祖母は孫
娘が愛しはじめたルンペン・チャップリンの姿を見ていない。もし祖母がこ
の時点でルンペン・チャップリンの姿を見ていたら、『街の灯』のあの感動
的なクライマックスはなかったであろう。ルンペン・チャップリンの正体は、
クライマックスの再会場面まで花売り娘にも祖母にも分かってはならなかっ
たのである。
自分のものとして高級車を運転していたルンペン・チャップリンは、しか
し酔いから冷めて別人格になっている紳士にどやしつけられてしまう。再び
一文無しのルンペン・チャップリンは仕方なく街をふらつくほかはない。他
の紳士が路上に落とした葉巻を拾って吸ったりしていると、昼間から酩酊し
た紳士が再び彼を発見して抱きついたりする。この紳士の豹変ぶりは何回繰
り返されても面白い。絶望と希望、緊張と弛緩が観客に〈笑い〉をもたらす。
観客は、再び三たび、ルンペン・チャップリンがこの二重人格の紳士に痛い
眼に会わされるだろうことを確信しているが故に、安心して笑うのである。
ある日、ルンペン・チャップリンは花売り娘が街角にたっていないことを
案じ、アパートを尋ねる。花売り娘は病気でベッドに寝ている。なんとか娘
のためになろうと、ルンペン・チャップリンはその日から必死になって職を
探す。彼が道路工夫になって働く場面が描き出される。道路の向こう側に巨
大な三体の記念碑像が鎮座している。あの「平和と繁栄」のために寄贈され
た巨大像で、式典の時にルンペン・チャップリンが寝そべっていたものであ
る。彼はそれを見ながら、トロッコを押して働く。休憩時間に娘のアパート
を訪ねる。ふと新聞に眼を落とした彼は「ウィーンの名医が盲目を直す」と
いう記事を見つける。一瞬、希望の光が射す。花売り娘の眼を開かせること
ができるかもしれないのだ。彼は部屋の隅に置いてあった本を持ってきて娘
に読み聞かせようとする。と、中から一枚の紙切れが落ちる。娘が読んでと
言う。そこには「部屋代22ドルを払わなければアパートを出ていけ」と書い
てあった。希望は一瞬のうちに絶望へと変換する。彼は「わたしがその金を
出そう」と言って娘を元気付ける。急いで仕事の現場に戻ると、遅刻を理由
にクビを宣告されてしまう。途方にくれた彼に、インチキな賭博ボクシング
の話が持ち込まれる。彼は金欲しさのために引き受ける。しかしインチキ試
合をする相手が警察に追われて急遽姿をくらましたり、勝利の呪いをして試
合にのぞんだ屈強な男がノックアウトされて戻ってくるのを見て怖じ気づき、
逃げだそうとする。が、そうこうするうち、彼の新たな相手も決まってしま
う。彼はインチキ試合をもちかけるが、相手は承知しない。彼は命がけのガ
チンコボクシングをしなければならなくなる。しかしこのボクシングの場面
は腹をかかえて笑える場面として構成されている。この場面で笑わなかった
観客はいないだろう。
このボクシングにおいてルンペン・チャップリンはレフリーの背後に回る。
相手と向き合っているのがレフリーであるのがおかしいのではない。相手と
レフリーとルンペン・チャップリンが同じリズムで足を動かしているのがお
かしいのである。身振り手振り以外に、チャップリンの場合は足振りとも言
うべき足技が凄い。こんなに器用に足を動かせるコメディアンも珍しい。相
手がこちらをなぐろうとすると巧みに頭をさげ、隙のできた相手に的確なパ
ンチをくらわす。もしかしたら強敵に勝つかもしれないという期待を抱かせ
るに十分なスピーディな動きである。が、ラウンドを重ねるにつれてルンペ
ン・チャップリンが不利になる。最後に彼はノックアウトされてしまう。結
果は負けであったが、この場面は腹の皮がよじれるほどおかしい。チャップ
リンは観客を笑わせる術を知っていて、その技術をこれでもかこれでもか駆
使する。
いずれにしてもルンペン・チャップリンはインチキボクシングで金を稼ぐ
ことはできなかった。彼の窮地を救ったのはまたもや酩酊した紳士である。
この紳士、酩酊するとまったく人が違って善良になり、大盤振る舞いをする。
事情を知った紳士は大金(千ドル)をルンペン・チャップリンに差し出す。
が、折り悪く紳士の屋敷内に強盗が二人忍び込んでいた。強盗に頭部を強打
された紳士は意識を失い、ルンペン・チャップリンは強盗とやり合う。意識
を取り戻した紳士は、金をルンペン・チャップリンに盗まれたと警察官に訴
える。ルンペン・チャップリンは逮捕され、刑務所へと送り込まれてしまう。
月日(一九三〇年一月から八月)が流れ、ルンペン・チャップリンはよれよ
れの燕尾服を身にまとって街へと解放される。
これから先はすでに触れた。ルンペン・チャップリンは眼の手術に成功し、
フラワーストアーを経営する娘と感動的な再会を迎えることになる。
・・三・・
チャップリンが『街の灯』を制作するにあたって様々なヴァリエーション
を考えていたことが知られている。特に最後のクライマックスの場面は、最
後まで花売り娘がルンペン・チャップリンが恩人であることに気づかないも
のもあった。またチャップリンはこのクライマックスを何十回も撮り直した
と伝えられている。『街の灯』にかけたチャップリンの情熱は並大抵のもの
ではない。
『街の灯』のルンペン・チャップリンはキリストのような存在であり、彼
が眼の見えるようになった花売り娘に聞いたYou can see now ?は、キリス
トがマルタに聞いた「私は命であり、復活である。生きてわたしを信ずる者
は死ぬことはない。死んでも生きている。あなたはこのことを信ずるか」と
同じ言葉に聞こえる。花売り娘はルンペン・チャップリンの顔を凝視してき
っぱりと答える。Yes,I can see now. まさに〈今〉、花売り娘の眼差しは
ルンペン・チャップリンではなくルンペンに身をやつした〈キリスト〉を見
つめているのである。
監督チャップリンがこのクライマックスのシーンにこのような意味を託し
ていたかどうかは知らない。現実的な次元で考えれば、すでに眼の見えるよ
うになった花売り娘が、ルンペン・チャップリンを〈恩人〉として受け入れ
る可能性はきわめて低いだろう。何しろ、この娘が抱いていた〈恩人〉のイ
メージは大金持ちで、若くて、優しい美青年なのである。よれよれの服、ぶ
かぶかの靴、汚れた山高帽子、一文無しの浮浪者を〈恩人〉と見なす要素は、
この娘にはない。すでに見えるようになった眼は、ルンペン・チャップリン
の手の感触をも欺くのだ、と思った方が確かであろう。花売り娘が求めてい
たのはルンペン・チャップリンとの〈愛〉ではなく、大金持ちで優しい美青
年との〈愛〉である。
初めてルンペン・チャップリンが花売り娘の花を買った時の場面を想起し
てみればいい。自分の夢想にうっとりしたまま、花売り娘は花瓶にくんだ水
を、傍らに坐ったルンペン・チャップリンに思い切りかけていた。知らぬこ
ととはいえ、この場面が現実なのである。ルンペン・チャップリンはみんな
からバカにされ、罵られ、排斥され、利用される存在なのである。しかも彼
はそのことを糧にして逞しく生きる道化でもある。花売り娘に水をかけられ
ても、そっと気づかれないように身を隠す優しく悲しい道化なのである。
花売り娘の〈夢想〉、自分の恩人を大金持ちで優しい美青年と思い込んで
しまった責任はルンペン・チャップリンにもある。彼は自分の本当の姿を花
売り娘にさらけることができなかった。彼はルンペンでありながら、いつも
〈紳士〉を気取らずにはいられない道化であった。彼は、強い者には極力弱
い。同じ程度に弱い奴には虚勢を張って立ち向かう。自分より弱い奴には強
がる。彼は権力の側と戦う姿勢は見せない。警察官を見るとすぐに姿を隠す。
この男が、卑劣漢に見えないのは、彼が余りにも無一文であり、余りにも力
がないからである。金持ちの紳士に優遇されて、いっときいい気になって浮
かれても、すぐに裏切られ、愚弄されることで、彼自身は卑劣漢の汚名を回
避できるということである。
ルンペン・チャップリンはおそらくいつまでもいつまでも浮浪者にとどま
るであろう。彼が立身出世することや、大金持ちになることは全く考えられ
ない。従って『街の灯』のラストシーンが、そのまま長続きすることはない。
You can see now ?の〈now 〉は一瞬なのである。この〈now 〉から、二人
の幸福な結婚生活が生まれることはない。〈now 〉の〈愛〉は一瞬であり、
永遠であるが、それは二人が共に生活できる、持続的な〈愛〉ではないので
ある。だからこそ『街の灯』という映画はここで終わる。ルンペン・チャッ
プリンが〈キリスト〉としての姿を顕した、その瞬間において、もはやドラ
マは完結したのである。
・・四・・
『街の灯』の花売り娘がルンペン・チャップリンを〈恩人〉として発見す
る場面を、そのまま信ずることのできる観客が何人いただろうか。おそらく
この映画を観た大半の観客が描かれた通りに見、そして感動の涙を流したで
あろう。が、監督チャップリンが自ら造りだしたそのクライマックスをその
まま信じていたとは限らない。冷徹に映画を観、盲目の花売り娘の夢想の実
体をきちんと観つづけた観客は、もっとおそろしいクライマックスを予想し
たであろう。盲目であった時に、花売り娘の手は眼の代わりをつとめていた。
盲目の花売り娘は、手で顔や手や体に触れて、相手を認識していた。臭覚の
衰えてしまった人間は、眼が見えなくなった場合、手の感触に頼らざるを得
ない。しかし、今や花売り娘は手術によって眼が見えるようになった。何も
手の感触に頼る必要がなくなった。たまたま逃げ去ろうとするルンペン・チ
ャップリンを追って、彼の手に花と小銭を握らせなければ、その彼の手の感
触を蘇らせることはなかった。花売り娘がルンペン・チャップリンの手の感
触を蘇らせることがなかったならば、彼女は永遠に〈恩人〉を発見すること
はできなかったであろう。問題は、手の感触を蘇らせてもなお、その手の感
触を眼の認識と夢想が断固として〈恩人〉であることを打ち消す場合である。
『この手の感触……これは私に手術代をくれた人のものだ。しかし私の目の
前にいるのは金持ちの紳士ではなく、薄汚れた一文無しの浮浪者……。これ
はおそらく何かの間違いだ。こんなルンペンが私の〈恩人〉であるわけでは
ない』こう思って、花売り娘がルンペン・チャップリンを拒絶することは大
いに考えられる。おそらく監督チャップリンもまた、このようなケースの方
が現実的だとも考えたに違いないのである。
今、わたしたちが観ることのできる感動的なクライマックスの場面を、ル
ンペン・チャップリンの〈夢〉〈夢想〉の出来事として描きだすことも監督
チャップリンはできたはずである。密かに愛していた花売り娘、その娘が、
眼の手術が成功して、花屋を元気に朗らかに営んでいる。刑務所から出てき
たばかりの一文無しの、乞食同然のルンペン・チャップリンは彼女に自分が
〈恩人〉であることを打ち明ける勇気はない。彼に出来ることは、黙って娘
の前から姿を消すことだけである。感動的な再会の場面はあくまでも、彼の
内部に思い描かれた光景でしかないのだ。これが現実というものである。そ
れにもし、娘がルンペン・チャップリンの〈恩人〉であることを知ったから
といって、その後、二人が幸福な結婚生活を送れるわけでもない。してみれ
ば、感動的な再会は、かえって二人を不幸の淵へと追い込んでしまうかもし
れないではないか。おそらくあれやこれやを考えて、迷いに迷った末にクラ
イマックスの場面は決定されたのであろう。
この場面には、人間の卑劣な闇の領域を見据えた者のみが作り上げること
のできる何かが潜んでいる。監督チャップリンの眼差しは余りにも臆病、あ
まりにも哀しい。愛はそっと囁かれるもの、決して演説口調で語られるもの
ではない。そして〈愛〉は、永遠としての〈今〉でもあり、通り過ぎていく
〈今〉でもある。You can see now ? Yes, I can see now.……このセリフ
のやりとりには、〈永遠の愛〉と、つかの間の通りすぎる〈愛〉とが切なく
も重なっているのである。


コメント

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。