2009
06.10

チェーホフの戯曲『イワーノフ』を読む(清水正)

清水正のチェーホフ論

チェーホフの戯曲『イワーノフ』を読む
「江古田文学」62号 特集「チェーホフの現在」に掲載した
清水正のチェーホフ論
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この陰鬱な曇り空は永遠に晴れない
─チェーホフの戯曲『イワーノフ』を読む─
清水正
このチェーホフ論は2006年5月6日から書き始め6月14
日に書き終えた。


この陰鬱な曇り空は永遠に晴れない
─チェーホフの戯曲『イワーノフ』を読む─
清水正

戯曲創作への思い

 二十歳前後の頃、わたしは無性に戯曲が書きたかった。ドストエフスキーについて一本
を書き上げた後、わたしは様々な思想家を題材にして思想的次元の戯曲を書きたいと思っ
ていたのである。しかし、ドストエフスキーの五大作品を批評した後、わたしはドストエ
フスキーの初期作品の検証にかかってしまった。このことがわたしに戯曲を書く暇を与え
なかった。ドストエフスキーを二三年で片づけてしまおうという当初の計画はものの見事
に崩れさった。
ドストエフスキーの第二作品目にあたる『分身』に関しては丸二年を費やした。『分身』
論のタイトルは「意識空間内分裂者による『分身』解釈」とした。意識空間内分裂者とは
もちろん精神分裂病者とは違う。前者はあくまでも正気を保っている。意識空間において
様々に分裂した〈我〉を統括する〈我〉、すなわち映画監督のように様々な役者やスタッ
フを統括する反省的自己としての〈我〉が、その機能を全うしている限りにおいて意識空
間内分裂者は狂気に陥ることはない。
 バフチンはドストエフスキーのポリフォニックな文学世界を理解するためには読者もま
たポリフォニック的思考法を身につけなければならないと書いている。わたしははじめて
バフチンのドストエフスキーの創作方法の諸問題に関する論文を読んで、大げさではなく
衝撃を受けた。それまでベルジャーエフや小林秀雄のドストエフスキー論に親しんできた
者にとってバフチンの論は驚きだったのである。が、しかし、わたしはバフチンの言うポ
リフォニック的思考法を身につけることの危険性をも同時に感じていた。わたしはドスト
エフスキーを読むことで、唯一絶対的な《我》の崩壊を体験していた。作品の中に登場す
るすべての人物の〈我〉を等価なものとして認めるということは、同時に絶対的に信じら
れるものを失うことを意味する。
 わたしは唯一絶対的なものを喪失したことで、様々に分裂した〈我〉〈我〉……に独自
の思想を付与して、それを絡み合わせたら面白いと思ったのである。が、それは先に書い
たようにドストエフスキー論を書きつづけることで実現しなかった。
チェーホフの文学の特質性
─ドストエフスキー文学との関連において─
 先にわたしは『チェーホフを読め』において、ドストエフスキーの文学に関連するよう
な作品『黒衣の僧』『退屈な話』などをとりあげたが、今回は戯曲に関して徹底的に検証
したいと思っている。
 ドストエフスキーにとって最も重要な問題は神の存在であった。ドストエフスキーの人
物たちは神があるかないか、とかまびすしく議論している。この地上の世界において神は
正義・真理・公平を体現しているのか。ラスコーリニコフが、カチェリーナ・イヴァーノ
ヴナが、イヴァン・カラマーゾフが、神に反逆の狼煙をあげる。ドストエフスキーの人神
論者たちはすべてヨブの憤怒と悲嘆を受け継いでいる。ところがチェーホフは「どうでも
いい」と一言で片づけてしまう。ドストエフスキーの死後、この世に生を受けたチェーホ
フは、前者のように大声で神の存在を問うたりはしない。神があろうがなかろうが「どう
でもいい」、自分たちには自分たちのどうすることもできない生活があり、その日常の時
間を埋めていかなければならない。
 ドストエフスキーの人物たちは遠慮会釈なく他者の内部に土足で踏み込んで行く。ドス
トエフスキーの舞台では誰一人として乙にすまして、傍観者風に気取っているわけにはい
かない。隠された罪は公衆の面前で容赦無く暴露され、人々の嘲笑、哄笑、罵倒を浴びせ
られる。自分の抱いている思想や感情は思い切り口に出され、そこでは必ず一悶着がおこ
ることになっている。醜悪なゴシップ、スキャンダルはドストエフスキーの舞台には欠か
すことのできない重要な要素となっている。何しろ、ドストエフスキーの求めているのは
唯一絶対の神、この地上の世界において正義・真理・公平を体現する神の存在である。神
に反逆する人神論者もまた、必死になってその神を求めている。チェーホフにとっては神
よりは善悪を超越した自然が全面に出ている。
 チェーホフの人物たちは、ドストエフスキーの人物たちのように大きな声で主張しない
し、喜怒哀楽を表現しない。チェーホフの人物たちは諦念を深く抱いて、自然の懐の中に
静かに納まろうとしている。彼らの眼差しは垂直的に天に向かうこともないし、大地に向
かうこともない。光輝く希望の眼差しでもなければ、絶望して頭を垂れる眼差しでもない
。彼らの眼差しは四十五度の角度で曇天を眺めている。チェーホフの世界にあっては、太
陽が熱くまぶしく輝いていることもないし、大嵐に襲われることもない。いつも雲が厚く
覆っている。誰にでも明白な希望とか絶望ではなく、曇天の彼方に向けて静かに〈希望〉
を見つめている、そのような眼差しで空を仰いでいるのがチェーホフの人物と言える。
 チェーホフの人物にヨブの嘆きも怒りもないと言っているのではない。それがない文学
など文学という名に値するものではない。ただチェーホフの場合は、ヨブのはてしない憤
怒と悲嘆を、心の底の底へと押しやって、表面上ダンディをかこっているようなところが
ある。チェーホフの四十四年の生涯をざっと振り返ってみても、彼がいつも戦いつづけて
きた作家であることは間違いない。「どうでもいい」と口ずさむ男が、どれほどの悲しみ
と苦しみを押し殺してきたことか。滑稽小説を書き飛ばして生活の糧にしていたチェーホ
ンテ時代、医師としての勉学とその治療実践、サハリン旅行、戯曲、小説の執筆……「ど
うでもいい」のチェーホフがどれほど戦い続けていたか。そのチェーホフの不断の戦いの
日々を見逃して、ただ「どうでもいい」などと口にする単なる怠け者になってはならない
だろう。
 書いても書かなくてもいい、「どうでもいい」。確かにその通りだ。人間はわけもわか
らずこの世に誕生し、つかの間の生をいきて、そしてわけもわからず死んでいかなければ
ならない。なのにどうしてこのつかの間の生に特別の意味など見いだせるだろうか。チェ
ーホフの人物たちの多くは、自分の生を未来の或る時点から冷徹に眺める視点を備えてい
る。今、目の前に愛する女がいる。お互いに熱烈に愛し合っている。誰もそのことを疑う
者はいない。しかし、一年後は、三年後は、十年後はどうなっているか、当の本人たちも
愛が続いているということを保証できない。ましてや百年後には二人ともこの世に存在す
らしてはいないのだ。この未来時点を一億年後、一兆年後に設定すれば、なおのことチェ
ーホフの虚無が体感されるだろう。愛し合っている〈今〉に没入することができないのが
チェーホフの人物なのである。確かに『可愛い女』のオーレニカはいつも〈今〉の愛に生
きていたが、その〈今〉の絶対性をその度、相対化していたのが作者チェーホフであるこ
ともまた確かなことである。チェーホフにとって時間の中に置かれた人間存在は虚しいの
である。幸か不幸か人間は、この時間を超脱して生きることはできない。
 わたしは十四歳の時に「時間は繰り返す」と考えて、その瞬間、世界が真っ白に見えた
。この時からわたしの内で、それまでに慣習的、教育的に培われていた善悪観念は根こそ
ぎ崩れさった。時間が、同一軌道を永遠に繰り返しているのであれば、過去は未来であり
、未来は過去となる。〈今〉は単なる通り過ぎる一点ではなく、永遠の過去と永遠の未来
を内包する〈永遠〉となる。三年後、わたしはニーチェの永遠回帰の哲学を読んで、まさ
に自分と同じようなことを考えていた者がいたことを知った。ニーチェの哲学に触れる前
、わたしはベルグソンの時間論を読んでいたが、過去における必然と、未来に対する自由
という考えは「時間は繰り返す」という考えに憑かれていた者を十全的に納得させること
はできなかった。何しろ、未来もまた過去であるのだから、今、あなたは未来に関して自
由な決断をすることができる、と言われてもそれをそのまま信ずることはできない。ニー
チェは、すべてが繰り返しであり必然であるのなら、もう一度生きよう、と語った。この
詩人としての、やけっぱちの自由の至福感覚なら分からないでもない。必然と自由が一体
化した感覚などは、論理的整合性にこだわる哲学者からは一笑に付されるだろう。それは
それでいい。
 チェーホフの場合、ニーチェ風の永遠回帰的至福感覚はない。〈今〉を熱狂的に生きる
人物は極めてまれである。チェーホフにあっては、〈今〉は過ぎ去った〈過去〉を懐かし
く思い出す時であり、未来の或る時点から醒めた眼差しを注がれる時である。古き良き時
代(過去)に没入もしなければ、まだ来ぬ未来に向けてがむしゃらに突っ走ることもしな
い。要するにチェーホフの人物たちは、それが〈過去〉であれ、〈未来〉であれ、時間の
意識にとらわれた存在であると言える。時を忘却して人生そのもののドラマに熱中すると
いうことがない。どんなに生の充実を満喫しているような瞬間にあっても、〈時の意識〉
は忍び込んでくるのである。
 「どうでもいい」にはチェーホフのどうにもならない深い虚無の穴が開いている。この
虚無の穴を埋め尽くすことはできない。ドストエフスキーの人物たちは、この虚無を埋め
るべく神を、神の愛を求めた。しかしチェーホフにあっては、眼前の自然のみが横たわっ
ていた。なるようにしかならない人生、それは神が定めた運命というよりは、人知ではど
うにもならない自然の摂理として受けとめられている。「どうでもいい」は「どうであっ
てもいい」という運命の甘受であり肯定である。この肯定はニーチェのディオニュソス的
全世界肯定の高笑いとは全く質を異にしている。「どうでもいい」は静かに、口ごもるよ
うに吐かれる。それは確かに世界に対する呪言のようでもあり、復讐の響きがこもってい
るようにも聞こえるが、しかし世界を、自分の生を受け入れた者の呟きであることに間違
いはない。完璧に突き放すこともできない、完璧に引き寄せ抱きしめることもできない、
そんな中途半端な曖昧な地点で、いつも白でもなく、黒でもない、グレーの小さな旗を立
てて生きているのがチェーホフの人物たちである。
 チェーホフの戯曲の舞台に、もしドストエフスキーの烈しく熱い人物たち、たとえばラ
スコーリニコフが、イッポリートが、ムイシュキンが、ニコライ・スタヴローギンが、ピ
ョートル・ヴェルホヴェーンスキーが、イヴァン・カラマーゾフが乱入してきたらどうだ
ろうか。たちまちチェーホフの舞台は根底から崩されてしまうだろう。話し方も、動作も
まるで違う。ドストエフスキーの人物たちはヨハネ黙示録の「熱いか冷たいか、どちらか
であって欲しい」という神の欲求に十分に応えることができる。チェーホフの人物たちは
、どちらかと言えば、神の口から吐きだされてしまう「生温き者」たちである。勿論チェ
ーホフにしてみれば、神の口から吐きだされる人間もまた、それなりの喜怒哀楽をもって
生きているのだと言いたいことであろう。熱くも冷たくもない人生、その生温い人間の日
常の生活を的確に描きだすことがチェーホフの文学的使命であったとすら言えるかもしれ
ない。
 チェーホフの自然に対する姿勢、唯一神に対する無関心に近い態度などは、日本人の共
感を誘う要素となっているかもしれない。日本人の大半は、罪意識を抱いて神に救いを求
めるなどということはない。ドストエフスキーが問題にした神の存在など、生涯に一度と
して問わなくても、別に差し障りはない。男と女の関係においてもおおらかで、姦淫の罪
などといって大げさに責めたてることもない。人生に対して、なるようにしかならない、
という諦めとも悟りともつかない曖昧な気分でその日その日を生きているのが大半の日本
人と言っていい。神の存在を問うような地点で、絶対的な悪とか善を問題にするのではな
く、慣習的、世間的な次元で良し悪しを判断している。社会生活を送る上でのルールを破
れば、世間からそれなりのしっぺ返しを受けるし、一時的に疎外もされるが、決して徹底
的に排除されたり罰せられたりするわけではない。殺人、放火などの極端な犯罪を除けば
、たいていの場合は寛容に対処されると言ってもいいだろう。
 ユダヤ・キリスト教の神は〈生温き者〉をその口から吐きだしてしまうが、日本人が好
むのは〈適当〉〈いい加減〉というものである。今日、これらの言葉は決してよい意味で
使われることはないが、本来は文字通りの意味であったに違いない。火山国で至るところ
に熱湯が吹き出す日本国では、その熱湯を適度に水で薄めて〈いい湯加減〉にすることは
はるか昔から普通に行われてきたことである。〈いい加減〉ということはもちろん〈生温
い〉ということではないが、決して〈熱い〉のでも〈冷たい〉のでもないことは確かであ
る。
 日本人は大抵の場合、事を曖昧に処理してしまうが、これは天候風土も大いに関係して
いよう。夏にどんなに雨が降らないと言って大騒ぎしても、秋にはたちまち台風で各地に
大雨をもたらす。まさに、大抵の事は水に流されて幕を閉じることになる。曖昧は、白黒
はっきり付けたがる者にとっては、実に卑怯千万にも思えるが、実はこの曖昧の中にこそ
事の真実が潜んでいる。わたしはかつて別のところで〈曖昧の深淵〉という言葉を使った
が、日本人はこの曖昧な領域の内にこそ、深い人生の秘密が宿っていることを知っている
のである。
 俳句や短歌は日本人が世界に誇れる芸術である。この短い詩歌のうちに人間と自然の神
秘が一杯詰め込まれている。日本人の美学は思ったことを何から何まで、悉く表出するこ
とを野暮とみなす。洗練され、磨き上げられた表現とは、とにかく短いにこしたことはな
いという、信仰に近い確信を持っている。当然のこととして、読者は行間、字間に無限の
描かれざる世界を覗き見る鑑賞眼が要求される。トルストイやドストエフスキーに較べれ
ばずいぶんと短い小説を書いたチェーホフなどは、まさに日本人の文学的嗜好に合致した
作家であると言えるのかもしれない。小説を書くにあたっては、何から何まで悉く表現し
ようとするよりも、〈決して描かないこと〉を用意しておくことが重要である。わたしは
長い間ドストエフスキーを読みつづけて、彼の『罪と罰』も『カラマーゾフの兄弟』も俳
句のように短く感じる。ドストエフスキーが描かなかった世界は膨大である。
チ・ェ・ー・ホ・フ・の・戯・曲・『・イ・ワ・ー・ノ・フ・』・を・読・む・
 さて、前口上はこれぐらいにしていよいよチェーホフの戯曲の世界を見ていくことにし
よう。今回は『イワーノフ』をとりあげることにする。
 この作品の中にシャベーリスキイ伯爵というイワーノフの母方の叔父が登場する。この
名前は日本人にとっては実に面白く感じられる。シャベーリスキイはまさに〈喋り過ぎ〉
という言葉に通じる滑稽さがあるからだ。シャベーリスキイは「医者も弁護士も同じ穴の
むじなさ。まあ偉いと言やあ、弁護士がただふんだくるところを、医者はふんだくったう
えに殺すことだ。」などとなかなか辛辣な言葉を口にする。イワーノフの妻アンナに「ご
自分が誰よりも偉いと思ってらっしゃるの?」と皮肉な言葉を浴びせられた時には「まさ
かそうは思わん。わしも世間並の卑劣漢で、頭巾をかぶった豚、悪趣味、古靴さ。たえず
我と我が身を罵倒している。わしは誰だ、何者だとね。むかしは金持で、自由で、いささ
か幸福だったが、今は……居候で、厄介者で、個性のない道化だ。わしが憤慨する、軽蔑
する、と、世間はその返報ににやりとする。わしがにやりとする、と、世間は気の毒そう
に頭を振って、爺さんキの字になったと言う。……まあたいてい、わしの言葉にゃ耳も貸
さんし、存在さえも認めちゃくれん」と返答している。
 チェーホフの戯曲にこれといった事件が勃発するわけではないし、チャップリンの映画
のように、そこで滑稽な身振り手振りの動作があるわけでもない。従ってこのチェーホフ
の静劇において何よりも魅力となるのは人物のセリフということになる。イワーノフの遠
い親戚にあたるボールキンはため息をつきながら「われわれの生命は……人間の生命は、
しょせん野原に咲き誇る小さな花だ。やぎが来てパクリ、・・と影も形もない。」と人の
命のはかなさを嘆き、イワーノフは「たぶん僕は恐ろしい悪党なんでしょう。しかし僕の
思考はめちゃめちゃで、精神は何やら倦怠に閉ざされ、自分で自分が理解できない。みん
なのことも、自分じしんのこともわからない」と嘆いている。
 イワーノフはユダヤ女のアンナと熱烈な恋愛結婚をして、永遠の愛を誓ったが、五年た
った今、妻が病のために余命いくばくもないのを知りながら、愛も憐れみも感じることが
できず〈空虚〉と〈倦怠〉を感じて、自分で自分を悪党と罵っている。イワーノフは青年
医師のリヴォーフに向かって「君はドクトル、去年、大学を出たばかりで、まだ若くて元
気だが、僕はもう三十五です。で、君に忠告するわけだが、決してユダヤの女と結婚して
はいけない。精神病者とも、学者ぶる女ともいけない。一そ余計な雑音のない、平凡な、
灰色の、冴えない女性を選ぶに限りますよ。全体的に型通りの生活を築きあげることです
。背景は灰色であればあるほど宜しい。決してひとりで千人を向うに回してはいけない。
風車あいてに戦ったり、壁に額をぶつけてはいけない。……合理的な農村経営だの、平民
学校だの、熱烈な演説だのから遠のくことです。……自分の殻に閉じ籠って、神の与え給
うた自分の小さな仕事を果すことです。……これこそずっと実のある、正直な、健康なこ
とです。僕の味わった人生・・その辛さと言ったら! ああ、なんという辛さだ!……ど
れだけの過ちと不公平、どれだけの不合理。」と語っている。
 読者はイワーノフとアンナの五年間の結婚生活のディティールを知らない。知らされた
のは、かつて熱烈に愛したアンナをイワーノフが今や少しも愛していないということであ
る。そのことにイワーノフは苦しんではいるが、しかし苦悩よりは倦怠の気分の方が圧倒
している。こんなイワーノフにリヴォーフは烈しい憎悪を感じている。彼は単刀直入にイ
ワーノフを非難する「あなたの声にも、語調にも、言葉については言うまでもなく、はな
はだしい冷酷なエゴイズムが、はなはだしい冷やかな薄情さが、ありありと感じられます
。……身近な人が、身近なるがゆえに滅びつつある、余命いくばくもない。それなのにあ
なたは……あなたは、平気でその人を嫌って、ほつき歩いて、人に忠告をしたり、勿体ぶ
っている。……私はうまく言い表わせない、弁舌の才がないのです。しかし……しかし、
あなたは、実にいやらしい人間です!」と。
 イワーノフはリヴォーフの非難をそのまま認める「きっと僕は、非常な、非常な悪党な
んでしょう」と。リヴォーフはイワーノフの言葉に「むかついて、でんぐり返って、舌が
喉にへばりついてしまう。憎いタルチェフめ、偉そうなぺてん師め、心底からおれはあい
つが嫌いだ」と罵る。リヴォーフはイワーノフの心変わりが許せない。しかし男と女の愛
は、永遠に続かないからこそ〈永遠の愛〉を誓ってみせる儀式を執り行っているに過ぎな
い。五年前のイワーノフにそういった冷徹な認識力が備わっていなかっただけのことであ
る。一見、リヴォーフのイワーノフに対する憤りは正当性を持っているように見えるが、
もし愛が失せているのに、あたかも愛が続いているかのようにイワーノフが振る舞えば、
それはそれで許しがたい欺瞞となる。イワーノフは自分の心を欺いてまで、アンナの側に
寄り添って同情を示すことのできない男である。その意味でイワーノフはリヴォーフの言
うように冷酷であり、〈哀れな男〉ということになる。
 イワーノフは新しい恋の予感を感じながら、アンナとの関係をきっぱりと片づけること
ができないまま憂鬱症に陥っている。イワーノフは病身の妻を置き去りにして、夜になる
と郡会の議長を勤めるレーベヂェフの家を訪問する。そこには二十歳ばかりになる娘サー
シャがいる。リヴォーフはイワーノフの目当てはこのサーシャにあると睨んでいらいらを
募らせているのである。リヴォーフの忠告や非難など、大きなお世話と言えば大きなお世
話であるが、自分の考えを絶対視して他人を大上段から批判するタイプの人間はいつの時
代にも存在するらしい。
 時の流れのうちに、人の心も変わる。どんなに愛していた相手も時の流れのうちで色あ
せていく。誰の罪でもない。誰を非難することもできない。男と女の間に、倫理や道徳を
持ち込んでもどうにもならない。恋愛という熱情は一過性であるからこそ烈しく燃え上が
る。燃えつづける恋愛感情などというものは存在しない。イワーノフの心変わりを誰も攻
めることはできない。責められるとすれば妻のアンナに対する同情の欠如であるが、これ
もまた五年間の二人の生活を知らされていない読者が軽々しくコメントすべきことではな
かろう。
 シャベーリスキイはイワーノフが毎晩遊びに出るのに自分が留守部隊になるのを〈不人
情〉と言って嘆いている。彼は「退屈で退屈で」たまらないのだ。退屈を味わうことので
きる人生の達人がいればそれはそれは結構なことだ。しかし退屈を感じる人間は、何とか
して退屈から脱しようとて、時に悪魔の誘惑にも乗ったりする。何しろ悪魔は退屈な人間
の心の隙間に忍び込んでくるものなのだ。シャベーリスキイはイワーノフに一緒に連れて
いってくれと懇願し、アンナは家にいてくれと哀願する。
 イワーノフは癇癪を起こして叫ぶ「アーニャ、いい子だ、お願いだから毎晩そとへ出る
のを邪魔しないでくれ。僕のやり方はそりゃ残酷だ、不公平だ、しかし僕の不公平に目を
つぶってくれ! 家じゃ僕は息がつまるんだ! 日が暮れると、とたんに憂鬱が僕の心に
のしかかってくる。すさまじい憂鬱なんだ! どうしてかは、きかないでくれ。我ながら
わからない。誓ってわからないんだ! ここにいても憂鬱、レーベヂェフの家じゃもっと
ひどい。帰ってくる、するとまたもやここで憂鬱。ひと晩じゅうこうなんだ。……全く絶
望だ……」と。
 人はなぜ憂鬱になるのか。自分の思う通りにならない時に、発散されない感情が沈殿し
、憂鬱になる。イワーノフの場合、彼の感情はすでにアンナからサーシャへと向けられて
いる。しかしサーシャへと発散したがっている感情は、様々な障害物によって押さえ込ま
れている。最大の障害物は、かつては熱烈に愛していたアンナである。アンナのイワーノ
フに対する愛は依然として続いている。アンナが望むのは五年前と変わらぬイワーノフと
の生活である。がイワーノフは愛も変わらぬ愛を抱いているアンナが束縛となって、きわ
めてうざったい存在と化している。恋愛感情のなくなった女に、烈しく求められることほ
どうざったいことはない。イワーノフは自分の感情に素直であり、自分の心を欺いてまで
アンナに同情することができない。確かにイワーノフは自分の心に誠実なだけの冷酷な男
である。
 アンナに「どうしてあなたはお変りになったのかしら?」と問われて、イワーノフは「
わからない、わからないんだ……」と口ごもる。『退屈な話』のニコライ・ステパーノヴ
ィチが、彼を追ってハリコフのホテルにまでやってきた養女カーチャに対するセリフとま
ったく同じである。「わからない」という言葉は相手の愛を受け止められない言葉であり
、この言葉は自分の心にだけ誠実な男の言葉である。こういった男は自分の心に誠実であ
りさえすれば、何でも正当化されると思っているエゴイストである。アンナが「じゃどう
してあなたは、毎晩あたしを一緒に連れて行って下さらないの?」と聞いたとき、イワー
ノフは「どうしても知りたいなら言おう。少し残酷だが、言ったほうがいい。……憂鬱が
僕を苦しめると、僕は……お前が嫌いになるんだ。そういう時、僕はお前から逃げだす。
つまり、家を出るのが必要になるんだ」と答える。イワーノフは未だ自分の心を的確につ
かんでいるとは言えない。否、未だアンナに対する遠慮があり、決定的な言葉を吐いては
いない。イワーノフは憂鬱に苦しめられてアンナを嫌いになるのではなく、アンナ以外の
女を好きになってしまったにもかかわらず、依然としてアンナの愛の呪縛から解放されな
いから憂鬱になっているのである。イワーノフの憂鬱それ自体がアンナに対する拒絶の信
号である。
 もしアンナが敏感な女でイワーノフの心の内を察することができるのであれば、自分が
決定的に嫌われていることを自覚し、イワーノフを自由の身にしてやることもできたろう
。しかし、アンナはイワーノフを解放するどころかますます呪縛する。アンナは、自ら身
を引くことでイワーノフの憂鬱病を救ってやろうなどとは考えない。アンナはすでに失わ
れてしまっている〈熱烈な恋愛〉の船から降りることができないし、イワーノフに救命ボ
ートを用意してやることもできない。〈永遠の愛〉を誓って船出したにもかかわらず、こ
の船は結婚四年目にして暗礁に乗り上げてしまったのである。普通なら、二人してそのこ
とをしっかりと認識し、新しい生活へ向けて各々べつの道へと踏みだして行くべきであっ
たのだ。しかし、アンナはその座礁に気づかず、あるいは気づかない振りをし、イワーノ
フはさっさと破船を後にして行くべきだったのを、アンナが彼に繋いだ鎖を引きちぎる力
に欠けていた。イワーノフにできることと言えば、鎖の長さをレーベヂェフ家を訪問する
長さに伸ばしたまでのことで、結局アンナとの関係を断ち切るまでにはいたらなかった。
リヴォーフはイワーノフに苛立っているが、実はイワーノフ自身が自分のことで最も苛立
っていると言えよう。
 イワーノフは可愛い女オーレニカのように相手を次々に変えて、そのつど〈永遠の愛〉
を本気で誓えるほどのおバカさんでも破廉恥漢でもない。アンナとの〈永遠の愛〉の〈破
綻〉を、次の女サーシャにも当てはめるぐらいの認識力は持っている。だからこそイワー
ノフはサーシャとの新たな恋に突っ走る勇気を持つことができずに悶々として憂鬱になっ
ているのである。煮え切らない男、過去とも決別できず、未来へと踏みだすこともできな
い、中途半端な男がイワーノフである。このイワーノフの中途半端にリヴォーフがいらつ
く、その根源的な理由は、実は彼自身もまた〈中途半端〉を一歩も脱していないからなの
だが、幸いなことに彼はそのことを自覚する認識力に欠けているので、いつも自分を正当
の立場において立派なことを言い続けることが可能となっている。
 アンナはイワーノフの心の内を察することができない。イワーノフに「僕はお前が嫌い
になる」とまできっぱり言われているのに、アンナは「憂鬱? わかるわ、わかるわ……
コーリャ、わかって? 一そ、前のように、歌を歌ったり、笑ったり、怒ったりするよう
になさったらどうかしら……このまま家にいて、笑ったり、果実酒を飲んだりして、あな
たの憂鬱をいっぺんに追い払いましょうよ。なんなら、あたしが歌いますわ。それとも以
前のように明りを消して書斎に坐って、あなたの憂鬱のお話を聞かせて下さる?……あな
たは本当に苦しそうな眼をしているわ! あたし、あなたの眼を見て泣きますわ。そうす
ればふたりとも気が軽くなるわ……」などと言っている。恋愛の場合はいつでも先に熱の
醒めたほうが冷酷で、愛を持続する者は地獄を味わう。恋愛における熱狂はいずれは冷め
るものと相場が決まっているが、二人が同時に冷めきらないところに悲劇が生ずる。イワ
ーノフはアンナに優しく言葉をかけられること自体にうざったさを感じてしまっており、
二人の関係を修復することはとうてい不可能である。イワーノフに恋愛感情を超える同情
心はない。恋愛が同情にとって代わったら、それはそれで不幸なことである。アンナは自
分で口にしている通り、「春ごとに花は開けど、喜びは帰らじ。」ということを実はよく
分かっている。分かっていながら、イワーノフとの関係にピリオドを打つことができない
ところに切なさがあり、いらだちが生ずるのである。
 アンナはリヴォーフとの会話の中で「なぜみんな愛には愛をもって答えないのでしょう
? なぜ真実の代償に嘘を支払うのでしょう?」と問い、イワーノフが毎日夜になると憂
鬱に押しつぶされ、彼女を嫌いになるのだということを話す。リヴォーフは「どうしてあ
なたのように聡明で正直な、清らかな方が、これほど露骨にご自分を欺いて、こんなふく
ろうの巣へ引きずり込まれて平気なのです? なんのためにあなたはここにいらっしゃる
のです? どんな共通点があなたとあの冷酷で薄情な……いや、ご主人のことはよしまし
ょう! どんな共通点があなたと、この空虚で俗悪な周囲との間にあるのです?」と問い
ただす。リヴォーフは余命いくばくもない妻を置いて毎夜外出してしまうイワーノフのそ
の冷酷な振る舞いがどうしても許せない。
 男と女の関係を傍から見れば、イワーノフとアンナのそれに限らず、なかなか理解しが
たいものがある。一つはセックスの問題がある。まさか余命いくばくもないアンナを抱く
ようなことは憚られたであろう。イワーノフはまだ三十五歳、アンナと不仲になったのが
一年前ということであるから、ここ一年間、イワーノフはアンナと性的関係を持っていな
かった可能性が高い。このこととイワーノフの憂鬱がまったく無関係とは言えないだろう
。リヴォーフがアンナとイワーノフの関係にいくらいらだち、腹をたてても、結局二人の
微妙な関係の中に分け入っていくことはできない。リヴォーフがイワーノフを〈実にいや
らしい人間〉〈憎いタルチュフ〉〈哀れな男〉と罵っても、何らアンナの気持ちを変える
ことはできない。アンナはイワーノフが「すばらしい人」であることを確信している。心
変わりしてしまった夫を今でも愛しているのである。イワーノフを非難するリヴォーフに
向かってアンナは次のような言葉を口にしている。
 あなたが二三年前のあの人をご存知ないのが残念だわ。今でこそ、ふさぎ込んで、だま
って、手をこまねいているけれど、以前には……ふるいつきたくなるようでしたわ! あ
たしはひと目惚れ。(笑う)ちらッと見ただけで、コロリ! 「行こう」と、あの人は言
った。……あたしは、はさみで朽葉を切り落すように、何もかも断ち切って、一緒に行き
ました。……(間)それが今は……今ではあの人は、他の女と楽しむためにレーベヂェフ
の家へ出かけて行く。そしてあたしは……庭に坐って、ふくろうの鳴くのを聞いている…

 惚れた女の弱みが全面に出ているセリフである。先にイワーノフはリヴォーフにアンナ
について次のように語っていた「すばらしい、異常な女性です。……僕のために、信仰を
変え、両親を捨て、富を思い切った。もし僕がこのうえ百の犠牲を要求したら、まばたき
一つせずに犠牲を捧げたことでしょう」と。イワーノフによればアンナとの関係は「長い
話で、おまけに複雑」ということで、読者は要するに二人の出会いと五年間の結婚生活の
ディティールを知ることはできない。はっきりしているのは、イワーノフのアンナに対す
る恋愛感情がすっかり失せてしまったということだけである。空虚、倦怠、憂鬱……イワ
ーノフは今、実存の危機に直面していると言っていい。永遠の愛の破綻も、間近に迫った
アンナの死も、イワーノフの空虚と倦怠に衝撃を与えることはできない。
 イワーノフのためならいかなる犠牲も惜しまない〈異常な女性〉、だからこそイワーノ
フはアンナに魅力を感じなくなってしまったのかもしれない。余命いくばくもない、自分
を限りなく愛し続けている妻に対して「愛も憐れみも感じない」というのであるから、イ
ワーノフのアンナに対する拒絶感情は相当なものである。人間というものはかなりわがま
まに出来ている。愛されれば愛されるほど、しかもその愛が確固たるものであればあるほ
ど、うるさくわずらわしく感じるものである。イワーノフはアンナの持続的な献身的な愛
をうざったく感じている。アンナはそのことが分かっていても、イワーノフに対して距離
をとったり、わざと冷たい態度をとったりすることができない。アンナはいつも精一杯の
愛を注ぎ続け、飽きることがない。その結果、イワーノフが出掛けた後、ひとりふくろう
の鳴き声を聞くような羽目に陥ってしまう。もし、アンナが耐えることのできる女性、忍
ぶことのできる女であれば、イワーノフの心をつなぎ止めることもできたかもしれない。
アンナは決断する女であり、今を烈しく生きる女であり、妥協したり、身を引いたりする
ことのできない女である。
 イワーノフはアンナ流の烈しい〈今〉に我が身を重ねつづけることができなかった。ア
ンナの激流の〈今〉をイワーノフは共に生きることができなかった。イワーノフは烈しい
、自己犠牲を厭わない〈異常な女性〉の〈今〉から、ずり落ちてしまった自分を認識して
いる。もはや二人は別々の時間を生きざるをえない。アンナは自分の〈今〉にふさわしい
男を、新たに見いださなければならない。一度、〈今〉の船から落下してしまった男を激
流の中から拾い上げようとするいっさいの努力は徒労に終わるしかない。しかし、悲劇的
なことには、アンナ自身が〈今〉という時船から一人で〈死〉へと落下しなければならな
い。アンナの運命に、今や同情も哀れも感じないイワーノフが、妻の〈死〉を共にする可
能性は百パーセントない。アンナはアンナの生を生き、イワーノフはイワーノフの生を生
きるほかはない。人間は孤独であり、〈永遠の愛〉を誓った者でさえこの孤独から免れる
ことはできない。
 イワーノフが外出した後、アンナは暫しむせび泣く。が、次の瞬間、アンナはリヴォー
フに向かって「もうだめ、ドクトル、あたし、あそこへ行く……」と言う。〈あそこ〉と
は〈あの人のいるところ〉である。このセリフが絶望的に響くのは、すでに読者はイワー
ノフの心の内を決定的に知っていることにある。〈あの人のいる〉所である〈あそこ〉に
は、確かにイワーノフがいるだろう。しかしそのイワーノフはアンナを愛している男では
ない。つまりアンナにとって〈あの人のいるところ〉はどこにもないのである。アンナが
どんなに求めても、もはや〈あの人〉、彼女を熱烈に愛してくれた五年前のイワーノフは
どこにも存在しないのである。
 いったいアンナは〈どこ〉へ行こうというのだろう。これはまるで、マルメラードフの
語るあてのない借金の話と同じである。絶対に金を貸さないことが分かっていながら、ど
うして借金しに出掛けるのか。ラスコーリニコフに問われたマルメラードフの答えは「人
間はどこかに行かなきゃならん、そういう場合があるもんですよ」であった。アンナもま
た、すべてを知っていながら、しかし〈あの人のいるところ〉へと出掛けていかなければ
ならなかったのである。
 若い医師リヴォーフには、マルメラードフの「あてのない借金」の話を理解する度量も
、深い憐憫の情もない。リヴォーフの言葉は「いや、こういう事情の下では、おれは断じ
て治療をことわるぞ! 一コペイカの払いもないばかりか、ひとの魂をでんぐり返らせや
がる。……いや、断るぞ! うんざりだ!」である。まさに〈うんざり〉なのだ。アンナ
とイワーノフの関係に介入することはできない。男と女のドラマ、その破綻が確実な関係
に〈医学〉は完璧に無力なのである。否、医学も正義も無力なのである。アンナはイワー
ノフを追わずにはおれない。そのことでますますイワーノフが彼女を嫌うことがわかって
いても追わずにはおれないのである。こうなったら行くところまで行くしかない。破綻を
自分の身で感じ、絶望の淵へと身投げするのでなければ、アンナは納得できない。
 レーベヂェフは言う「近頃の青年は、悪く取らんでほしいが、何だねありゃ、不景気な
、茹で過ぎたふぬけばかりだ」「今の連中は……(片手を振る)さっぱりわからん。……
毒にも薬にもならん連中ばかりだ」と。いつの時代でも、若者をつかまえては嘆いて見せ
る老人はいる。チェーホフの時代から百年たった今日の日本でも、同じようなセリフを吐
く大人は五万といる。アンナはイワーノフを追ってこのレーベヂェフの家へと馬車を走ら
せるわけだが、レーベヂェフはイワーノフを、この郡全体でたったひとりの〈しっかり者
〉だが女房もちの〈気が変になった〉男ととらえ、未亡人のババーキナは〈立派な方〉だ
が〈不仕合せ〉な男としてとらえている。
 レーベヂェフの妻ジナイーダは夫と未亡人の言葉を受けて次のように言う「そりゃあな
た、不幸になるはずさ! (溜息をつく)可哀そうに、どえらい失敗をしたんだよ!……
ユダヤ女と結婚をして、両親から黄金の山をもらえると当てにしたところが、まんまと当
てはずれ……あの女が信仰を変えて以来、両親は親子の縁を切って呪ったんだよ。……で
一コペイカも貰えなかった。後悔さきに立たずさ」と。娘のサーシャは「それは嘘よ」と
イワーノフを弁護するが、今度は未亡人ババーキナが、熱くなって言う「何が嘘なもんで
すか? みんなが知ってることですよ。そろばんずくでなかったら、なんのためにユダヤ
女と結婚なんかするでしょう! ロシアの女が足りないの?」と。ババーキナは金持ちの
商家の娘で未亡人である。先にこの女はカルタ勝負の最中に「ああ退屈だ、死にそうだよ
!」と呟いていた。退屈で退屈で死にそうな女連中が集まって熱くなれることと言えば他
人の不幸、それも身近な女の不幸である。ババーキナは若い未亡人であるから、結婚して
幸せな女を見て喜びを感じるはずもない。亭主に嫌われたユダヤ女のアンナは恰好の餌食
であり慰みものなのである。
 ババーキナはますます活気づいてしゃべる「あの女も今じゃさんざんさ。まるでお笑い
草だよ。亭主がどっか外出先から帰ってくる、とすぐにあの女の所へ行って、「お前の親
父とお袋はおれをだました! さあとっとと出て行け!」とどなるそうだよ。でもね、ど
こへ行くんだろうね? 親は引取ってくれない、女中奉公しようにも働き方をしらない。
……であの人は、いじめ放題いじめて、見かねて伯爵が仲へ入るって話。伯爵がいなかっ
たら、とっくの昔にいびり殺されたところさ」と。すぐに老婆のアヴドーチャが受けて「
それからまだ、穴倉へ閉じ込めて、・・「こん畜生、にんにくでも食え!」と言うそうだ
よ。……食うわ食うわ、げんなりするまで食うんだとさ」と続ける。一同大笑いの後、ジ
ナイーダがさらに続ける「というわけで、あの通り尾羽うち枯らしたのさ。ほんとにあな
た、火の車だってさ。……ボールキンが面倒みなかったら、あの人もヤダヤ女も路頭に迷
うところさ。(溜息をつく)あたしたちも、あなた、あの人のお陰で苦労しますよ! 神
さまだけしかご存知ないけれど! 実はね、あなた、もう三年越しうちで九千ルーブリ貸
しているのさ!」と。
 この場面は破廉恥、醜聞、かまびすしいおしゃべり……ドストエフスキーの舞台を彷彿
とさせるものとなっている。他人の不幸や悲劇ほど甘いものはない。噂話や陰口でその場
を盛り上げることにかけてババーキナやジナイーダは存分に女の本領を発揮している。サ
ーシャだけがこの俗悪な中傷に「よく同じ話ばっかりできるわね、何ひとつあなた方に悪
いこともしていない人のことを! 一体あの人が何をしたというの?」とうぶな反抗を示
すが、その場にたちこめた俗悪な空気を押し流すことはできない。客の一人はすかさず「
私はニコライ・アレクセーエヴィチを尊敬もし、いつも名誉に思っておりますが、ここだ
けの話、彼は山師と思える節がある」と口をだす。この男によれば、イワーノフは一昨年
、牛疫が流行ったとき、家畜を買い込んで保険金をかけ、それからペストをうつして保険
金を詐取したというのである。ただしこれは、イワーノフの随員、否案内人たるボールキ
ンから聞いた話である。サーシャは「あの話は、ボールキンが自分でああいう計画を考え
だして、吹聴して回ったのです。イワーノフさんが、それを知った時、ボールキンは二週
間もお許しが貰えなかった。イワーノフさんが悪いのは、気が弱くて、あのボールキンを
追い出す勇気がないことだけ、あんまり人を信用しすぎるからだめなの!」と懸命にイワ
ーノフを弁護する。「何のためにみんな馬鹿なことを言うんだろう? ああ、うんざりだ
、うんざりだわ! イワーノフ、イワーノフ、イワーノフで、・・他に話題がないみたい
」確かにサーシャはうんざりしている。が、うんざりしているのはサーシャだけではない
。このレーベヂェフ家に集まったすべての人々が退屈で退屈でうんざりしているのである

 サーシャは言う「空気まで、憂鬱でどんよりしている」まさに、彼らは退屈し、うんざ
りしながら、イワーノフをネタにお喋りをしているに過ぎない。サーシャは叫ぶ「さあ、
皆さん、お願いです! 踊るのも笑うのも歌うのもおいやなら、どれも退屈だと仰しゃる
なら、お願いですから、せめて一生に一度、突飛なことでもいい、みんなをあっと言わせ
て笑わせて頂戴! 力を合わせて、みんな一ぺんに何か気のきいた、素晴らしいことを考
え出して頂戴、失礼なことでも下品なことでも構わない、面白くて新しければいいの、何
か話して頂戴!」……と。
 「面白くて新しければいい」話をサーシャは求めている。サーシャ以外の人物はイワー
ノフをネタにして退屈まぎれのおしゃべりにうつつを抜かしているが、サーシャはイワー
ノフを相手に面白くて新しい人生の冒険を求めている。今のところサーシャにも読者にも
、サーシャの真の思いは露呈していないが、いずれにしても退屈、空虚、憂鬱はイワーノ
フ一人の病理的現象ではなかったらしい。この村全体にうっとうしい灰色の雲が覆ってお
り、人々は意識するしないにかかわらず退屈、空虚、憂鬱の病に冒されている。暇つぶし
は金の話とカルタ賭博とゴシップである。イワーノフがゴシップのかっこうの的になって
しまうのは、彼が村人全員の凝縮された鏡像となっていたからに他ならない。
 レーベヂェフも妻のジナイーダも、シャベーリスキイ伯爵も、リヴォーフも、ババーキ
ナも、ボールキンも、要するにこの戯曲に登場するすべての人物は、自らの内懐に空虚を
抱きしめ、退屈し、うんざりし、たわいのないおしゃべりに時を浪費している。希望に満
ちた出口は見つからず、どうしてこんなどんよりとした曇天の下へと迷い込んで来たのか
、もはやその入口さえ深い霧に閉ざされている。彼らの置かれている状況は決定的な破綻
でも絶望でもないが、たった一条の光も射し込んではいない。引き返すことも、新たな道
へと突き進んでいくこともできない。怠惰な空気が蔓延し、この空気を呼吸しているうち
に、自分が病にかかていることさえ自覚できなくなっていくのである。
 アンナは過去の輝く瞳を持った〈イワーノフ〉の幻影を追って、今現在のイワーノフと
直に向き合うことができない。イワーノフは今現在の自分自身をある意味誰よりも的確に
認識しているが、その認識は空虚と憂鬱に落ちた自分の姿を鮮明に浮き彫りにするだけの
ことで、そこからの脱出口を見いだすことはできない。
 イワーノフの憂鬱は、人間存在の根源に根ざしているので、リヴォーフのような人生経
験のない、深い哲学的思考もない若い医師の処方は何の役にもたたない。〈永遠の愛〉を
誓ったその〈愛〉が破綻したのだ。イワーノフにいかなる未来が開かれているだろうか。
イワーノフは、サーシャとの新たな愛に自分のすべてをかけられるほど能天気な男とも思
えない。言い尽くされたことだが、結婚は生活であるが、恋愛は一過性の熱病で狂気であ
る。現にイワーノフはそのことをすでに証明してしまっている。
 読者は、イワーノフがいつ、どこでダヤ人のアンナと出会い、どのように恋愛感情を募
らせていったのか、イワーノフは純粋にアンナだけに心を奪われ、アンナの両親の財産に
など目もくれなかったのか……その辺のイワーノフの内的事情はどうもはっきりしない。
イワーノフはリヴォーフに「僕は一そはじめから全部お話したいけれど、長い話で、おま
けに複雑だから、朝まで話しても話し切れないでしょう」と言っていた。読者は〈長い話
〉と〈複雑〉を想像力の限りをつくして読み取らなければならない。
 チェーホフの人物はたいていの場合、空虚と倦怠を感じている。彼らはすでに信ずべき
絶対の真理も愛も善も信じてはいない。なぜイワーノフは憂鬱なのか。五年前、彼はアン
ナと〈永遠の愛〉を誓い、新生活に入った。彼にとってアンナの両親の財産などいったい
なんであったろうか。彼にとって献身的に尽くしてくれるアンナがいればよかった。が、
男と女の恋、恋愛感情は要するにかりそめの恋であり、一過性の熱情に過ぎない。永遠に
思えた愛が、無残に崩れさっていく。その崩壊現象をくい止めることはできない。
 イワーノフが出掛けた後、アンナはひとり梟の鳴き声でも聞いて時を過ごすしかない。
まさに梟は、人間に時を告げる、時の無情を告げる鳥なのである。〈永遠の愛〉を、〈誓
い〉を梟の鳴き声はあざ笑っているのではない。ただ、時の無常を自然に、天然に告げて
いるだけなのである。時は流れ、熱情のマグマすらいつの間にか呑み込んでしまう。時は
人生そのものさえ呑み込んで平然としている。
 アンナは愛するイワーノフに置き去りにされ、一人梟の鳴き声に耐えることはできない
。しかしイワーノフはアンナと二人して、なお梟の鳴き声に耐えることはできないだろう
。イワーノフは自分が誓った〈永遠の愛〉から逃亡をはかっている。絶対に逃げきれない
逃亡、が、しかし逃亡し続けなければならない。イワーノフに出口はなく、新たな希望に
かける情熱も愛もない。彼の存在を覆っている暗雲は、決して太陽の光によって消失する
ことはない。イワーノフは叫ぶことも、泣くこともできない。なぜなら、彼は過去を捨て
て新しい未来に自分を投企することができないからである。
 イワーノフは彼をゴシップの掃き溜めの中から果敢に救い出そうとするサーシャの愛に
全身全霊で応えることができない。そのつど、そのつど〈今〉に自分の存在を捧げられた
のは『可愛い女』のオーレニカだけである。まさか、それなりにインテリのイワーノフが
オーレニカのように、過去と未来から切断された〈今〉をアホのように没頭して生きるこ
とはできない。この戯曲に登場する人物はイワーノフをはじめとしてたいていの者が、ブ
ランコのように往ったり来たりの〈時間〉の椅子に坐って、繰り返すだけの飽き飽きする
日常を生きている。彼らの人生は、頑丈な柵の囲いの中で、一生を終える家畜のそれと似
ている。少しましなのは、彼らは生の途中で屠殺されないだけでのことである。
 第二幕四場でシャベーリスキイとイワーノフが登場。まずはシャベーリスキイのセリフ
に注目しよう。
  こんなところで演説をぶっているのは誰だい? シューロチカ、あなたですか? (
からからと笑って握手する)いや誕生日おめでとう、わしの天使、どうかなるたけ遅く死
んで、二度と生まれて来ないように。……
 先にも触れたがシャベーリスキイという名前は日本人にとってはまことに面白い、彼の
〈喋り過ぎー〉〈喋り好きー〉の性格と実にマッチした名前である。こういった男は緊迫
した場面の直中や直後にとつぜん現れて、緊張したその場の空気を和らげ、とんがりかえ
った人間の心理を穏やかなものにする効果を持っている。緊張を弛緩の場に変え、人間心
理のこわばりを一瞬のうちにほぐし、笑いの次元へと高める、こういった男は劇の時空で
道化の役割を担っている。
 サーシャ(愛称シューロチカ)は自分が密かに恋しているイワーノフがみんなから馬鹿
にされ嘲笑されるのに我慢がならず、大きな声を出して彼を弁護する。言わばサーシャは
ヒステリー気味になって興奮しているわけだが、まさにその瞬間に道化役のシャベーリス
キイが登場して来たというわけである。サーシャのヒステリー気味の大声は〈演説〉に置
き換えられ、その皮肉はカラカラ笑いと握手と愛称シューロチカという呼びかけによって
和らげられる。三場の緊張はシャベーリスキイの登場によってたちまち弛緩し、闘争は和
解へと変換する。
 レーベヂェフとその妻ジナイーダ(呼び名ジュージュシカ)はシャベーリスキイを歓迎
する。シャベーリスキイはジナイーダとババーキナに気づいて、手を差し出しながら「や
あ、一つの椅子に銀行が二軒! 嬉しい眺めだ!」と言葉を発する。この〈銀行〉という
言葉は二人の婦人が金貸しをしていることに対する皮肉ともとれるが、しかし傷をえぐる
ような辛辣さを免れているのは、両者の間に深い絆が結ばれていたからであろう。ジナイ
ーダに対する「ご機嫌よう、ジュージュシカ!」、ババーキナに対する「ご機嫌よう、丸
ぽちゃさん!」という呼びかけは、両者が気の置けない関係にあったことを示している。
シャベーリスキイの皮肉もからかいもすべては両者の親密な関係性を浮き彫りにするばか
りである。その証拠にジナイーダは「まあ嬉しい。伯爵、ほんとにお珍しいこと!」と言
って、すぐガヴリーラにお茶を持ってくるように指示している。「丸ぽちゃさん」と呼ば
れたババーキナのセリフはないが、そのことで彼女が腹をたてているわけもない。シャベ
ーリスキイの発した「一つの椅子に銀行が二軒!」は、相手を拒絶する皮肉ではなく、彼
女たちを丸ごと許容するセリフなのである。
 レーベヂェフはシャベーリスキイを〈珍客〉と呼んで歓待している。ということはシャ
ベーリスキイのレーベヂェフ宅訪問はずいぶん久しぶりのことであったということになる
。レーベヂェフの言うようにシャベーリスキイが〈竹馬の友〉であり、〈親友〉であり、
〈誰よりも親身な男〉であるなら、確かに馬車ぐらい貸したであろう。ところがレーベヂ
ェフは手を振って「滅相もない!」と言っている。レーベヂェフは妻のジナイーダにまっ
たく頭のあがらない腑抜けの亭主に成り下がっている。時代はたった二人生き残ったレー
ベヂェフやシャベーリスキイの牧歌的な時代ではなくなったのだ。『罪と罰』では亭主に
先立たれた貧しいアリョーナ・イヴァーノヴナが高利貸しとなってペテルブルクの大都会
を女一人逞しく生き延びていくが、ここではそんなユダヤ人の真似事などしなくても十分
に財産のあるジナイーダが、未亡人のババーキナが、巨万の金をさらに積み上げるためだ
けのために金貸しとなっている。シャベーリスキイはそんな女たち二人を〈銀行〉と言っ
てからかっているわけだが、それにしても夫レーベヂェフの無力は情けなさを越えている

 レーベヂェフは一家の中で権力を握った女帝ジナイーダにぶら下がった醜悪で役立たず
のコブのような存在に化している。こういったコブは自分の役割をよく自覚し、女主人の
意思を過大に尊重して、傍の者の失笑を買うことなど屁とも思わず、のらりくらりと非難
の矛先を巧みに避けて安楽椅子に座り続ける。
 第二幕第二場の場面で明白なのは、ジナイーダとババーキナが百万とは言わないまでも
、金をそうとうため込んでいるということ、つまり彼女たちにとって一番価値を持ってい
るのは金であり、そのほかのもの、愛とか美とか真実とか学問とかは、たとえその価値を
認められても金以上のものとはならないということである。シャベーリスキイはそのこと
を認めた上で皮肉をシャレを飛ばしている。シャベーリスキイの言葉は、相手の隠された
恥部を露呈させ、告発し糾弾するといった辛辣な響きを持っていない。
 舞台はドストエフスキーのそれと違って、終始なごやかに展開する。すくなくともチェ
ーホフの人物たちは、秩序を根底から突き崩すような烈しい言葉を発することはない。人
間の欺瞞のヴェールをそっとはぎ取ることはあっても、そのことで当の相手を崖の下へと
突き落とすようなことはしない。相手に欺瞞があるとすれば、その欺瞞は自分の内にもあ
るといった人間認識がチェーホフにはある。つまり相手を徹底して責めるというようなこ
とはない。相手を容赦なく責めたてることで相互に不利益を被るようなバカな真似はしな
いというわけである。要するに、チェーホフの人物は自己保身の術に長けている。良く言
えば人間関係において洗練されているということである。
 ドストエフスキーの人物は中途半端な地点にとどまる、その欺瞞に耐えることはできな
い。キリーロフは神が存在するのであればすべては神の意志、もし神が存在しないのであ
れば、すべては自分の意志一つにかかっているとして人神論を唱える。神はない、しかし
神はなければならないというジレンマのただ中でイヴァン・カラマーゾフは発狂する。ド
ストエフスキーの人物たちは生ぬるい地点にとどまることを認められないのである。
 ところがチェーホフにあっては、人物たちの大半がグレーゾーンの曖昧な霧の中に自分
の姿を溶け込ませている。シャベーリスキイですら、ドストエフスキーが舞台に送りだし
た道化たちに較べれば、〈喋り過ぎー〉でも〈喋り好きー〉でもなく、むしろ寡黙な存在
と言っていい。彼は自らの〈喋り過ぎ〉によって相手の立場を窮地に追い詰めることもな
いし、自らを破滅の淵へと追い込むこともない。彼はあくまでもぎすぎすした人間関係の
潤滑油的役割を持って舞台に登場してくる。が、彼は徹底した解剖家、辛辣な外科医では
ないにしても、熟練した読み手であれば、彼の眼差しがとらえた光景を鮮明に見ることが
できよう。多くの説明、解釈はいらない。それはドストエフスキーにまかせておけばいい
ということだ。
 チェーホフにはチェーホフ流の人間把握と解剖の方法があり、彼は存分に腕前を発揮し
ている。シャベーリスキイはババーキナが金よりも、自分を愛してくれる男の登場を密か
に願っていることを見逃しはしない。未亡人のババーキナが男のいない生活に耐えられな
いことを彼は知っている。が、ババーキナは男と同程度に金も愛している。金はうまく運
用してさえいれば裏切ることはない。カルタ賭博と退屈なおしゃべりの日常に満足できる
わけもないが、しかしとうのたった未亡人を女として本気で相手にしてくれる、前途有望
、誠実な青年が存在しないのも確かなことだ。そこでシャベーリスキイの粋な言葉が必要
とされることになる。
 天使のような女でもお世辞には勝てないと言ったのはスヴィドリガイロフであった。「
丸ぽちゃ君」「美人になって肥ってくるぞ!」「かわいいわしの銀行さん」……これらす
べての言葉をババーキナに向けられた「魂の叫びですぞ」と断言するあたり、シャベーリ
スキイという男、女心の機微を知り尽くした道化者と言えよう。「歓喜だ!」「陶酔だ!
」どんな大袈裟な賛美も女の心を傷つけるようなことはない。女は決して的確な批評など
求めはしない。求めるのは、ただひたすら賛美の言葉である。なかには、愛する男の冷た
い仕打ちや暴力をすすんで求める女もいるが、それは異常な性愛的な欲求であり、一般的
傾向としては賛美こそが女の心を酔わせるのである。
 シャベーリスキイの登場によって場はいっぺんに明るく陽気なものと化すが、しかし、
この陽気な場にイワーノフの妻アンナの〈結核〉という不気味な診断が入り込んでくる。
〈結核〉という医者の断定を口にするのはイワーノフである。イワーノフは〈憂鬱〉の代
名詞のような男として登場、シャベーリスキイは〈陽気〉の看板を背負った道化として登
場している。道化とはぎくしゃくした関係を補正し、確執を和解と融和へ、怒りと憎悪を
笑いと許しへと変換する装置を備えた者の謂である。達者な道化にかかれば、病も死もた
ちまち、癒しと復活へと昇華される。おしなべてこの戯曲においてアンナの〈結核〉は深
刻な様相を見せていない。余命いくばくもないと告げられていながら、アンナの生はイワ
ーノフの憂鬱な生を遙に凌いで活性化しているように映る。アンナは両親との絆を断ち切
ってまでイワーノフとの愛に身を投じた女であり、彼女にイワーノフに対する迷いは微塵
もない。この迷いのなさが、アンナの置かれている絶望的な状況に一条の光が射し続けて
いるように思えるのであろうか。
 イワーノフは「たぶん僕は恐ろしい悪党なんでしょう」と言っている。この〈たぶん〉
が曲者である。イワーノフは自分の気持ちに誠実で、そのことでいくら他人が、愛する妻
が傷つこうが、それを配慮して心にもない言葉を発することはない。イワーノフは妻のア
ンナを〈すばらしい〉と認めるが、しかし同時に、〈異常な女性〉とも見ている。余命い
くばくもない妻に愛も哀れみも感じないイワーノフが〈恐ろしい悪党〉には違いないが、
しかしそれは彼自身が素直に認めた自分自身に対する判定ではない。それはあくまでも他
者の眼差しに映った見解であり、イワーノフはその見解にしぶしぶ従ってみせただけであ
る。イワーノフは自分の空虚、倦怠、憂鬱に、何よりも価値を置いているかのように言葉
を発している。彼にとってすでに愛は、空虚と倦怠に立ち向かう力を備えてはいないので
ある。
 アンナに対するリヴォーフ医師の〈結核〉という診断はシャベーリスキイによってすぐ
に「でたらめ! でたらめ!」のふた言で否定され、リヴォーフの診断は「知ったかぶり
、手品さ」と一笑に付されてしまう。シャベーリスキイはご婦人方を前にして「わしは生
涯、医者と弁護士とご婦人を信用せんよ」と断言してはばからない。歯に衣きせぬシャベ
ーリスキイの言葉は、アンナの悲劇を悲劇として成立させない。〈結核〉は知ったかぶり
の手品師のペテンの一つに化してしまい、アンナはたちまちのうちに〈悲劇の妻〉として
の座を奪われてしまう。シャベーリスキイの道化の次元では、アンナの〈結核〉も、イワ
ーノフの〈憂鬱〉も、深刻の相貌を装うことができない。道化は〈絶対〉を〈相対化〉す
る達人であるから、〈結核〉も〈憂鬱〉もそれが本来持っている悲劇的な絶対性を即座に
相対化されてしまうことになる。いったん相対化された悲劇が、悲劇本来の悲劇生を発揮
することは極めて困難なこととなる。〈憂鬱〉が多弁で茶化され、〈結核〉が気取った手
品師の誤診と見なされた後では、読者がイワーノフやアンナの悲劇性を大真面目に受け止
めることはきわめて困難である。
 シャベーリスキイはレーベヂェフに言わせれば〈驚いた変人〉で〈思わせぶり〉の男と
いうことになる。先にシャベーリスキイはリヴォーフ医師を〈医者先生一流の知ったかぶ
り〉と蔑んだばかり、今度は竹馬の友レーベヂェフに彼自身が〈思わせぶり〉と言われて
いる。シャベーリスキイはリヴォーフを「ぶらり遊んで暮らすために結核を持ち出した」
と言っていたが、彼もまた「ぶらり遊んで暮らすため」に、鍛えに鍛えた口八兆手八兆と
いうことであったろう。彼は何もすき好んで人間嫌いを気取っているのではない。レーベ
ヂェフの所へ行く馬車も雇えない貧しき伯爵の身であればこそ人間嫌いを気取っている他
はなく、機会があって社交の場に踊り出ればたちまち「舌にカタルを起したみたい」に喋
ることもできるのである。持ち上げた瞬間に引きずり落とす、これが道化の常套である。
褒めてはくさし、くさしては褒める、あちらと思えばこちら、こちらと思えばあちらとい
うのが道化の真骨頂、シャベーリスキイの言葉を借りれば、詐欺師や悪党をさんざ罵倒し
た直後に彼らに熱い接吻をして見せるのが道化ということである。道化は本来、対話的な
存在であるが、その対話によってまさか唯一絶対の〈真理〉が湧き出てくるなどとは微塵
も信じてはいない。永遠に遊び戯れるために〈絶対〉を相対化し、〈相対〉を再び渾身の
力技で〈絶対〉へと化粧直しして見せることのできる希代の詐欺師が道化というものであ
る。この道化が愛と赦しを体現すれば、それはまさに二十世紀の笑いの喜劇王、地上の世
界に降臨したキリスト・チャップリンということになる。
 レーベヂェフは「わしはじっと坐って、一瞬一瞬、死を待っている。これがわしの人生
観だ」と言う。妻のジナイーダに尻を敷かれっぱなしに見えるレーベヂェフの人生観は、
まさにある種の諦観に基づいている。人間はわけもわからず生まれ、わけも分からず死ん
でいかなければならない。どのような喜怒哀楽も、結局は死によって幕を下ろさざるを得
ない。百万の富を築いても、永遠の愛を誓っても、結局は死を免れることはできない。わ
めいても、叫んでも、懇願しても、すべては徒労に帰す。この世はかりそめの宿というわ
けである。レーベヂェフは、この世の束の間の喜怒哀楽を否定しているわけでも肯定して
いるわけでもない。したり顔で世の儚さを嘆いているのでも、自分の人生観を大袈裟に披
露しているのでもない。彼はドストエフスキーの人物と較べれば十分に成長し熟している

 熱くも冷たくもなく、生ぬるいままに熟した人物、それを例えば日本では〈大人〉と言
う。〈大人〉は相手の内部にむやみに立ち入って災いを受けるような真似はしないし、相
手に対して或る一定の距離を保って、双方の関係のバランスを崩すような接近の仕方はし
ない。まさに〈大人〉とはドストエフスキーが造りだした人物や、その熱く狂おしい関係
性からかけ離れた人間を言う。レーベヂェフもそういった一人で、手慣れた社交術を身に
つけた〈大人〉ということになる。
 ハイデッガーは自らの死を予め引き受けた人間の生きてある姿を、先駆的覚悟性を引き
受けた本来的現存在の様態として把握した。「じっと坐って、一瞬一瞬、死を待っている
」レーベヂェフの姿は、ハイデッガーの言う本来的現存在の様態を示しているとも言えよ
う。はたしてレーベヂェフはどのような精神の次元で自らの死を覚悟していたのであろう
か。いずれにしてもレーベヂェフはチェーホフの死生観を投影された人物の一人であるこ
とに間違いはない。レーベヂェフのような〈人生観〉を提示されれば、「君には人生観が
なくて仕合せだ」と腹いせまぎれに揶揄したシャベーリスキイはグーの根も出ない。レー
ベヂェフはもうすでに竹馬の友シャベーリスキイと「一緒に人生観を考える時じゃない」
ことをわきまえている。要するに、彼らには自らの人生を語りあう、その未来の人生がも
はや残されていないということである。
 レーベヂェフに特徴的なのは、シャベーリスキイと一緒に語り合う〈過去〉もなかった
ということである。わずかしかない〈未来〉を残すばかりになった老人は、はるかに多く
堆積された〈過去〉の思い出に耽る傾向がある。にもかかわらず「じっと坐って、一瞬一
瞬、死を待っている」というレーベヂェフの眼差しは、決して〈過去〉へとは向けられて
いない。彼の現存在の時性の特徴は、〈死〉という将に来るべき〈将来〉へと向けられて
いるが、かといってそのことで〈現在〉の生の充実を図るという意欲は見られない。じっ
と坐って、一瞬一瞬、将に来るべき〈自らの死〉をじっと坐って待っているというレーベ
ヂェフの〈人生観〉は、悟りを得た老僧のそれともみまごうばかりである。が、そんなレ
ーベヂェフといえども、四六時中「じっと坐って」いるわけにもいかない。竹馬の友が久
しぶりに訪問してくれば、たわいもないお喋りに時を費やさなければならないというわけ
である。
 レーベヂェフは死の到来を覚悟して今現在を充実して生きるというのではなく、むしろ
死を待つ姿勢において死を回避しているかのようにも見える。結局、人間は死ななければ
ならない。その運命を見据え、覚悟し、今現在の一瞬一瞬を熱く生きようなどという姿勢
をレーベヂェフに見ることはできない。レーベヂェフはいわば成り行き任せに生きている
。妻のジナイーダが金貸しに夢中になって、古き良き友をないがしろにするようになって
も、別にそのことを咎めだてするわけでもないし、積極的に自らの運命を新たに切り開こ
うとする意欲があるわけでもない。すべては時の流れのままに、熱くも冷たくもなく生き
ている。
 第二幕第二場の後半は、医師リヴォーフをめぐって様々な意見が交わされる。ここでリ
ヴォーフの味方になる者は一人もいない。イワーノフはリヴォーフの〈非常な誠実さ〉に
好感が持てると言ってはいるものの、同時に〈げんなり〉していることも事実である。シ
ャベーリスキイもサーシャもリヴォーフを全く評価していない。サーシャはリヴォーフの
〈異常な正直さ〉にうんざりし、シャベーリスキイは〈狭量な、一本気なやぶ医者〉と見
なしている。
 この場面を読んでわたしが想起したのはドストエフスキーの『虐げられた人々』の、イ
ワンに対するワルコフスキー公爵の言葉である。一つだけ引用しておこう。公爵は次のよ
うに語る「あなたは理想とか、徳行とかをもとにして論じていらっしゃる。しかしですね
え、あなた、そういう私もあなたのおっしゃることならなんでも認める用意はあるんです
が、しかしあらゆる人間的な徳行の根底にはこの上なく深刻なエゴイズムが横たわってい
ることを間違いなく承知しているとしたら、どうにもしかたがないじゃありませんか。し
かも徳行が大きければ大きいほど・・底に横たわるエゴイズムも大きくなるわけですから
ね。なんじ自身を愛せ・・これが私の認める唯一の規矩です」。
 誠実、正直、悪に対する純粋な怒りや嘆きが、徹底して揶揄嘲笑の的となる。若い正義
感の強いリヴォーフが憂鬱症に陥っているイワーノフや、ホワイトハンドの伯爵や、他人
の亭主(イワーノフ)に横恋慕しているサーシャによって情容赦もなく辛辣に愚弄嘲笑さ
れている。一方、〈永遠の愛〉を誓いながら、四年ばかりで心変わりし、今や、何もかも
捨てて彼についてきたアンナに愛も哀れみも感じることのないイワーノフが、この場面で
は誰からも非難されることはない。
 リヴォーフがアンナの病状に心を傷め、クリミアへの転地をすすめても、イワーノフや
シャベーリスキイは何の手だても考えない。リヴォーフはイワーノフに対して「ずばりと
、単刀直入に申しますと、あなたの声にも、語調にも、言葉については言うまでもなく、
はなはだしい冷酷なエゴイズムが、はなはだしい冷やかな薄情さが、ありありとかんじら
れます」と言っていた。イワーノフはこのリヴォーフの言葉を自ら認めている。リヴォー
フの言う〈実にいやらしい人間〉、イワーノフ自身の言う〈非常な、非常な悪党〉の言葉
をどのように受け止めたらいいのだろうか。リヴォーフはイワーノフに対する自分の思い
を歯に衣着せず、まさに単刀直入にぶつけている。イワーノフはリヴォーフの言葉を受け
入れながら、余裕をもって軽くいなしている風が見える。この〈いなし〉がリヴォーフの
自尊心を傷つけ、イワーノフに対する憎悪を募らせることになる。
 リヴォーフを思わせぶりの退屈な男として揶揄し嘲弄する者ばかりが登場し、彼を誠実
な人間として認める者が一人もいないのは不公平なような気もする。リヴォーフはアンナ
の側にたって発言し、心を傷め、イワーノフに腹を立てている。ふつうだったらリヴォー
フの発言に正当性があるはずなのに、この場面においては妻を裏切ったイワーノフの側に
、まるで正義が存在するかのような展開となっている。この戯曲を演出する者は、演技者
のキャスティング、および演技の指導・演出によってリヴォーフをとんまな、正義感をふ
りまわすだけの青臭いヤブ医者にすることもできれば、誠実で真摯な、不公正や悪や裏き
りに対して身を呈して戦う好青年にすることもできよう。演出家がイワーノフを文字通り
の〈実にいやらしい人間〉〈非常な悪党〉を全面に出せば、リヴォーフはその分、好感の
もてる青年医師になるだろう。反対にイワーノフを実に魅力的な、人生を余りにも深く思
考するが故に憂鬱に陥ってしまった青年として演出すれば、リヴォーフは浅薄な、自己主
張の勝った愚かな青年医師としての印象を強くしてしまうだろう。どのような役者が、ど
のような演出のもとに演じるかによって、観客のリヴォーフ、イワーノフに対するイメー
ジはそうとうの開きが生ずることになろう。
 シャベーリスキイはリヴォーフの〈主義〉や〈汎人類的な理想〉など全く信じていない
。ワルコフスキーが古き良き時代の牧歌的な理想の崩壊の後に、虚無的な生を、情欲だけ
が頼りの退屈な生を浪費していたように、シャベーリスキイもまたリヴォーフの〈理想〉
など木っ端みじんに崩れさった荒野の生を息づいている。シャベーリスキイのこの空虚な
草原に、はたしてイワーノフの〈空虚〉〈退屈〉〈憂鬱〉もまた含まれているのかどうか
、その点は微妙ではあるが、イワーノフがリヴォーフ的な正義や理想などにかかずらわっ
ていないことだけは確かである。
 この場面にあってリヴォーフの正義の実体がまともに検証されることはない。シャベー
リスキイもイワーノフも、そんなことの必要性を全く感じていない。リヴォーフの〈主義
〉や〈理想〉は、レーベヂェフによって〈若い連中〉の〈ひと癖〉として片づけられてし
まう。レーベヂェフに言わせれば、リヴォーフも歳をとればしぜんに、そんな〈ひと癖〉
は矯正されてしまうだろうと言っているのである。リヴォーフの〈主義〉や〈理想〉は彼
の若さの一つの証でしかないし、イワーノフの〈憂鬱〉は彼が〈大人〉になって行くため
の一つの通過点のようなものでしかないと言わんばかりである。
 レーベヂェフはかつて若い頃、ヘーゲリアンの伯父に〈決闘〉を申し込んだことがある
と口にする。なるほどレーベヂェフもまた、血気盛んな青年時代があったということであ
る。が、この〈決闘〉話は、ボールキンの登場によって消えてしまう。今さらレーベヂェ
フにその話の続きを敢えて聞こうとする者もいない。この戯曲全編に、イワーノフがアン
ナに誓った〈永遠の愛〉がわずか四年で破綻してしまったように、レーベヂェフの血気盛
んも、そしてリヴォーフの〈主義〉も〈理想〉もやがて時の流れのなかで変質し、雲散霧
消してしまうのだという、冷徹な眼差しが注がれている。ならば、イワーノフの〈憂鬱〉
もまた一過性のものでしかないということになろう。〈憂鬱〉の泥沼にいつまでも止まっ
ている必要などないし、もしイワーノフがその〈憂鬱〉に何らかの価値を見出していたと
すれば、そんな滑稽なこともない。イワーノフの〈憂鬱〉がすべての人間の頭上を覆う、
決して太陽の光が射し込むことのない厚い雨雲となることはない。アンナがイワーノフの
〈憂鬱〉の雲の下にある限り、イワーノフの心を取り戻すことはできないだろう。アンナ
は〈憂鬱〉の雲の上に君臨する太陽とならなければならない。アンナが夫に対して、一女
性として、永遠の愛を誓った一人の妻として相対する限り、イワーノフの〈憂鬱〉の雲を
払いのけることはできないだろう。
 次にミハイル・ミハイロヴィチ・ボールキン登場の場面を検証することにしよう。ボー
ルキンは「伊達な身なり。小さな包みを両手に、跳びはね鼻歌をうたいながら、右手のド
アより登場」する。舞台には歓迎のどよめきがおこる。
イワーノフの伯父シャベーリスキイが一種の道化として登場していたことは先に述べた
。しかしここではボールキンがさらなる道化的存在として登場してくる。二人の道化を必
要とするくらい、レーベヂェフの居間は退屈の空気に覆われていたのであろうか。ボール
キンはサーシャに手製のベンガル花火を差し出しながら「あなたがあやめも分たぬ闇の王
国を照らしておいでのように、この花火が暗い夜を照らしますように!」と言う。ここで
ボールキンのいう〈闇の王国〉とは何を意味するのだろうか。吝嗇家のジナイーダが支配
するレーベヂェフ家を指しているのか、それとも憂鬱症に陥ったイワーノフの内部世界を
指しているのであろうか、はたまたチェーホフが生きていたロシア全土を指していたので
あろうか。たとえば、サーシャは『罪と罰』のソーニャのような存在になりえたであろう
か。ラスコーリニコフは全人類の苦悩を体現したソーニャの前にひれ伏す。はたしてサー
シャは、イワーノフの憂鬱の厚い雲を払いのける力を備えていたであろうか。
 ラスコーリニコフには思想的な苦悩があり、神を前にした不信や懐疑や、信仰を求める
気持ちがあった。言わばラスコーリニコフにおいては、苦悩は具象的な姿を保っていた。
ところがイワーノフにあっては、彼の憂鬱の原因がよく分からない。灰色一色で塗りつぶ
されたキャンバスがイワーノフの内部世界である。その雨雲には一条の光が射し込む隙間
がなく、それを吹き飛ばす烈しい風の予兆もない。いつまでもどこまでもどんよりとした
曇り空が広がっているのがイワーノフの内部世界の光景である。これでは決定的な絶望が
訪れることもなければ、真の希望の光が射し込むこともない。サーシャは、イワーノフの
ような男の内部世界を照らしだす光となりえるのであろうか。
 ラスコーリニコフには一つの大きな課題、つまり「おれにアレができるだろうか」とい
う〈アレ〉があった。〈アレ〉とはテキスト表層の次元においては〈高利貸し老婆アリョ
ーナ殺し〉であるが、深層のレベルにおいては〈皇帝殺し〉となる。また究極のレベルに
おいては〈復活〉ということになる。つまりラスコーリニコフには「おれに復活ができる
のだろうか」という課題があり、その課題を果たすための第一段階として高利貸しアリョ
ーナ殺しという〈踏み越え〉を実行しなければならなかったし、その後でのソーニャとの
出会いを必要としていた。
 ソーニャはキリスト的な愛によってラスコーリニコフを〈復活〉への入口へと立たせる
ことができた。ところがイワーノフの場合は、彼自身がなぜ空虚であり退屈であり憂鬱な
のかをよく知らない。リヴォーフに言わせれば、イワーノフは妻のアンナに飽きて、サー
シャとの新たな恋に駆けだしたいだけ、ということになろう。いずれにしても、イワーノ
フにとっては妻のアンナも、レーベヂェフの令嬢サーシャも、ラスコーリニコフにおける
ソーニャのような存在足りえなかったことだけは明白である。イワーノフの眼差しはドス
トエフスキーの人物たちのように〈神〉の方へとは向けられていないのである。神が存在
しようがしまいが、そんなことはイワーノフにとって「どうでもいい」(フショー・ラヴ
ノー)のである。
 人間は時の中の存在である。青春を謳歌する者もやがて齢を重ね、しまいには死の淵へ
と押し流されていく。誰もこの流れを押し止めることはできない。レーベヂェフもシャベ
ーリスキイも、とうの昔に青春の幕を下ろし、今はただじっと坐って、一瞬一瞬、死を待
つ存在と化してしまった。退屈まぎれにどんなにお喋りしようが、道化てみようが、人生
を虚しく感じることを避けることはできない。この人生の空虚を乗り切るためには、まさ
にこの人生の綱渡りの途上において立ち止まってはならないのである。
 シャベーリスキイに〈座もち屋〉と呼ばれた軽薄な道化ボールキンこそが、虚しい人生
を巧みに泳ぎきる術を身につけた達人と言えるかもしれない。ボールキンは自らの虚無を
覗き込むようなヤボな真似はしない。イワーノフの憂鬱の河を軽やかに渡っていくのがボ
ールキンである。レーベヂェフは何度もイワーノフに向かって「どうして君はあのユダを
追い出さんのだ?」と訊いている。まさかイワーノフをキリストに擬してのセリフでもな
かろうが、イワーノフにとってボールキンのようなユダを身近に置くことは一種の慰めと
もなっていたのである。ただしボールキンといえども、イワーノフの憂鬱を解消させる力
を備えてはいない。ボールキンはこの戯曲で、レーベヂェフ家に集まった令嬢たちの退屈
に少しばかりの刺激を与える役割をはたすにとどまっている。
 第二幕第二場の終わりに、ボールキン一同が庭へ出た後のレーベヂェフ夫妻のさり気な
いやりとりであるが、ここには二人の性格と関係性が端的に表出されている。金は溜まれ
ば溜まるほど汚くなるというが、まさにジナイーダはそれを地で行っている。金の集まる
ところには、その金をあてにする者が集まってくる。金が人間関係の中心に置かれ、哲学
、文学、芸術といった人間の精神上の諸問題は脇に置かれるか、まったく俎上にのぼらな
い。ジナイーダは別に性悪女ではないが、とにかくケチであることに間違いはない。倹約
、節約は美徳であり、なにも敢えて責められる性格のものではないが、しかし、人間には
常識が備わっていなければならない。レーベヂェフを頼って家に集まってくる客人に食事
を出すのをしぶる必要はないし、それが厭なら客人を家の中に一歩も踏み込ませないよう
にしたらいいのである。レーベヂェフの「お客さんに何か出さなきゃ悪いよ」というのが
常識であるとすれば、ジナイーダのケチぶりはやはり非常識だということになる。
 しかしチェーホフの作品にあっては、ドストエフスキーなどとは違って、ジナイーダの
〈ケチ〉ぶりも非常識の次元にとどまって異常なところへまでは突き進んでいかない。そ
れは亭主レーベヂェフのだらしなさ、その〈下男〉ぶりを浮き彫りにするだけである。世
の中にこういった夫婦は五万とあろう。妻のやり方に不満を抱いているが、妻の方は亭主
の言葉などまったく耳に入っていないのである。
 こういった、どこにでもいそうなごくありふれた夫婦の日常の一こまの後に、第六場で
はイワーノフとサーシャの対話が繰り広げられることになる。
 サーシャ (イワーノフと一緒に右手のドアから登場)みんな庭へ出てしまったわ。

 イワーノフ (略)以前は僕、ずいぶん働いていろいろ考えたけれど、決して疲れなか
った。ところが今は、何もしないし何ひとつ考えもしないのに、心身ともにへとへと。昼
も夜も良心がきりきり痛んで、自分がひどく悪いという気がするのに、何が悪いかわから
ない。加うるに、妻の病気、貧乏、たえざるいがみ合い、悪口、余計な話、間抜けなボー
ルキン……自分で自分の家がたまらない。うちの生活は僕にとって拷問より悪い。打明け
て言うと、シューロチカ、僕は妻に愛されながら妻と一緒にいるのさえ我慢ができないん
だ。あなたは僕の昔からの友だちだから、僕の告白に腹を立てはしないでしょう。僕は気
晴しにお宅へ来たのに、ここでも退屈して、また家へ帰りたくなった。勘弁して下さい、
僕これからそっと帰ります。
 サーシャ ニコライ・アレクセーヴィチ、あなたのお気持はわかのますわ。あなたが不
幸なのは、孤独だからですわ。あなたのおそばには、あなたがお好きで、同時にあなたを
理解する人が入り用なの。ただ一つ愛だけが、あなたを立ち直らせることができるのです

 イワーノフ 飛んでもない、シューロチカ! 今さら僕みたいな老いぼれの、びしょ濡
れのおんどりに新たなロマンスが始められるでしょうか! そんな不幸から、神より僕を
守り給え! いや、シューロチカ、問題はロマンスじゃない。神かけて僕は言う、何もか
も、憂鬱も、精神病も、破産も、僕の死も、自分の時ならぬ老成も、孤独も、僕は辛抱す
る。ただ何としても辛抱できないのは、我慢できないのは、自分を自分であざ笑う気持な
のです。僕は僕のように健康で強い男が、ハムレットともマンフレッドとも余計者とも…
…何とも恰好のつかない男になってしまったのを考えると、恥かしさに一そ死んでしまい
たいのです! 世間には、ハムレットとか余計者とか呼ばれて嬉しがる情ない連中がいる
けれど、僕にとってそれは恥辱です! それは僕の誇りを憤慨させる。恥かしさが僕をお
しつぶす。僕は苦しい……
 サーシャ (涙を浮かべながら冗談めかして)ニコライ・アレクセーエヴィチ、アメリ
カへ逃げましようよ。
 イワーノフ 僕はここの門先へ来るのさえ億劫なのに、あなたはアメリカへなんて……
 イワーノフの憂鬱を救える者はいない。イワーノフ自身が自分の憂鬱の原因を知らない
。また分かろうともしていないようだ。とにかく事実としてイワーノフは、妻に愛されな
がら妻と一緒にいることさえ我慢ができず、夜な夜なレーベヂェフ宅を訪れては気を紛ら
わしている。しかしイワーノフの退屈は場所を代えて紛れるものではない。サーシャはイ
ワーノフの一番の理解者の如く振る舞っているが、イワーノフはサーシャの恋心を素直に
受け入れることはできない。イワーノフの憂鬱は、シェークスピアのハムレット、余計者
のオブローモフ、そしてどうやらドストエフスキーのスヴィドリガイロフをも踏まえたも
のらしい。サーシャの「アメリカへにげましょうよ」の言葉が、スヴィドリガイロフの「
わたしはね、ソフィヤ・セミョーノヴナ、ことによると、アメリカへ行ってしまうかもし
れないんです」を意識していたことは十分に考えられる。またイワーノフの「僕はここで
あなたが誰と結婚するのか恐ろしくなる。せめて誰か旅の中尉か学生があなたを盗んで行
けばいい」というセリフはプーシキンの『駅長』を踏まえていたと見ることもできよう。
要するにこの『イワーノフ』という戯曲は、先行する著名な文学作品を踏まえて書かれて
いるということで、観客の知識、教養が試されているとも言えよう。
 イワーノフとサーシャのいる場所へジナイーダが登場。サーシャが庭へと去った後、イ
ワーノフはジナイーダに「明後日が僕の手形の期限です。で、もし期限を延長して下さる
か、利息を元金に繰り入れて下さると、僕としては非常にありがたいのです。いま手もと
に全然お金がないのです」と懇願する。しかしケチなジナイーダは「めっそうもない!
何というお話でしょう? いいえ、後生ですからそんなことを考えて、不幸なあたしを苦
しめないで頂戴……」とにべもなく拒む。イワーノフは「すみません」と言って庭へと去
る。
 二人のやりとりを冷静に見れば、イワーノフの憂鬱の原因の一つに「いま手もとに全然
お金がない」という切迫した経済状態が潜んでいたことになる。イワーノフがどれくらい
の資産家であったのか、読者はその情報を与えられていない。彼がユダヤ人の女アンナと
結婚するにあたって、本当に彼女の両親の財産を当てにしていなかったのかどうかも分か
らない。分かっているのは、イワーノフがジナイーダの領地の支配人として雇っている嘘
つきボールキンにだまされて信用と財産をなくしてしまったということぐらいである。と
いうことは、イワーノフは領地の管理能力に恵まれていなかったことを示している。ユダ
ヤ女と結婚し、財産まで失って憂鬱症に陥ってしまったイワーノフは、やはりみんなから
バカにされ、陰口を叩かれても仕方がなかったということになろう。もしサーシャの恋心
を受け入れたとしても、それは彼女の両親の財産目当の結婚と揶揄されることだろう。
 それにしてもジナイーダのケチぶりは突出している。貧しい者のケチぶりは、どこかし
ら微笑ましく、ペーソスが漂っているが、大金持ちの悋嗇はいまいましく腹だたしいもの
である。第二幕第九場は老婆アヴドーチャと客一がジナイーダのケチぶりに怒りをぶちま
けている。二人の会話によってサーシャの母親ジナイーダの悋嗇ぶりは徹底してこき下ろ
される。ジナイーダの娘時代がどうであったかは知るよしもないが、今は純粋な恋を夢見
る乙女サーシャも、時が立てば母親と同じような存在にならないとも限らない。
 第十場はアンナとリヴォーフの登場となる。アンナは夫のイワーノフを追ってレーベヂ
ェフ宅へとやって来た。家で黙って梟の鳴き声を聞いているその侘しさに耐えきれなくな
ったからだ。しかしアンナは一人でやって来る勇気がなかった。そこでリヴォーフと一緒
にやって来た。アンナがもし、自分の来訪によって皆が喜んでくれると本気で思っていた
のなら、彼女はおめでたい人間の一人ということになるだろう。この無邪気さが、この一
途さが、イワーノフに嫌気をおこさせたのかもしれない。いずれにしても、レーベヂェフ
宅においてイワーノフは噂の的であり、リヴォーフの言う〈とんび〉どもの恰好の退屈紛
れとなっている。
 アンナはイワーノフの憂鬱、退屈、破産といった内的外的状態をいったいどこまで理解
していただろうか。イワーノフは「我慢できないのは、自分を自分であざ笑う気持なので
す」とサーシャに語っていた。こういった微妙な内的問題を告白されるのは妻のアンナで
はなく、レーベヂェフとジナイーダの令嬢サーシャであったことに注意しなければならな
い。もはや妻アンナはイワーノフに置き去りにされた存在、つまり厄介なお荷物になって
いる。イワーノフにはこのお荷物と共に生きようとする気持はない。それに妻は肺病にか
かっており、余命いくばくもないのである。先にサーシャはイワーノフに向かって「アメ
リカへ逃げましょうよ」と提案していた。アメリカは新天地であり、二人における新生活
が展開されたかもしれない。しかしそれはまさに〈逃げる〉ことである。果してイワーノ
フに、もはや愛していないとはいえ、余命いくばくもない妻を置き去りにすることができ
るだろうか。そういった卑劣にイワーノフは耐えられるだろうか、と問い直しても同じこ
とである。イワーノフはリヴォーフによれば〈実にいやらしい人間〉であり、彼自身の言
葉によれば〈非常な悪党〉ということであるから、妻を残してサーシャとアメリカへ駆け
落ちしたところで別に驚くことではないだろう。では、なぜイワーノフはサーシャの申し
出を断ったのか。それは彼の言葉で言えば〈億劫〉ということにつきる。イワーノフはす
でに生きているのさえ〈億劫〉なのであるが、死ぬのはさらに〈億劫〉なのである。
 リヴォーフは自分を正直で誠実な人間と見なし、アンナのことも自分と同類の人間と見
なしている。リヴォーフにとってはアンナがイワーノフと結婚していることが不思議でた
まらない。あんな薄情ないやらしい人間とどうして一緒にいられるのか。ところがアンナ
のイワーノフに対する愛と確信は微動だにしない。リヴォーフはこのアンナの微動だにし
ないイワーノフに対する思いにもイライラを募らせている。リヴォーフにとって自分やア
ンナの存在は〈とんび〉どもとは異なっている。退屈まぎれにトランプ賭博をしたり、無
駄口をたたいて暇つぶししているような人種とは違って、正直な人間には自分のはたすべ
き人類に貢献するような立派な使命があると言わんばかりの口吻である。が、残念なこと
にリヴォーフの主張は、この戯曲に登場するすべての人物によって揶揄され、排斥されて
しまう。リヴォーフが医師としての立場をも越えて、ある種の感情を寄せているアンナも
またその例外ではない。
 アンナはリヴォーフに向かって言う「お聞きなさい、正直屋さん! 婦人のお伴をしな
がら、道みちご自分の正直さばかりを吹聴なさるのは聞苦しいわ! たぶそれも正直なこ
とでしょうが、少なくとも退屈ですわ。婦人あいてに決してご自分の美徳を口に出しては
いけません。自然に相手にわからせるのです。うちのニコライは、ちょうどあなたぐらい
の時、女の人と一緒にいると、歌を歌ったり冗談を言うだけでしたわ。それでも女のほう
では、あの人がどんな男性かちゃんと知っていましたもの」と。アンナのリヴォーフに対
する批判とイワーノフに対する実に肯定的な見解を聞いていると、確かにアンナは賢明な
女性ではあるが、しかし同時に愚かな女性にも見える。アンナは〈自分の美徳〉を口に出
して言わず、〈自然に相手にわからせる〉男、すなわち自分の夫イワーノフのような男こ
そが女にとって魅力的なのだと話す。アンナは夫がリヴォーフに向かって放った言葉、ア
ンナが余命いくばくもないと告げられてさえ「それでも僕は愛も哀れみも感じないで、何
かこう空虚さ、倦怠を感じるだけです」と言った言葉を知らなかったのであろうか。
 イワーノフはシャベーリスキイには「決してユダヤ女と結婚してはいけない」と忠告し
ている。おそらくイワーノフは妻アンナに、こんな露骨な言葉を面と向かって言い放った
ことはなかったであろう。アンナは、こんな言葉を他人に発しているイワーノフを、それ
にもかかわらず〈すばらしい人間〉と見なすのであろうか。もしそうならアンナこそは〈
すばらしい〉女性であるのかもしれない。しかし、それは人間として見た場合であって、
妻として、女としてではない。イワーノフの言葉は彼女に対する侮蔑である。こんな屈辱
的な言葉を自分の知らないところで発せられているにもかかわらず、依然としてイワーノ
フに対する愛が持続しているのというのは、やはり滑稽であり、哀れを誘うものでしかな
い。アンナがイワーノフのことを褒めれば褒めるほどリヴォーフの苛立ちは募る。それは
余りにも当然のことである。
 アンナとリヴォーフの会話場面を観た観客はいったいどのような判断を下すのであろう
か。イワーノフの憂鬱や倦怠や破産などにもかかわらず、彼に共感を寄せる観客がどれく
らいいるのだろうか。もし、この舞台にイワーノフを愛するサーシャやアンナが存在しな
ければ、イワーノフはまさに薄情、冷酷な厭らしい人間ということになったのではなかろ
うか。夫に裏切られたアンナ役を魅惑的な美しい女優が演じた場合は、なおさらイワーノ
フの印象は悪くなるだろう。それはリヴォーフの場合も言えよう。リヴォーフを、イワー
ノフをはるかに越えた美男の俳優が演じた場合、女性の観客の大半はリヴォーフの側につ
くのではなかろうか。逆にイワーノフをすばらしい俳優が演じれば、彼の心変わりや憂鬱
や倦怠や破産にもかかわらず、彼の魅力は失われずにすんでしまうかもしれない。この辺
は演出家が、人物をどのように解釈し、どのような俳優をキャスティグするかにかかって
いるとも言えよう。
 この戯曲においては、二人の魅力的な女性、アンナとサーシャがイワーノフを愛し、バ
カ正直者のリヴォーフに退屈を感じている以上、リヴォーフが魅力のある人物として印象
付けられることはきわめて困難と言えようか。チェーホフの〈時代〉にあっては、リヴォ
ーフのような公平と正義感に満ちた自信満々の人物は過去の遺物であり、憂鬱症に陥って
恥入っているようなイワーノフが時代を象徴していると言わんばかりである。
 第十一場で人目を忍んで酒を見つけ出して飲もうとしているアヴドーチャと客一が登場
、ジナイーダを罵りながら退場。第十二場でババーキナ、ボールキン、シャベーリスキイ
が登場する。道化が二人も登場したとなれば、この場は始めから喜劇的な様相をたっぷり
と浴びることになる。ババーキナは〈退屈〉を連発し、からだをほぐさなければと言って
跳びはねる。すかさずボールキンはババーキナの腰を抱いて頬に接吻、シャベーリスキイ
はカラカラと笑って指をならし、しまいには鵞鳥の啼声までたてる。放してよわめくババ
ーキナ、かまわず「わが魂の天使、わが心のルビー!」とお世辞をあびせながら接吻し「
二千三百ルーブリ貸して下さい」と懇願する。ジナイーダに劣らずケチなババーキナはボ
ールキンに抱かれたまま「だ、だめ!……他のことならまだしも、お金のことばかりは・
・はばかりさま……だめです、だめです、だめです!」と断固拒絶する。シャベーリスキ
イは二人のまわりをちょこまか歩きながら、ババーキナを〈丸ぽちゃくん〉と呼びながら
「いいところがあるね」と皮肉とも褒め言葉ともつかないセリフを発する。
 イワーノフの憂鬱に負けない明るい場面である。憂鬱の後に憂鬱、さらに憂鬱と続いた
のでは観客も息苦しくなってしまう。芝居にはテンポが必要、暗と明をくっきりと、めり
はりよく展開していかなければならない。この場面では、ケチだが結婚願望を捨てきって
いない〈丸ぽちゃ君〉と二人の道化に大いに活躍してもらわなければならないということ
である。
 ババーキナやボールキン、シャベーリスキイはこの芝居の脇役とは言え、重要な役割を
果たしている。イワーノフの憂鬱、そのブラックの部分を際立たせるためには、ボールキ
ンとシャベーリスキイの二人の道化が必要だったし、アンナやサーシャといった若い女性
の夢や希望の儚さを浮き彫りにするにはババーキナの存在が必要とされるのである。ババ
ーキナは男に対する夢を捨てきってはいないが、彼女が何よりも信頼を置いているのは金
である。金にしか信用を置いていないのがジナイーダであるが、ババーキナは金の側に寄
り添いながらも、ときたま男にふらつくところもあるといった〈丸ぽちゃ君〉なのである
。ボールキンもシャベーリスキイも、この〈丸ぽちゃ君〉の深層心理に通じているからこ
そ、そのふざけ方もユーモアのあるものとなる。〈丸ぽちゃ君〉ババーキナの深層心理を
くすぐりながらふざけているので、腰を抱いて接吻しても、借金を申し込んでも、笑劇的
な心地よい笑いを誘うことができる。まさにボールキンは一級の座もち屋としてババーキ
ナの心をくすぐっている。金だけが頼りの、その強張った精神をほぐしながら、ふざけて
いるのがボールキンというわけである。三人は笑いながら退場するが、まさにこの場面は
観客の大いなる笑いを誘ったことだろう。ここで丸ぽちゃ君は一挙にヒロインとなる。な
にしろババーキナが密かに夢見ていたかもしれない〈伯爵夫人〉という称号が得られるか
もしれないのだ。ボールキンがどこまで本気でシャベーリスキイとババーキナを一緒にし
ようとしているのか今のところはっきりしないが、しかしシャベーリスキイがこの話にふ
ざけて乗っていることは明らかである。このおふざけに、意外にも本気で乗ってしまった
のが丸ぽちゃ君で、この丸ぽちゃ君が倒れそうと言って右手のドアに退場する場面は、こ
のおふざけに乗ってしまおうという観客の腹をよじらせたこと間違いない。
 ボールキンは予め〈商談〉と断っている。シャベーリスキイには金がいる。ババーキナ
には男がいる。二人が結婚すれば万事は円満におさまるというわけである。ここでボール
キンは二人の間の〈愛〉についていっさい触れていない。〈愛〉や〈恋〉はイワーノフと
サーシャやアンナにまかせておけばいい。否、〈愛〉や〈恋〉はすでに幕を下ろしてしま
っているのだ。永遠の愛を誓ってアンナと結婚したはいいが、その〈永遠の愛〉は四年し
かもたなかった。〈永遠の愛〉などより確かなものは金であり、爵位であり、従って〈商
談〉ということになる。〈愛〉も〈恋〉も〈商談〉として成立させてしまうところが、ボ
ールキンの道化の凄いところである。その〈商談〉にまんざらでもない風を見せて、最後
には卒倒しそうになる丸ぽちゃ君に哀れの感情を抱く者などおそらく一人もいないだろう
。〈愛〉も〈恋〉も破綻した荒野で生きているのがボールキンでありシャベーリスキイで
あり、そして丸ぽちゃ君なのであるから。が、場面はこの荒野においてすら〈恋〉に生き
ようとする者が現れる。レーベヂェフの娘サーシャである。
 イワーノフ (絶望的に頭をつかんで)そんな馬鹿な! いけない、いけないよ、シュ
ーロチカ!……ああ、いけない!……
 サーシャ (夢中で)気が狂いそうにあなたを愛しています……あなたなしでは、あた
しの人生は無意味です、幸福も喜びもありません! あたしにとって、あなたはすべてで
す……
 イワーノフ 何のために、何のために! ああ、僕には何もわからない……シューロチ
カ、いけない!……
サーシャ 子供の頃、あなたはあたしのただ一つの喜びでした。あたしはあなたを、あ
なたのお心を、自分と同じように愛していました。そして今……あたしはあなたを愛しま
す、ニコライ・アレクセーエヴィチ……あなたとなら、この世のはてまでも、いいえ、ど
こまででも、お墓の中へでも参ります。ただどうか早く。さもないと、あたし息が詰まる
……
 イワーノフ (幸福そうな笑いに体をゆする)何ということだ? 人生をはじめからや
り直すわけか? シューロチカ、そうなの? 君は僕の幸福だ! (彼女を引寄せる)僕
の青春だ、僕の水々しい生命だ……
   アンナが庭から登場。夫とサーシャに気づいて、棒立ちになる。
 イワーノフ じゃ生きて行くんだね? そうなんだね? 新しく仕事にかかるんだね?
   接吻。接吻ののち、イワーノフとサーシャは振り向いてアンナに気づく。
 イワーノフ (おびえたように)サラ!(47~48)
 ボールキンがババーキナに提案した〈商談〉、すなわちシャベーリスキイ伯爵との結婚
話、それはどこまでが真剣でどこまでが冗談なのかはっきりしないまま、喜劇仕立てのド
タバタのうちに演じられた。観客は大いに腹をかかえて笑ったであろう。そして今度は、
サーシャとイワーノフの大真面目な〈恋〉の場面である。笑いの弛緩の後には緊張が訪れ
なければならない。演劇もまた弛緩と緊張の場面を交互に繋ぎ合わせることで観客の関心
と興味を持続させなければならない。いったん観客を飽きさせてしまったら、それこそ取
り返しがつかない。
 サーシャはここで初めてイワーノフに熱烈な思いを打ち明ける。その告白に一片の〈お
ふざけ〉もない。サーシャは真剣そのものである。はたして、アンナに〈永遠の愛〉を誓
いながらその誓いに背いて憂鬱症に陥っているイワーノフが、このサーシャの熱烈な恋に
どのように応えるであろうか。
 「気が狂いそうにあなたを愛しています……あなたなしでは、あたしの人生は無意味で
す、幸福も喜びもありません! あたしにとって、あなたはすべてです」このサーシャの
声の調子はどこかでたしかに聞いた覚えがある。『退屈な話』のカーチャである。余命い
くばくもない老教授ニコライ・ステパーノヴィチをハリコフのホテルにまで単身追ってき
た時のカーチャである。カーチャはサーシャのようにストレートに愛を告白はしていない
。しかし、養父ニコライ教授と養女カーチャがすでに男と女の関係にあったことは確実で
ある。彼らは言わば不倫の関係にあった。カーチャはミハイル・フョードロヴィチに熱烈
なプロホーズを受けていたが、それを吹っ切ってニコライとの新生活へと賭けた。もちろ
んこの新生活はこの世での持続的な結婚生活を意味しない。何しろニコライは余命いくば
くもない身なのだ。カーチャが求めたのは、ニコライの愛であり、その愛は死をも超えた
愛であった。しかし、ニコライ・ステパーノヴィチの応えはどうであったろうか。彼はカ
ーチャの愛を真っ正面から受け止めることができなかった。ニコライは情けないことに■
「わたしは分からないんだよ」としか言えない。カーチャはニコライ・ステパーノヴィチ
に見切りをつける。一度、見切りをつけた女は強く冷淡である。カーチャは振り向きもせ
ずニコライ・ステパーノヴィチに背を向けて静かに立ち去っていく。カーチャはどこへと
去っていったのか。彼女を熱愛するミハイルの所へか。否、カーチャは死の荒野へと向か
ったのである。ニコライ・ステパーノヴィチはカーチャと死を共にすることで、二人の愛
を成就することはできなかった。彼が抱え込んでいるのは自らの〈死〉であり〈絶望〉で
ある。カーチャはニコライ・ステパーノヴィチのその〈死〉と〈絶望〉に背を向けて彼女
自らの〈死〉と〈絶望〉へと歩んで行かなければならなかった。
 イワーノフの場合はどうであったろうか。彼もまたニコライ・ステパーノヴィチと同じ
ようなセリフを口にする「何のために、何のために! ああ、僕には何もわからない……
シューロチカ、いけない!」と。イワーノフは「僕には何もわからない」と言っているが
、彼がサーシャの愛を確信していることは間違いない。彼が分からないのは、サーシャの
愛にどのように応えたらいいのか、という点に関してだけである。彼はアンナに愛を感じ
なくなったとは言え、未だ結婚している身であることに変わりない。サーシャの愛を受け
入れることはアンナに対する裏切りである。が、サーシャの言葉は深く胸に響いてくる。
「あなたとなら、この世のはてまでも、いいえ、どこまででも、お墓の中へでも参ります
」・・このセリフはカーチャのものでもあったはずだが、サーシャはきっぱりと内心の思
いを相手に伝えている。こういう言葉に男は逃げ隠れすることはできないだろう。否、ニ
コライ・ステパーノヴィチは「わからない」と言って逃げた。逃げきった。そして一人、
彼は自分の死を抱きしめた。
 同じニコライでもニコライ・アレクセーエヴィチ・イワーノフはどうであったか。彼は
、幸福そうな笑いに体をゆすりながら「何ということだ? 人生をはじめからやり直すわ
けか? シューロチカ、そうなの? 君は僕の幸福だ!」と言い、サーシャを引寄せると
「僕の青春だ、僕の水々しい生命だ」とまで言い切る。余命いくばくもないニコライ・ス
テパーノヴィチと違って、まだ三十五歳のイワーノフには新規巻きなおしが可能であった
というわけであろうか。まるでイワーノフの空虚、退屈、憂鬱は、サーシャとの新たな愛
で解消してしまったかのような熱い展開である。
 観客はイワーノフが〈永遠の愛〉を誓ったアンナに五年前どのような甘い愛の言葉を囁
いたのかを知らない。もしサーシャに発したと同じようなセリフを吐いていたとすれば興
ざめである。しかし、今、確かにイワーノフとサーシャは新しい愛を確認し、新たな人生
の出発点に立っている。そして、二人の新たな出発を目撃するのが、イワーノフの妻アン
ナである。夫の愛に置き去りにされた妻と、新たな愛に生きようとするサーシャ、この二
人の女の狭間にあって苦悩(憂鬱)するイワーノフの姿が見事に浮き彫りにされた場面で
ある。サーシャのイワーノフに対する愛は恋であって人間愛ではない。恋は残酷である。
サーシャはイワーノフにアンナという妻があることを知っていても、彼に対する熱情をど
うすることもできない。アンナは自分がもはや夫に愛されていないことを知っていても、
夫への愛を断ち切ることはできない。さて、二人の接吻の場面を目撃されたイワーノフと
サーシャは、いったいどのような行動をとるのであろうか。夫の不倫の場面を目撃したア
ンナは……。観客の好奇心は募り、ますます舞台から眼が離せなくなる。
 第三幕第一場はイワーノフの書斎が舞台。登場人物はシャベーリスキイ、レーベヂェフ
、ボールキン、それにイワーノフの従僕ピョートルの四人である。話題はフランスとドイ
ツの政策から塩漬けのきゅうり、ウォッカの摘みにはイクラがいいだの、後にはかますの
油揚げが上等だのと続いて、やがてシャベーリスキイとババーキナの結婚話に移っていく
。六十二歳のシャベーリスキイに向かってレーベヂェフは「なるほど結婚適齢期さね。マ
ルファなら似合いの花嫁だろうよ」と皮肉る。ボールキンは「要するに相手はマルファじ
ゃない。マルファの金ですよ」と注釈を入れる。が、シャベーリスキイはボールキンが提
案した〈商談〉を本気で受け止めていなかったことが判明し、ボールキンは「だったら、
何のために正直な夫人をまどわすんです? あの女は伯爵夫人になったつもりで食事もし
なければ夜も寝ない。……冗談にもほどがある! それが正直なやり口ですか」と憤慨す
る。このボールキンという道化、どこまで真面目で、どこまでふざけているのかよく分か
らないが、結局シャベーリスキイは「じゃ一そ、この汚らわしい芝居を打ってみるか?
ええ? 面あてに! よし、やろう!」と決断する。このシャベーリスキイの決断の言葉
もまたボールキンに劣らず、ふざけた調子に満ちている。ババーキナとシャベーリスキイ
に〈結婚〉という〈商談〉を持ちかけたボールキンの口から「それが正直なやり口ですか
」などというセリフが飛びだしてくるのだから、観客としてはニヤニヤ笑いでもしながら
舞台の展開を見ているほかはない。こんな真面目で同時にふざけた場面に正真正銘の〈正
直者〉リヴォーフ医師が現れて第二場とあいなる。
第二幕の最終場面でアンナは夫イワーノフとサーシャの接吻を目撃してしまう。はたし
てその後、アンナとイワーノフの関係は、イワーノフとサーシャの関係はどうなってしま
うのか。観客の最大の関心はそこにある。しかし第三幕目の第一場は、観客の関心をよそ
に、道化じみた連中の、どうでもいいような話が展開された。リヴォーフが登場してはじ
めて、ふざけた調子は一変し、アンナの危篤状態が告げられる。「助けておくれ、あたし
は死ぬのが死ぬほどこわい」という〈死〉をおちょくるような調子は、アンナの危篤状態
が告知されることによって厳粛なものと化す。が、どういうわけかリヴォーフを軽蔑して
いるシャベーリスキイのみは、アンナの危篤を信じない。リヴォーフの言うことなどすべ
て「でたらめだ!」で片づけてしまうシャベーリスキイの医学に対する懐疑と不信はいっ
たいどこから来ているのであろうか。シャベーリスキイは「生きている人間がわけもなく
とつぜん死ぬなんて考えを許せん」と憤慨しているが、アンナは〈肺病〉という〈わけ〉
があるのだから、彼のリヴォーフに対する反感や侮辱は、ことアンナに関しては何もあて
はまらない。リヴォーフに対する侮辱の前にアンナに対する同情がおきてとうぜんと思う
のだが、同情という言葉に値するものがシャベーリスキイにはうかがわれない。イワーノ
フといい、シャベーリスキイといい実にふしぎな人物たちである。この戯曲の中では、み
んなから馬鹿にされているリヴォーフのみが人間的な同情心や憤怒を抱いているように見
える。
 生きている人間はわけも分からずとつぜん生まれ、とつぜん死ぬものだ。それはすべて
の人間に公平に与えられている運命である。なにもリヴォーフのせいではない。リヴォー
フはアンナを愛していたかも知れないが、それよりなにより、余命いくばくもない妻のア
ンナを放って遊びに出掛けてしまうイワーノフに我慢がならなかったのであり、この憤懣
、苛立ちは理解できる。
 第三場はトランプ賭博に夢中なコスィフ、第四場は老婆アヴドーチャが登場。イワーノ
フの深刻な内的問題に踏み込む前の、暫しの休憩の時といった場面である。第五場でよう
やく待ちに待ったイワーノフの登場となる。リヴォーフも一緒に登場するが、イワーノフ
はリヴォーフよりもレーベヂェフとの会見を先にする。レーベヂェフは妻のジナイーダに
急かされて、イワーノフに借金の利息を取立にきたのである。「一文なし」のイワーノフ
はレーベヂェフの申込みに答えることはできない。レーベヂェフはイワーノフに自分の〈
虎の子の金〉を提供しようとするが、イワーノフはそれに乗らない。レーベヂェフはイワ
ーノフに「君は、人殺しとも、吸血鬼とも、追いはぎとも言われている」と世間の陰口を
口にするが、イワーノフは「みんな馬鹿げたことですよ」と取り合わない。レーベヂェフ
は娘のサーシャがイワーノフを理解し愛していることを知っており、「あの子と知的な話
をすれば、・・気も晴れようさ。あれは、信用のおける、誠実な人間だよ」と言う。イワ
ーノフは「僕をひとりにして下さい」と言った後、去ろうとするレーベヂェフを引き止め
て「僕どうしたんだろう?」と訊ねる。レーベヂェフは「それを聞きたいのはわしだ。た
だ白状すると、遠慮をしていたのだ! わしにはわからん!」と答える。イワーノフもま
た「僕じしん、わからない」と呟く。その後すぐにイワーノフは娘たちに力自慢をしよう
と裸麦の俵を二つ背負って死んでしまった人夫の話をし、「どうやら僕もへばったような
のです」と語り、次のように続ける。
 中学校、大学、それから農村の経営、学校の設立、いろいろな計画……僕は皆と違った
信仰を抱き、皆と違った結婚をした。熱中もした、冒険もした、ご存知のように、右に左
に自分の金をまき散らしもした、この郡内の誰よりも仕合せだったこともあれば誰よりも
苦しみもした。それが全部、おじさん、僕の俵だったのです。……自分ひとりの背中へ重
荷を背負って、背骨が折れてしまったのです。二十の頃は、僕らはみんな英雄気取りであ
らゆることを引受け、あらゆることをやりとげるのに、三十近くなると疲れが出て、何の
役にも立たなくなる。この疲れは、どう説明したらいいのでしょう? もっとも、そんな
ことはどうでもいい……どうでもいいんだ!……さあお帰んなさい。うんざりしたでしょ
う。
 〈へばった〉〈どうでもいい〉〈うんざり〉……これがイワーノフの憂鬱症の実体を端
的に言い表している。イワーノフに限らず、チェーホフの人物たちはみなこの気分の中に
おかれている。レーベヂェフは「君は環境の犠牲になったのさ!」としたり顔に言う。が
、イワーノフはすかさず「馬鹿な、それに時代おくれだ」と断言する。環境に殺人や憂鬱
の原因を探ること自体が時代遅れということであろうか。いずれにしてもイワーノフは己
の〈どうでもいい〉という気分を環境によって説明されることを厳しく拒んでいることに
変わりはない。レーベヂェフが帰った後、イワーノフは独りごちる。
 僕はろくでなしだ、みじめな、つまらない男だ。レーベヂェフのような、同じぐらいみ
じめな、疲れ切った、飲んだくれででもない限り、今だに僕を愛したり尊敬したりはでき
まい。ああ、自分が嫌でたまらない! この声も、この足音も、この手も、服も、自分の
考えも、・・ああ嫌だ! 滑稽じゃないか、しゃくにさわるじゃないか! つい一年たら
ず前まで、僕は健康で丈夫で、元気にあふれ、疲れを知らなかった。熱心だった。この手
で働き、無学な連中が涙を流すほど感動的な話もすれば、他人の悲しみを見て泣くことも
できた。不正に出会うと憤慨もした。霊感の涌くのも感じた。寝ずに仕事机に向ったり空
想で心を慰めたりしたあの静かな夜の、美しさやポエジイも知っていた。信念を抱き、母
親の眼を見るように未来を見つめていた。……ところが今は、ああ! 疲れはて、信念も
なく、昼も夜もぼんやりと過している。頭も手足も言うことをきかない。領地はあれ放題
、森は打ちふる斧に引きさかれていく。(泣く)僕の土地はみなし児のように僕を眺めて
いる。僕は、何一つ期待もしなければ、残念がりもしない。心はただ明日を前に恐怖にお
ののいている。……サラとの悶着は? 僕は永遠の愛を誓った、幸福を予言して、彼女が
夢にも見たことのない輝かしい未来を描いてみせた。彼女はそれを信じた。それなのに丸
五年間、僕が見てきたのは、彼女が犠牲の重荷にやつれていく姿、良心との戦いに衰えて
いく姿だけだ。それでも彼女は、神のみぞ知る、恨めしそうな目差し一つみせず、非難の
言葉ひとつもらさない!……じゃどうしたのだ? 僕の愛がさめたのだ。……どんなふう
に? なぜ? なにゆえに? それがわからない、いま彼女は苦しんでいる。余命いくば
くもない。それなのに臆病な僕は、彼女の青白い顔や、落ちくぼんだ胸や、祈るような目
差しから逃げ回っている。……恥かしい、ああ恥かしい! (間)一方、まだ子供のサー
シャは、僕の不幸に逆に感動して、老人にひとしい僕に恋を打ち明けた。すると僕までが
、美しい音楽に聞きほれたように浮かれ出して、俗事を忘れて「新しい生活だ! 幸福だ
!」とわめく始末。そのくせ、あくる日になると、こうした新しい生活や幸福が、おとぎ
話の魔物のように信じられなくなる。……ああ、僕はどうしたのか? どんな断崖絶壁か
ら自分をつき落とそうとしているのか? どこからこの弱さが入り込んだのか? 僕の神
経がどうかしたのか? 病気の妻が僕の自尊心を傷つけたり、召使が気に入らないことを
したり、鉄砲の弾丸が出なかったりすると、すぐ乱暴になって、意地悪くなる、これが僕
かと情なくなる。……(間)わからない、わからない、わからない! 一そどんと額に!
……(60~62)
 今までの観客のイライラを一気に晴らしてくれるようなイワーノフの長い独白である。
空虚、倦怠、憂鬱、永遠の愛の破綻、どうでもいい、うんざり……これだけが繰り返され
ても、それで観客は納得するものではない。余命いくばくもない妻アンナに対する冷淡さ
に匹敵するイワーノフ自身の苦悩が吐露されなければならない。苦悩の吐露があってはじ
めて観客はそれなりに納得するのである。
 例えばドストエフスキーの『罪と罰』を読んだ読者の大半が、ラスコーリニコフが二人
の女の頭上に斧を振り下ろして殺害したにもかかわらず彼を愛してやまないのは、作者が
これでもかこれでもかとラスコーリニコフの内部に立ち入って、それを詳細に描写したか
らである。読者はあたかも自分自身がラスコーリニコフになったかのように、この作品を
読み進んでいくことになる。ここでイワーノフはチェーホフにしてはずいぶんと長い独白
を展開しているが、そのことによって観客はイワーノフの苦悩の世界へと参入することに
なる。あるいは参入した気になるのである。
 ラスコーリニコフは母のプリヘーリヤ、妹のドゥーニャはもとより、友人のラズミーヒ
ン、娼婦のソーニャ、予審判事のポルフィーリイにすら愛された主人公である。『罪と罰
』の世界では、殺された老婆アリョーナの方が〈社会のシラミ〉扱いされて蔑まれるので
ある。同じようなことが『イワーノフ』においても見られる。イワーノフは世間では「人
殺しとも、吸血鬼とも、追いはぎ」とも言われていたかも知れないが、妻のアンナに、レ
ーベヂェフの娘サーシャに烈しく愛されている。イワーノフを蔑んで、苛立っているリヴ
ォーフは、他の人物から逆に侮られていることによって、イワーノフの評価はそれほど下
がることはない。
 イワーノフの憂鬱は、もし彼に莫大な金を与えたところで解消しはしなかったであろう
。すでに愛を感じなくなったアンナときっぱり別離し、サーシャとの新しい生活に踏み切
ったとしても、おそらくイワーノフの憂鬱は解消しなかったであろう。すでにイワーノフ
は、自分でも言っているように余りにも重い荷物を担ぎ続けてへばってしまったのであろ
う。それに、イワーノフの憂鬱は、本当に精神病理学的次元での治療を必要としていたの
かもしれない。自分でもどうすることもできない感情(愛や同情)の衰退であり、憂鬱な
のである。イワーノフはいっそのことピストル自殺によって一挙に解決をはかろうとさえ
している。もちろん自殺は何らの解決でもない。余命いくばくもない妻アンナはそのこと
でさらに寿命を縮め、イワーノフに愛を告白したサーシャも絶望の淵へと追いやられるで
あろう。自殺は解決ではなく、解決不能の困難な課題からの逃亡でしかない。自分だけ逃
亡すればいいというのはもちろん卑怯者のすることだ。イワーノフはそのことを十分に理
解しながら、にもかかわらず自殺の誘惑に不断にかられた存在なのである。イワーノフに
は新しい一歩を踏みだす踏切台が奪われている。ジャンプするための脚はかろうじてつい
ているが、走る力も、その脚に跳躍のエネルギーを与えるための踏切台もないのである。
イワーノフはいわば人生の敗残者であり、二度と立ち上がることのできない青年なのであ
る。
 イワーノフは未だ三十五歳であるが、自分を老人扱いしているところが面白い。ポルフ
ィーリイ予審判事も三十五歳でありながら、自分を「すっかりおしまいになってしまった
人間」として捕らえている。十九世紀のロシア人にとって、三十五歳はすでに老人の領域
に入った者と見なされていたのかもしれない。いずれにしても、四十四歳で死んだチェー
ホフにしてみれば、三十五歳を〈青年〉と見ることはできなかったであろう。
 イワーノフが最も解決しなければならないのはアンナにまつわる問題である。アンナは
イワーノフを愛しており、イワーノフはアンナを愛してはいない。つまり二人の関係はす
でに破綻している。アンナはその破綻を認めず、イワーノフはその破綻をアンナに決定的
に突きつけることを回避している。イワーノフの臆病は、アンナに対する負い目に起因す
る。なにしろ五年前、アンナにすばらしい新生活の夢を与えたのはイワーノフに他ならな
い。アンナはイワーノフの言葉を信じ、献身的に尽くして来た。裏切ったのはイワーノフ
であり、彼はアンナに対して一言の申し訳もたたない。二人の関係の破綻を凝視すればす
るほど、イワーノフは自分に嫌悪を抱くことになる。この嫌悪感はレーベヂェフ宅に出掛
けて紛らわそうとしても所詮無駄である。嫌悪感は影のようにイワーノフから離れない。
イワーノフはいくらアンナの側から遠く離れようと、この自分自身に対する嫌悪感を払拭
することはできない。イワーノフはいわば自分自身から呪われた男である。
 さて、イワーノフにつきまとう〈影〉の正体とはいったい何であろうか。イワーノフは
アンナに熱愛しプロポーズした。アンナは両親の反対を押し切ってイワーノフと結婚した
。ということは、イワーノフはアンナを彼女の両親から奪ったことを意味する。さらに先
鋭的に言えば、イワーノフはアンナの父親からその娘を奪ったということになる。精神分
析学の文脈に乗せれば、アンナは父の伴侶としての母を意味することになる。この作品の
中でアンナの父親は一度も登場して来ないが、それはすでに彼がイワーノフによって殺さ
れていたからだということになる。イワーノフは父から〈母〉(アンナ)を奪ったことに
よって、父から(憂鬱〉という〈罰〉を受けたのである。イワーノフにおける〈父親殺し
〉はとうぜんチェーホフのそれと重なってくる。イワーノフの〈憂鬱〉を、彼自身がうま
く説明できないのは、彼の深層の淵にオイディプス的野望とその挫折のドラマが潜み隠れ
ていたからだとも言えよう。
 次にイワーノフとリヴォーフの対話の場面を検証することにしよう。イワーノフは自分
のアンナに対する態度が罪深い行為だとは自覚しているらしい。イワーノフが嫌っている
のはリヴォーフの正義者面だけであったのかもしれない。イワーノフにとってリヴォーフ
は妻の医師であるより、自分を裁く検事のような存在だったということだろう。確かに人
間は、自分を的確に把握することはできない。ましてや他人はそうである。しかし、リヴ
ォーフだけは、人間を誰よりも理解していると思っている。このことがイワーノフには我
慢がならない。イワーノフにとって「わからない」ということは深い人間洞察の果てに呟
かれた言葉であって、リヴォーフのように自分の正義だけをごり押ししてくる者は単細胞
ということになる。しかしそれにしてもイワーノフは圧倒的に不利な立場にある。どうや
らレーベヂェフ家でのイワーノフとサーシャの一件は、すべての人間に知れ渡っていたら
しい。アンナはその場で卒倒し、レーベヂェフ家では大騒ぎが勃発したに違いないのであ
る。ドストエフスキーだったら、こっちの場面を重視しただろう。しかしチェーホフは、
〈事件〉が起こった二週間後のイワーノフの書斎に舞台を移してしまった。事件の現場を
そのまま映し出すのではなく、二週間という微妙な時をおいて間接的に映し出すという手
法を採っている。もしこれが一年後であったら、あの〈事件〉は完全に〈過去〉のことと
して回想されてしまっただろう。また二三日後ではあまりにも生々しい感じが残る。二週
間という間は、絶妙な間と言えよう。〈事件〉は未だ遠い過去の出来事として回想される
のではなく、或る冷却期間としての意味を持っている。サーシャとの接吻をアンナに目撃
されてからこの二週間、いったいイワーノフはどのような内的生活を送ってきたのか。そ
れは先の長い独白と、リヴォーフとの対話によって十分に推測できる。
 イワーノフは「僕は重々悪い。神の前では責任をとる」と言っている。いったい〈神の
前の責任〉とはどういうことを指しているのだろうか。はたしてこの言葉に真実の響きが
どれくらいあっただろうか。「わからない」「どうでもいい」を連発するような空虚と倦
怠の気分に覆われているイワーノフにいったいどのような罪の感覚があったと言うのであ
ろうか。ニコライ・アレクセーエヴィチ・イワーノフという名前から、わたしなどはドス
トエフスキーの『悪霊』の主人公ニコライ・スタヴローギンや『カラマーゾフの兄弟』の
アリョーシャ・カラマーゾフをつい思い出してしまう。ニコライ・スタヴローギンは善と
悪の観念を磨滅させてしまった青年で、何が善であり、何が悪であるのかが分からなくな
ってしまった青年である。この青年が企んだのは自分を沈黙し続ける神に擬して少女マト
リョーシャを凌辱した上で死へと追い込むことであった。が、所詮ニコライ・スタヴロー
ギンは神となることはできない。やがてニコライ・スタヴローギンはマトリョーシャの幻
影に怯えるようになり、「告白文」を書き上げることになる。
 イワーノフの言う〈神の前での責任〉とはニコライ・スタヴローギンにおける〈告白文
〉のようなものを意味していたのであろうか。イワーノフとアリョーシャ・カラマーゾフ
の共通点を一つ挙げるなら、後者が決してひとを裁かなかったことである。アリョーシャ
は淫蕩三昧な生活に明け暮れていた父親のフョードルさえ裁きの眼差しで見たことは一度
もなかった。もちろん、イワーノフとアリョーシャをそのまま重ねて見ることはできない
。アリョーシャにあってイワーノフに欠けているのは同情(サストラダーニィエ)である
。イワーノフにとって致命的なのは、余命いくばくもないアンナに対して何らの愛も哀れ
みの感情もおきないと言っていることである。この点に関しては、リヴォーフのイワーノ
フに対する怒りは正当である。
 イワーノフの感情、その頽廃的な感情を理解することはできる。しかし共鳴する者はい
ないだろう。イワーノフの虚無と倦怠と憂鬱を、第三者が弁護するのならまだ分かる。し
かしイワーノフ自身が自分の気分を正当化するような言葉を口にしたら、やはり嫌な感じ
を抱くのは当たり前ということになる。
 イワーノフが自分の憂鬱を人間の複雑さやその分からなさに求めたとしてもそれほど説
得力を持つわけではない。イワーノフ程度の人間認識ならドストエフスキーの読者の大半
はすでに十分備えている。わたしが敢えてイワーノフに求めるとするなら、彼の信じてい
る神とはどういう神なのかを示してほしいということである。イワーノフは「僕は重々悪
い。神の前で責任はとる」と断言しているが、本当に彼は自分の行為を〈悪〉と見なして
いたのだろうか、本当に神を信じていたのだろうか。
 イワーノフは自分を正義と同一視しているようなリヴォーフに頭をさげたくはなかった
であろう。本音を言えば、リヴォーフの顔を見たくないし、ましてや言葉を交わすのも嫌
だったであろう。人間に頭を下げたくないばかりに神を信仰する者がいるとはドストエフ
スキーの言葉であった。リヴォーフも言いたいことを言う傲慢な青年だが、イワーノフは
それ以上に傲慢である。彼は人間に跪拝するくらいなら、神の前に責任を取ることを選ぶ
のである。しかし彼が普段の生活において神を敬う態度を示していたかどうかはかなり疑
わしい。イワーノフは五年前、神を選ぶよりはアンナを選んだに違いない。少なくともア
ンナは両親の信ずる神を捨ててイワーノフに全幅の信頼を寄せた。イワーノフはアンナを
愛し、そして裏切った。その責任は神に対して取らなければならないというより、アンナ
に対して取らなければならないものである。イワーノフが一年前からアンナに対してどの
ような態度をしめしていたのか。観客はその具体的な姿を何一つ知らされていない。従っ
て、イワーノフがアンナにどのような責任を取ればよいのかも、よくは分からない。いず
れにしても、描かれた限りで見れば、心変わりしたイワーノフに非はあって、アンナには
何の罪科も見出せない。それにしても〈心変わり〉を罪として罰することなどできるのだ
ろうか。愛を感じなくなってしまったのに、あたかも愛が持続しているように振る舞うこ
との方が罪深いかも知れないではないか。
 いずれにしてもイワーノフの〈心変わり〉は変わらないのであるから、アンナの心を満
たすことはできない。リヴォーフは医師としてアンナの治療に全力をつくすほかはない。
イワーノフを軽蔑し、怒り、イライラしても、イワーノフの〈心変わり〉を元に戻すこと
はできない。まさかイワーノフに偽りの愛をもってアンナに接しなさいと指示するわけに
もいかないだろう。一見、イワーノフは開き直った傲慢な青年に見えるが、それは彼が自
分の心に嘘偽りなく生きている証ともなっている。リヴォーフがイワーノフに要求してい
るのは、高潔な妻に対して尊敬の念を抱き、外出を繰り返して妻の心労に拍車をかけてる
ようなことがあってはならないということであり、ごく当たり前のことなのである。しか
しイワーノフはこのリヴォーフの要求を呑むことはできない。イワーノフの気持ちはアン
ナにはなく、サーシャへと向かってしまっている。この気持ちを、誰も変更させることは
できない。問題は先にも指摘したが、イワーノフは新しい恋によってさえ空虚と倦怠と憂
鬱の気分から脱することはできないということなのである。
 リヴォーフは「この郡へ来るまで、私は馬鹿や気違いや、熱狂的な人間がいることは知
っていたが、まさか意識的にことさら自分の意志を悪へ向ける、罪深い人間がいようとは
思わなかった」と語っている。この箇所を読んだとき、リヴォーフはドストエフスキーの
人物たちのことを言っているのかと思ったほどである。イワーノフはもしかしたらドスト
エフスキーの人物たちの延長上に登場してきたのかも知れない。『虐げられた人々』のヴ
ァルコフスキー公爵、『罪と罰』のスヴィドリガイロフ、そして『悪霊』のニコライ・ス
タヴローギンなどは、まさに「意識的にことさら自分の意志を悪へと向ける、罪深い人間
」であった。たしかにイワーノフはこういったドストエフスキーの負の人物たちの血脈を
引いている。
 チェーホフはドストエフスキーと違って神の問題を前面に押し出して来ることはなかっ
た。イワーノフはいったい自分の罪を誰に向かって懺悔するのであろう。否、彼は本当に
自らの〈罪〉を〈罪〉として受け入れられるのであろうか。あの二人の女性を殺害したラ
スコーリニコフでさえ、結局、最後の最後まで己の〈踏み越え〉(プレストプレーニィエ
=殺人)に罪(グレフ)を感じることができなかった。ラスコーリニコフの苦悩は自分の
行為に罪意識を感じることができないことにもあった。イワーノフの内心を深く掘り下げ
ていけば、少なくともリヴォーフがポルフィーリイ予審判事並の鋭利な知性と直観を持っ
ていれば、相当違った展開を見せたことになろう。
 イワーノフとリヴォーフの対話の後に、サーシャが登場する。そのやりとりを検証する
ことにしよう。二週間が経ち、サーシャは我慢できずにイワーノフを訪ねてくる。イワー
ノフは臆病風にふかれておびえる。イワーノフはサーシャに向かって「軽はずみだよ、残
酷だよ!」と責める。このセリフだけを独立させて聞けば、イワーノフは妻のアンナを思
いやっているように見える。しかし、そもそもアンナを憤慨させ、絶望の淵へと追いやっ
た張本人はイワーノフである。サーシャが来ようがこまいがアンナの機嫌が直るわけでも
ないし、イワーノフの愛を取り戻せるわけでもない。
 この戯曲において最も重要な人物は題名となっているイワーノフであり、その妻アンナ
である。二人の〈永遠の愛〉とその破綻が最も重要なテーマであるが、作者はその核心へ
といきなり突き進むことを極力避けている。観客は、遠くから二人の〈核心〉の部分を眺
めさせられている。なぜイワーノフのアンナに対する愛がとつぜん冷めてしまったのか。
いったいイワーノフとサーシャの関係はどこまですすんでいるのか。肝心な部分に関して
は霧がたちこめていてよく見えない。今のところ二人の道化役シャベーリスキイとボール
キンは、イワーノフとアンナの関係に関しては知らん振りを決め込んでいるし、リヴォー
フはイワーノフの核心部へと参入できる鋭い感性と直観力が欠けている。イワーノフの自
己洞察力は「わからない」を限界としている。この限界にイワーノフ自身はひれ伏してい
るわけではない。イワーノフの「わからない」は彼の傲慢をも示している。イワーノフに
とって「わからない」は、神秘を前にした敬虔な態度とは違う。この「わからない」のう
ちに、イワーノフの傲慢と挑戦が潜んでいる。ボールキンのイワーノフに対する苛立ちと
怒りの感情もそこに起因している。
 ふと、わたしの脳裡に宮沢賢治作『ポラーノの広場』のレオーノキューストが浮かんで
きた。彼は自分の孤立を望んでいた。人々の平和や幸福を誰よりも望んでいるかのような
発言を繰り返してきたレオーノキューストが、実はくたびれきって、精も根もつきはて、
なにもかも「どうでもいい」ような気分に襲われていたと見ることができる。レオーノキ
ューストはイワーノフのように自分の心に未だ正直になりきれていないところがある。し
かし、この作品を読み込めば、レオーノキューストの底知れぬ深部から「わからない」「
どうでもいい」「うんざりだ」と言った言葉がもれ聞こえてくるのである。
 イワーノフは臆病であり、〈永遠の愛〉を誓った過去にとらわれている。人生に疲弊し
、空虚と倦怠の卵を抱きしめて憂鬱症に陥っているイワーノフは、きっぱりと過去を切り
捨てる覚悟もないし、現在を未来に賭けるエネルギーも枯渇している。サーシャのイワー
ノフに対する愛の表明、そのまさに少女趣味的な、自分の労働によって生活の糧を得たこ
とのない空想的な愛の表明は、そのまま五年前のアンナの口から発せられていても何ら不
自然を感じない体のものである。愛は熱烈であればあるほどその一過性の速度を早める。
アンナは本当にイワーノフを五年前と同じように愛していただろうか。もしかしたらアン
ナはイワーノフを引き止めておきたいだけではないのか。自分に対する愛を消失した相手
に対する執着を愛と呼ぶことはできない。アンナは余命いくばくもない自分の命を楯にイ
ワーノフの愛を取り戻そうとしていたのではないか。執着は自己愛ではあっても、相手に
対する愛とはならない。相手を自分の管理下において支配しようとする欲望を愛と錯覚し
ている女性はいつの時代にも存在する。サーシャの愛の表明は、いわば自己犠牲的な献身
をのぞかせるが、しかしこの献身もまた自己愛の次元を超えることは難しい。
 男と女の愛はヒューマニズムとは全く性格を異にする。サーシャがイワーノフを愛せば
愛すほど、彼女はそのことでアンナを苦しめることになる。三人一緒に幸福になることは
できない。しかもイワーノフがアンナに対して心が冷めていることを知っているサーシャ
は、イワーノフに対して圧倒的に有利である。イワーノフとの接吻場面を目撃されたサー
シャは、しかしその場で怒りに卒倒したアンナに対する同情よりは甘い接吻の快楽を優先
させるであろう。恋愛感情を恋敵に対する同情によって鎮めた女性はいない。そんな女性
がいるとすれば、最初から自らの勝利を信じて疑わない女性に限る。まさにサーシャの、
あまりにも立派な愛の表明は、アンナに対する勝利宣言の裏返しでしかない。サーシャは
アンナの余命いくばくもない運命を知っており、自分とイワーノフの抱擁場面がアンナに
致命的なショックを与えたことも知っている。さらにサーシャは、イワーノフがアンナに
ではなく、彼女自身に愛を感じていることを知っている。だからこそサーシャは、自己犠
牲的な愛の表明をイワーノフを眼前にして繰り広げることができる。
 いったい、アンナの絶望を誰が代弁してくれるのであろう。リヴォーフ医師は、この戯
曲では役不足の理屈っぽい若造としての域を出ていない。心変わりしてしまった〈悪い男
〉で〈罪人〉で〈滑稽なでくの棒〉のイワーノフにそれを委ねるわけにはいかない。やは
りアンナ自身がはっきりと口を開くべきなのである。きれいごとを並べている暇はないの
だ。
 サーシャは「どんな娘でも、仕合せな男よりも失敗した男のほうが好きなの」と言う。
確かにこういう女はいる。しかし、こういう娘は少数派ではなかろうか。才能を十分に発
揮し、いつも精力的に活動している男が魅力的であるのは間違いない。こういった男が、
ふと寂しい表情をしたり、甘えた口をきいたりすることに痺れる女がいても、〈失敗した
男〉を好きになる女は限られていよう。それを〈どんな娘〉でもと言ってしまうところに
、サーシャの自己本位な性格がうかがえる。自己犠牲も、献身的な態度も、相手に対して
引いている姿勢とは限らない。その態度が返って傲慢な、押しつけがましい態度となって
いることをきちんと認識しなければいけない。
 二週間しか経っていないのに、我慢できずにイワーノフの家へまで押しかけるサーシャ
が、引くタイプの女性でないことは明白である。イワーノフはサーシャに牽かれながらも
、サーシャのその傲慢を感じている。おそらく、サーシャはアンナとは少し味の違った、
しかし〈毒きのこ〉であることに間違いはないのである。要するにイワーノフは、こうい
った女たち、熱烈に愛し、積極的に行動し、いつまでも執着して離れないような女たちに
好かれるのである。読者(観客)はイワーノフとアンナがどのようなきっかけで、どのよ
うな関係を取り結んだのか、その具体的な姿を何一つ知らされていない。二人のうちの誰
が、先に惚れたのか。書かれた限りで判断すれば、両親と喧嘩別れまでしてイワーノフに
付いてきたアンナの方が熱烈に愛していたことがわかる。イワーノフの悩みは、いわばも
てる男のそれであり、いい気なもんだと言えばかなりいい気なもんなのである。
 イワーノフは自分を「悪い男だ、罪人だ!」と言い、サーシャに「どんなところが?」
と訊かれると、すぐに「わからない、わからない……」と逃げる男である。さらに問い詰
められると「愛した、愛がさめた、自分の感情の主人じゃない・・それはみんな使い古さ
れた、月並な文句だ、何の役にもたたない」と開き直る。サーシャは「あなたとお話して
いると疲れるわ」と言う。その通りだ、イワーノフのような男と少しばかり話をすれば、
彼の空虚と倦怠と憂鬱と、そのばかばかしさが感染するのだ。だから、いったいイワーノ
フのどこがサーシャにとって魅力的なのか、ということが問題にされなければならない。
 イワーノフはかつて精力的な男性であった。農村の経営、学校の設立に情熱を燃やし、
さまざまな計画を立て、冒険もした。そういったかつてのイワーノフを知っていればこそ
、〈失敗した男〉イワーノフに愛情を抱くこともできる。まさか最初から失敗しているよ
うな男を好きになったわけではないだろう。相手を立ち直らせ、新しいスタートラインに
立たせることのできる女、それが私だぐらいの気持がなければ、イワーノフに愛を表明す
ることはできなかったであろう。いずれにしても、イワーノフはこういった積極的な女に
烈しく愛され、はじめのうちはそのことに満足しているが、やがてうざったくなるのであ
る。イワーノフはリヴォーフに向かって「決してユダヤの女と結婚してはいけない。精神
病者とも、学者ぶる女ともいけない」と忠告していた。イワーノフが勧めたのは「平凡な
、灰色の、冴えない女」である。サーシャはどうだろうか。サーシャはことさら〈学者ぶ
る女〉ではないが、単なる〈平凡な女〉でもない。サーシャはイワーノフの結婚観に適っ
た女ではない。それよりなにより、もはやイワーノフに新生活を期待することはできない
。もしイワーノフが、サーシャと〈新生活〉をはじめたとしても、五年もたてばやはり、
今のような憂鬱状態に陥っているだろう。
観客が何よりも知りたいのはイワーノフとアンナの関係である。レーベヂェフ家で卒倒
して二週間経ったアンナは、イワーノフをどう思い、今後どのような関係を続けていこう
としているのか。イワーノフが愛しているサーシャを、アンナはどのように思っているの
か。観客はアンナの思いを彼女の口から直接聞き出したいと願っている。しかし、ここで
もチェーホフは一拍を置くことを忘れない。観客の気持などじらすだけじらしたほうがい
いと思っている。サーシャと入れ代わりに登場してくるのはアンナではなく道化のボール
キンである。しかし、この道化も、ここではイワーノフのご機嫌を損ねてしまう。イワー
ノフは突然怒りだし、ボールキンに「卑劣漢め!」「たった今この家を出て行ってくれ!
」と怒鳴りつける。もちろんボールキンがそんなことで怯むいわれもない。ボールキンは
ボールキン、彼は彼の人生観があり金銭哲学がある。憂鬱症などに陥って、とつぜん怒り
に駆られる醜態を演じるのは思春期を迎えたばかりの中学生がすることであって、決して
大人のすることではない。が、イワーノフの憂鬱も怒りの爆発も理屈で説明しても納得の
いくものではない。今、イワーノフにとってボールキンと笑顔で冗談を言い交わす余裕は
ない。イワーノフはサーシャのとつぜんの訪問にうろたえており、アンナにもそうとう気
をつかってびくびくしていたのだ。そんな時にボールキンのバカ話につきあってはいられ
ないし、今までの我慢にも我慢の限度がやってきたのである。
 イワーノフは言わばヒステリーを起こしている。ボールキンが言うように、イワーノフ
は「腹だちまぎれの捨てぜりふ」を吐いているのである。もはやイワーノフはボールキン
を寛容な態度で受け入れることはできない。とっとと出ていけ! という命令は完全な拒
絶であり、もはやボールキンとは係わりたくないという意志の表明である。
 この場面はドストエフスキーの『ステパンチコヴォ村とその住人』のロスターニェフ大
佐と居候の道化ファマー・フォミッチを想起させる。ボールキンはファマー・フォミッチ
と較べればまだまだ内部の秩序を保った道化であり、イワーノフはロスターニェフ大佐と
較べればひとのよさに欠ける。何しろドストエフスキーの人物たちはその性格が徹底して
いる。ロスターニェフ大佐は愛と赦しを体現する者として設定されており、ファマー・フ
ォミッチのどんな理不尽にたいしても寛容な態度で接してきた。しかし最後の最後におい
てロスターニェフ大佐はファマー・フォミッチに厳しく対処する。結果として彼は己の肯
定的な精神〈愛と赦し〉の破綻を体験しなければならなかった。イワーノフもまた当初は
ボールキンの〈卑劣〉を許容していた。そのことで自分の評判が悪くなる一方だったのに
、それでもどういうわけかボールキンを追放するようなことはしなかった。何しろ観客は
、イワーノフとボールキンの今までの付き合いに関してほとんどなにも知らないので、こ
こで的確な判断を下すことは不可能だが、いずれにしてもイワーノフがここでボールキン
に愛想を尽かして切れてしまったことは事実である。同時に、イワーノフの怒りをボール
キンが同一次元で受け止めていないことも事実である。ボールキンにはボールキンの人生
があり、金銭哲学がある。彼にはシャベーリスキイとババーキナの〈商談〉を成立させる
ためにどのように動こうが、誰にもとやかく言われる筋合いはないという思いがある。ま
してや妻がありながら、サーシャとちちくりあっているような男にとやかく言われたくは
なかったであろう。
 まさに掴み合いになる寸前にアンナが登場、ボールキンはさっさと退場する。いよいよ
真打ちアンナの登場である。二人のやりとりを見ることにしよう。
 アンナ (しばらく無言ののち)なんのためにあの女は今うちへ来たの?(間)なんの
ためにここへ来たのか、おたずねしていますのよ!
 イワーノフ きかないでくれ、アニュータ……(間)僕は罪ふかい男だ。どんな罰でも
考えてくれ、僕は我慢する。ただ……きかないでくれ。……僕にはそれを言う力がない。
 アンナ (ぷりぷりして)なんのためにあの女はうちへ来たの? (間)あなたはそう
いう人なのね! 今こそわかった。とうとう、あなたがどういう人かわかりました。破廉
恥な、卑しい人……覚えてらして、あなたがうちへ来て、あたしを愛していると嘘をつい
たのを?……あたしは信じました。父も母も信仰も捨てて、あなたについて行きました。
……あなたは真実や、善や、ご自分の正直な計画についてあたしにうそを言った、それを
ひと言ひと言、あたしは信じたのです。……
 イワーノフ アニュータ、僕は一度だってお前に嘘をついた覚えはない。
 アンナ 五年間あたしはあなたと暮らしました、苦しんで、病気になりました。しかし
あなたを愛してきました、一瞬間たりともあなたを忘れたことはない。……あなたはあた
しの偶像だった……それなのに! その間じゅう、あなたは露骨にあたしをあざむいて…

 イワーノフ アニュータ、嘘を言ってはいけない。僕は間違いを犯した、それはそうだ
、しかし今まで一度だって嘘は言わない。……そんな非難はあたらない……
 アンナ 今こそ一切がはっきりした。……あたしと結婚して、父や母が許してお金をく
れると思っていたのね……
 イワーノフ ああ! アニュータ、これほど我慢をして……(泣く)
 アンナ お黙りなさい! お金がもらえないのに気づいて、新しい芝居をはじめた。…
…今こそ何もかも思い出した、何もかもわかった。(泣く)あなたは一度だってあたしを
愛しちゃいなかった。あたしに忠実じやなかった……一度だって!……
 イワーノフ サラ、それは嘘だ!……好きなことを言うがいい。ただ、ありもしないこ
とで僕を侮辱しないでくれ。……
 アンナ 破廉恥な、卑しい男……あなたはレーベヂェフに借金があるので、債務を逃れ
るために今度は娘を誘惑して、あたしと同じように欺こうとたくらんでいる。そうじゃな
いの?
 イワーノフ (息を切らして)お願いだ、黙ってくれ! 僕は自分に責任がもてない…
…憤怒が喉をしめつけているんだ、僕は……僕はひどいことを言うぞ……
 アンナ いつだって、あなたはひどく欺いてきた、それもあたしひとりだけじゃない…
…あなたは破廉恥な振舞いを全部ボールキンになすりつけているけれど、今こそわかった
、誰のしわざか……
 イワーノフ サラ、お黙り、あっちへお行き! さもないと、何を言うかわからないぞ
! 恐ろしい、ひどいことを言いそうなんだ……(怒鳴る)黙れ、ユダヤ人!……
 アンナ 黙らない。……もう黙っていられない、こんなに長いあいだだまされてきたの
に。……
 イワーノフ 黙らないんだな? (自分自身と戦う)頼む……
 アンナ さあ、行って、レーベヂェフの娘をだましてらっしゃい。……
 イワーノフ じゃ聞け、お前は……もうすぐ死ぬんだぞ。……ドクトルがおれに言った
、もうすぐ死ぬと……
 アンナ (座り込む。力の抜けた声で)いつ言ったの? (間)
 イワーノフ (自分の頭をひっつかむ)ひどいことを言った! ああ、ひどいことを!
 (むせび泣く)(71~73)
 この場面は何回読み返しても恐ろしい場面である。二人の関係の破綻の渦の中心を見据
えれば、こういう恐ろしいことになる。アンナはつい最近までリヴォーフに向かってイワ
ーノフを〈すばらしい人〉だと言っていた。それが今はイワーノフ当人に向かって〈破廉
恥な、卑しい人〉と罵っている。それもこれもアンナが、イワーノフとサーシャの接吻の
場面を目撃してしまったことにある。男と女の愛に、第三者が介入して三角関係になった
ときに、相手に対して寛容になれる者は特殊な場合を除いてはあり得ない。ヒューマニズ
ムを男と女の愛に適用することはできない。アンナにとってサーシャは愛しい夫を奪いと
ろうとしている恋敵でしかない。まだ二週間しか経っていないのに、イワーノフに会いに
くるサーシャは、アンナからすれば図々しい盗人猫である。アンナが怒りに駆られて「な
んのためにあの女は今うちへ来たの?」とイワーノフを問い詰める心持ちは十分に分かる
。イワーノフは嘘八百を並べてでも弁明しなければならない。なぜならアンナは妻である
から。しかしイワーノフは嘘をつけない。彼は自分の心にだけは誠実な、つまり冷酷な男
である。愛してもいない女に愛しているとは言えないし、サーシャのことでアンナに弁明
する気もさらさらない。こういったイワーノフの性格は、アンナを熱烈に愛していた時か
ら変わっていない。つまりアンナは愛している時には熱烈、愛が冷めれば薄情になるイワ
ーノフを好きになったというわけである。
 愛されている時は〈りっぱな人〉も、愛がなくなれば〈破廉恥な、卑しい人〉へと一変
する。どこにでも見られる世界共通の女と男の出会いと別れにおける感情の変化である。
出会いの時の感情が熱烈であればあるほど、別れのときの確執も凄まじい様相を呈するこ
とになる。イワーノフは我慢しきれず、ついにアンナを〈ユダヤ人〉呼ばわりし、あげく
のはてに「もうすく死ぬんだぞ」とまで口にしてしまう。この言葉は、絶対に口に出して
はいけない言葉であった。〈死〉という絶望を超えた〈愛〉があるならまだしも、イワー
ノフはすでにアンナに対する感情は冷えきっていた。なおさら口にしてはいけない言葉で
ある。イワーノフは確かに罪深い男だ。こういう男は救いようがない。アンナの両親が娘
の結婚に反対したことが正しかったということにもなる。アンナの孤独を理解せず、ただ
ひたすら自分のことで精一杯のイワーノフは、自分に対しても相手に対しても微塵の余裕
もない。今、アンナに余命いくばくもないことを告げてしまったイワーノフは、アンナの
絶望に寄り添うことすらできない。イワーノフは絶望してすら、アンナの絶望を共にする
ことができないのである。
 二人の破綻はすでに観客には分かっている。なにしろイワーノフがリヴォーフに向かっ
てユダヤ人の女とは結婚するな、とまで言っているのであるから、アンナがいくらイワー
ノフを〈りっぱな人〉などと口にしても無駄なのである。二人の関係の内実など知らされ
なくても、イワーノフの口にする言葉で破綻はすでに確定している。後は、その確定を両
の目でしかと見るだけであった。まさにこの場面は、その確定の場面である。アンナは、
自分の夫から〈死〉を宣告され、絶望の淵に佇む。イワーノフもまた自分の罪深さに慄き
ながら、絶望の淵に佇む。もはや二人を繋ぐすべての糸は断ち切られた。アンナの絶望に
、もはや憎悪や憤怒さえも入り込む余地はない。両親の反対を押し切ってイワーノフにつ
いてきたアンナは、今、そのイワーノフ当人から決定的に冷酷な言葉を投げつけられてし
まったのである。
 イワーノフが〈りっぱな人〉から〈破廉恥な、卑しい人〉に一変したように、アンナも
また〈聡明で正直な、清らかな方〉(ボールキンの言葉)から、罪深い夫を執拗に問い詰
め、裁く、哀れな女へと一変してしまったのである。イワーノフが求めているのは裁きで
はない、しかし赦しでもない。そこにイワーノフの憂鬱があり、解決不可能な苛立ちがあ
る。イワーノフは苛立ち、怒り、相手を絶望の淵に突き落とし、そしてそのことで自らも
また苦しんでいる。解決はない。少なくとも生きて、解決の出口を見出すことはできない
。イワーノフは行くところまで行ってしまった。後戻りすることはできず、立ち止まって
やりすごすこともできず、踏みだすべき未来もない。まさにイワーノフは絶望の直中にい
る。
 第四幕は一年後、レーベヂェフ家の客間の一室。リヴォーフが登場。
 リヴォーフ (登場して時計を見る)四時か。そろそろ祝福がはじまるぞ。……祝福し
て、婚礼の式へ。ふん、これが善と正義の勝利だ! サラさんから強奪しそこなったので
、苦しめて棺桶へぶち込んで、新しいかもを見つけた。今度も、金を強奪するまでは猫を
かぶっているが、強奪したら不幸なサラさんの眠っているところへぶち込む。昔ながらの
、豪農のやり口だ。……(間)その先は幸福に酔い痴れて、長寿を楽しみ、安らかな良心
を抱いて死んでいく。いやそうはさせん、おれが化けの皮をひんむいてやるぞ! おれが
きさまの仮面をはぎ取って、皆がきさまの正体を知ったが最後、きさまは天国から真逆様
に、どんな悪魔も引きあげられない穴の中へ落ち込むのだ! おれは正直な男だ。おれの
仕事に盲いた人びとの味方になって、連中を開眼してやることだ。自分の務めを果ししだ
い、明日にでもこのいまいましい田舎から出て行こう! (考え込む)ただ、どうしたら
いいだろう? レーベヂェフの一家を説得するのは・・骨折り損だ。決闘を申込む? ス
キャンダルを起す? やれやれ、おれはいたずら小僧のように興奮して、思考力を失っち
まった。さて、どうしたものだろう? 決闘かな?(73~74)
 第四幕がイワーノフを悪党よばわりしているリヴォーフの独語から始まっているのが面
白い。つまり、ここでも作者チェーホフは、観客の期待を裏切っている。観客が知りたい
のは、アンナがどうなったのかである。一年も経った今、アンナは生きているのか、それ
とも死んでしまったのか。余命いくばくもないことをイワーノフによって告げられたアン
ナ、絶望の淵に突き落とされたアンナ、彼女はその後どうなったのか。観客が一番知りた
いことを作者ははっきりと明かさない。イワーノフを最も嫌っていたリヴォーフの口を通
して、イワーノフがサーシャと結婚の運びになったことを暗示する。ということはアンナ
はすでに死んでしまったということになる。
 リヴォーフはイワーノフに対する憤怒と憎悪を持続して抱いている。リヴォーフの眼に
イワーノフは〈実にいやらしい人間〉として映っている。この見解は終始一貫している。
リヴォーフはイワーノフの〈化けの皮〉をひんむいてやらずば承知しないと息巻いている
。このリヴォーフの思いは正当である。アンナを絶望の淵へと突き落とし、自分はサーシ
ャと結婚するというのでは余りにも虫がよすぎる。アンナの前で自分を罪人と言ったイワ
ーノフが、アンナの死後すぐにサーシャと結婚するというのは余りにも破廉恥であり、こ
ういった男は確かに罰せられなければならない。リヴォーフのイワーノフに対する復讐に
も似た情念は当然である。
第三幕の終わりで、余命いくばくもないことをイワーノフに告げられ、絶望の淵へと落
とされたアンナはいったいどうなったのだろう。死んでしまったのだろうか。もしそうな
ら、誰かの口からはっきりそう言ってもらいたいのに、作者はその事実を伏せたまま、話
をどんどん進めていく。今のところ明確ではないが、イワーノフとサーシャの結婚話が進
んでいる以上、アンナが生きている可能性は極めて低い。それにしても、あの日、つまり
アンナがイワーノフを〈破廉恥な、卑しい人〉と罵ったあの日から一年しかたっていない
のに、もう〈結婚〉というのであれば、かつてリヴォーフがイワーノフに面と向かって言
い放った言葉・・「あなたの声にも、語調にも、言葉については言うまでもなく、はなは
だしい冷酷なエゴイズムが、はなはだしい冷やかな薄情さが、ありありと感じられます」
がまざまざと脳裡によみがえってくる。はたしてイワーノフは税務官吏コスィフの言う〈
悪党〉で〈海千山千の山師〉なのかどうか。この時点に至っても観客は、未だイワーノフ
に対する判断を保留し続けなければならないのであろうか。
 第四幕第四場はリヴォーフとコスィフが退場した後の、レーベヂェフとサーシャのやり
とりが展開される。レーベヂェフは妻からの申しわたしとことわった上で、サーシャに持
参金として銀貨で一万五千ルーブリ出す、しかしイワーノフは九千ルーブリの借金がある
のでそれを差し引くという話をする。サーシャは侮辱を感じて怒る。レーベヂェフは「ゴ
ーゴリのねずみはまず匂いを嗅いで、それから退散したっけが、お前は新時代の女だけに
、匂いも嗅がずに食ってかかる」と言う。ケチなジナイーダが、イワーノフと結婚するサ
ーシャに持参金などもたせたくないのは当たり前、〈新時代の女〉サーシャが持参金の話
などされるのを嫌うのも当たり前、レーベヂェフは妻と娘の間に入ってウロチョロするば
かり。ついにヒステリーを起こして「何もかも気に入らん」と怒鳴り散らす。
 レーベヂェフはイワーノフとサーシャの結婚に、何か変なものを感じている。この感じ
はサーシャも同じく抱いていた。しかし、その〈変〉の実体を知ることはできない。レー
ベヂェフが父親として言えるのは、婚約を破棄すること、「一生を滅ぼすよりは、スキャ
ンダルに堪えたほうがいい」ということである。このレーベヂェフの忠告は的を射ている
。おそらく観客の誰もが、サーシャはレーベヂェフの忠告に従うべきだと思うであろう。
しかし、サーシャは「あの人がわからないような気がする」と言い、また一緒に話をして
いても「つまらなくなるの」と言いながら、同時に「あの方は立派な方です」とも言う。
イワーノフも〈変〉なら、この変人と婚約したサーシャも〈変〉ということになる。
 いったい、イワーノフのどこが〈立派〉なのかほんの少しでもいいから説明してもらい
たいものである。一度も笑顔を見せず、いつも愚痴をこぼし、何か後悔して、罪をほのめ
かして震えている、そんな男のどこが気に入って結婚しようというのだろうか。しかも、
レーベヂェフは「サラの死に方が何となくおかしい」とも言っている。こういった言い方
を憶測すれば、実はアンナはイワーノフによって殺害されたのだ、という噂がすでに流布
されていたとも考えられる。アンナが病死したのか、殺害されたのか、今のところ真相は
わからないが、いずれにせよ妻の死後すぐにサーシャに結婚を申し込むイワーノフが〈立
派な人〉であるわけはない。
 イワーノフは確かにおかしいが、そんなおかしい男を愛したサーシャもおかしいという
ことになる。サーシャは言う、イワーノフは「ただ不仕合せで、誤解されているの。あた
しは愛してみせます、理解して、立派に立ち直らせて見せます。自分の務めをはたしてみ
せます」と。サーシャはイワーノフの介護人の役割を背負うつもりになっている。愛する
ことと、愛してみせるということとは違う。愛は別に誰に〈みせる〉必要もない。愛する
こと自体が幸福なのであるから。
 それにしてもなぜイワーノフはサーシャに結婚を申込み、サーシャはそれを受けたのか
。それがよくわからない。アンナが死んで、すぐにサーシャに結婚を申し込めば、コスィ
フが言うように、イワーノフはレーベヂェフ家の財産を目当てにしているのだと陰口をた
たかれても仕方がない。誰の目にもイワーノフとサーシャの結婚は〈変〉であり、それこ
そシャベーリスキイとババーキナの〈商談〉よりもはるかに打算を感じさせてしまう。
 サーシャが言うように、イワーノフは誤解されやすい男であるとすれば、その原因の大
半は彼自身にある。九千ルーブリもの借金をジナイーダに負っている身で、その娘に結婚
を申し込むイワーノフの気持を純粋と受け止められる観客がはたして何人いるだろうか。
ジナイーダの苛立ちと怒りは、単に彼女がケチであったからとは言えないし、レーベヂェ
フの婚約解消提示も深く頷ける。不思議なのはサーシャの心持ちである。サーシャはイワ
ーノフが言ったように〈涙っぽい失敗者の看護婦〉になろうとしているに過ぎない。世の
中には自ら積極的に〈看護婦〉になろうとする女がいる。それは一見、女の優しさを表し
ているように見える。が、サーシャは〈失敗した男〉のすべてに献身的につくそうとして
いるわけではない。以前から愛していたイワーノフがたまたま〈失敗した男〉として自分
の前に現れたから、彼の〈看護婦〉になろうと決心したまでのことである。つまり、サー
シャのイワーノフに対する愛は、きわめて自己愛的な要素を持っている。サーシャの言う
〈実行的な愛〉もイワーノフに言わせれば〈少女哲学〉の域を一歩も出ていない。〈若い
、みずみずしい。水晶のように清らかで美しい〉サーシャと、〈やもめで、中古で、おん
ぼろ〉のイワーノフとの結婚は、父親のレーベヂェフに限らず〈変〉だと思うだろう。こ
の〈変〉をサーシャの〈看護婦〉〈実行的な愛〉〈少女哲学〉によって解消させることが
できるのであろうか。空虚と倦怠と憂鬱に覆われた男、そのうえ借金だらけの〈失敗者〉
、永遠の愛を誓った女に対してすら一度愛が失せれば冷酷に振る舞う男、そんな男との結
婚を承諾したサーシャを支えているのはいったい何なのだろうか。
 イワーノフという男には、ある種の女を強烈に引き寄せる独特の魅力があったのだろう
か。女は、何も社会的に成功した者、野心に燃える熱い男、自分の仕事に熱中している男
だけを好きになるとは限らない。ただ顔やスタイルがいいとか、かっこういいとか、性的
魅力があるとか、そういうことで好きになる場合も多々ある。イワーノフとサーシャがす
でに肉体関係を結んでいたのかどうかはっきりとは書かれていないが、すでに婚約のなか
であることを考えれば、二人はそのような関係にあったと見ても不自然ではない。イワー
ノフとサーシャはどのような性的関係を結んでいたのか、そういった濡れ場を観客はいっ
さい伏されており、従ってイワーノフとサーシャの〈男と女の関係〉は表面上の関係から
だけでは推し量れないところがある。
 第四幕第五場でシャベーリスキイが登場し、「皆が卑劣なら、わしも卑劣になろう」と
言う。このセリフで想起するのが『罪と罰』のラスコーリニコフの独白である。彼は一家
の犠牲になって淫売婦に身を落としたソーニャを想いながら「人間て卑劣なもので、なん
にでもなれてしまうものだ」と考える。ドストエフスキーの人間認識の中に「すべての人
間は卑劣漢である」というのがある。『悪霊』のピョートル・ヴェルホヴェーンスキーな
どはその人間認識に則って〈社会主義者・革命家〉の仮面もつけるし、ニコライ・スタヴ
ローギンの猿も演じるし、〈二重スパイ〉にもなりおおせる。この男こそ自らのうちに途
方もない虚無を抱え込んで、いつも真っ赤な長い舌を出しながら、精力的に動き回った男
である。ピョートル・ヴェルホヴェーンスキーが『イワーノフ』の舞台に登場すれば、イ
ワーノフの虚無や憂鬱などその赤い舌でなめ回されてしまうであろう。
 さて、ドストエフスキーは「人間は卑劣漢である」という人間認識に止まることはなか
った。ラスコーリニコフはさらに思う「だが待てよ、もしおれが間違っているとしたら」
と。つまりすべての人間が卑劣漢というわけではなく、この世には美しい純潔なひとも存
在するとしたら……とふと考えるのである。ラスコーリニコフにとってソーニャという女
は、一人の地上世界を生きる単なる女ではない、一家の犠牲となって自らの身を売って生
活の糧を得ている一人の淫売婦にとどまるものでもない。『カラマーゾフの兄弟』のアリ
ョーシャが、この世のどこかには必ず一人ぐらいは真理を体現されたお方が存在するはず
だとして、ゾシマ長老に師事したようにではないにしろ、ラスコーリニコフはソーニャを
何か地上世界の善悪を超えた〈愛の体現者〉として感じはじめていたことは確かである。
 『イワーノフ』に登場する人物たちがドストエフスキーの愛読者であったのなら、シャ
ベーリスキイの「皆が卑劣なら、わしも卑劣になろう」の言葉を受けて、ソーニャやアリ
ョーシャの存在を問題にすることもできたであろう。もしシャベーリスキイがソーニャの
存在を知っていたら「誰もが卑劣で、ちっぽけで、無意味で」というようなセリフを口に
できたであろうか。
 この戯曲に登場するすべての人間が「卑劣で、ちっぽけで、無意味」なのであろうか。
今のところ、サーシャのみがかろうじてソーニャ的な存在になりえる可能性を持っている
だけで、後はすべてシャベーリスキイの人間認識の網に引っ掛かっている。おそらくサー
シャはソーニャになることはできないし、イワーノフはラスコーリニコフにはなれない。
サーシャはソーニャのような〈偉大なる罪人=愛と赦しを体現した聖女〉になることはで
きないし、イワーノフはラスコーリニコフのような〈踏み越え〉(老婆アリョーナ殺し→
告白→大地への接吻→復活の曙光に輝く)を実現することはできない。
 イワーノフはラスコーリニコフに較べてはるかに曖昧な存在である。イワーノフには〈
犯罪に関する論文〉もないし、正義・善・公平・真理を体現した神を烈しく求める気持も
ない。永遠の愛を誓ったアンナに対する愛を喪失したというだけでは、彼が自ら口にする
〈悪い男〉も〈罪人〉も、何か宙に浮いたシャボン玉のようで、ひとの胸にずしんと響く
リアリティがない。せめて、なぜイワーノフがアンナに対する愛を失ったのか、その原因
の一つぐらいを明確に述べてくれなければ、イワーノフのいい加減さだけが目立ってしま
うことになる。
 イワーノフは自分を〈罪ふかい男〉と言うが、彼が神を前にして苦悩しているようには
思えない。ドストエフスキーの人物たちは、たとえ人神論者とはいえはっきりと神に対す
る思いがあった。彼らは単に人間に向かって議論しているのではない。彼らは人間の背後
にいつも、目に見えない神を意識していた。信仰も反逆も、神の存在なくしては考えられ
ないのがドストエフスキーの人物たちである。ところがチェーホフの人物たちの目線は、
多くの場合、眼前に存在する人間に向けられている。そしてこの人間たちは「誰もが卑劣
で、ちっぽけで、無意味」な存在として束の間の生をいきている。
 何のために生まれてきたのか、どう生きるべきか、死んだらどうなるのか、はたして魂
は永生なのか……ドストエフスキーの人物たちがきまって問題にする、この根源的な問題
を、チェーホフはわざと素知らぬ顔をして通りすぎていこうとしているかようでもある。
シャベーリスキイが「わし自身じぶんにへどを吐きそうだ、自分の言葉ひとつ信じられな
いのだ」と言うとき、このセリフは単に彼だけのものではない。空虚と倦怠を何ら解決で
きないままに、妻の死に立ち会ったり、サーシャと婚約したりするイワーノフも、妻の言
いなりになって何一つ自分の判断で行動できない弱虫のレーベヂェフも、この言葉を自分
の言葉として受け止めるだろう。所詮、人間は「自分の言葉ひとつ信じられない」のに、
束の間の生の舞台で「からすのようにカアカア喚いている」だけなのかもしれない。
 シャベーリスキイはピアノにもたれてむせび泣く。イワーノフの妻、〈あのユダヤ女〉
〈珍しい、すばらしい女〉を思い出して泣く。しかし、ここでもシャベーリスキイは思い
出すだけで、どういう経緯でアンナが死に至ったのか、を明かさない。リヴォーフ医師が
アンナの死に関しては最もよく知っているはずだが、彼もまだ観客に知らせる時期とは踏
んでいないようだ。
 シャベーリスキイは「希望があれば、老後も楽しい」と言う。が、彼には「子供もない
、金もない、仕事もない」とうぜん老後の楽しみは何ひとつない。パリに行って妻の墓を
拝みたいというのが唯一の望みである。しかし、これも「わしに金を貸してくれ。あの世
へ行ったら、清算するよ」と言っているので、半分冗談であるのかもしれない。何しろ、
自分で自分の言葉が信じられなくなっているシャベーリスキイのことだ、すべては相手を
みての、その場かぎりのでまかせを言っているのかもしれない。ケチな女房にすっかり尻
を敷かれているレーベヂェフに、金など貸せる器量はない。シャベーリスキイが金を返す
わけもないし、ジナイーダがそれを承知するわけもない。いずれにせよ、シャベーリスキ
イとレーベヂェフのやりとりは、この戯曲の山場を迎える前のほんの余興にすぎない。チ
ェーホフは余興の場面を重ねて、クライマックスを出しおしみしている。
 第四場第六場ではボールキン提示の〈商談〉にその気になりつつあったババーキナを登
場させる。ババーキナはシャベーリスキイに「わしはあんたが嫌いだ!」と怒鳴りつけら
れ、肘持椅子にもたれて泣き、そこへジナイーダが泣きながら登場、サーシャも泣きなが
ら母を迎える。まさにこんな大騒ぎのただ中に、真打ち、すべての秘密を握っているかも
しれないイワーノフの登場となる。ここまで観客をじらせるチェーホフの劇作家としての
手腕にも注目しておきたいところである。レーベヂェフによれば「婚礼まえに花嫁を訪れ
るのは尋常じゃない」とのことで、イワーノフがこのときサーシャに会いに来たのは並々
ならぬ考えがあってのことに違いない。
 それではいよいよイワーノフとサーシャのやり取りを見ることにしよう。わたしは別に
リヴォーフではないが、それでもイワーノフのような男に好感を抱くことはまったくない
。「取返しのつかなくなる前に、この馬鹿げた茶番劇をやめなければ」・・この言葉を耳
にしたときには呆れ返ってしまった。この〈茶番劇〉をはじめたのはイワーノフ自身であ
る。まさか〈婚礼〉という〈茶番劇〉を仕組んだのはサーシャであって自分ではない、な
どと言うつもりではなかろう。サーシャがどんなに積極的に結婚を望んだとしても、イワ
ーノフが承諾しなければ〈茶番劇〉は開幕することはなかったのだ。サーシャは若く、清
らかで、前途には生活がある、ところがイワーノフは中古で、前途に希望はない。しかし
そんなことはすでに十分わかっていることだ。イワーノフがサーシャとの結婚を決意した
のであれば、今さら婚約者を前にしてこんなアホなことを口にしてはいけない。なぜイワ
ーノフはこんなアホなことを口にしたのか。簡単である。イワーノフはアホなのである。
最初の妻アンナが〈立派な人〉と言い、サーシャもまた口裏を合わせたように〈立派な人
〉などと持ち上げているイワーノフが、いかにアホな男であるかは、この場面でのセリフ
を耳にすれば誰もが認めるところであろう。
 ボールキンやコスィフが言うようにイワーノフは〈実にいやらしい人間〉であり、死ぬ
前のアンナが怒りに任せて口にしたように〈破廉恥な、卑しい人〉である。イワーノフは
自分でも〈悪い男〉〈罪人〉〈滑稽なでくの棒〉と言っている。イワーノフの自己分析は
正鵠を射ている。もしアンナやサーシャがイワーノフを〈立派〉と言うのなら、その根拠
を観客に示さなければならない。しかし、われわれ読者や観客は、イワーノフのすばらし
さをどこにも見出すことはできない。愚痴をこぼし、泣言を言い、前言をすぐに撤回する
ような、意気地のない、優柔不断な〈失敗した男〉のどこが立派なのであろう。わたしが
女ならこんな男には唾をかける気もしない。こんな男と敢えて結婚して介護人の役割を負
おうとしているサーシャにも魅力を感じない。イワーノフのアホと同じようなアホを感じ
る。イワーノフは言う「僕はハムレットを演じた、君は処女の役を演じた。・・芝居はも
うたくさんだ!」と。本当にアホである。「芝居がもうたくさん」なら、そんなセリフを
婚約者の前で口にしてはいけない。イワーノフは依然として青臭いハムレットを演じてい
ることになる。
 いったい何をイワーノフは悩んでいるのか。「鏡の中の自分をひと目見たとたんに、僕
の良心の中で砲弾が炸裂した」・・アホである。三十五歳でへとへとに疲れ、年老いたと
いうことを、鏡を見なければ認識できなかったことがアホである。〈高貴なる憂鬱〉〈理
由なき悲哀〉・・アホである。「いや、ありがたいことに、僕はまだ誇りと良心を持って
いる」・・アホである。「僕らはお互い愛しあっている。しかし結婚すべきではない」・
・アホである。こういうセリフは婚約する前に言うべきである。今更、こんなセリフを口
にしていることが滑稽である。こんな男にはビンタの一つでも食らわして、さっさと関係
を断ち切ることだ。「ええ、僕なんか、くたばっちまえ!」・・その通りだ。サーシャの
前でこんな言葉を口にする前に、さっさとくたばってしまうこと、それ以外にイワーノフ
の出口はない。「僕は永遠に破滅した」そうだ、その通りだ。イワーノフに救いはないし
、救いを求めてもいない。イワーノフは、イワーノフの言う通り間違いなく「破滅したの
だ」。
 この戯曲には肝心な場面が見事に省略されている。アンナはどのようにして死んでいっ
たのか。その時、イワーノフはどのように対処したのか。葬式には誰が立ち会ったのか。
リヴォーフ、シャベーリスキイ、レーベヂェフ、ジナイーダ、サーシャは葬儀に列席した
のか。サーシャの死を彼らはいったいどのように受け止めたのか。アンナの両親は娘が死
んでも許さなかったのであろうか。読者としては作者に質問したいことが山ほどある。し
かし、作者はそんなことは一切無視して、いきなり、第四場の中心にイワーノフとサーシ
ャの婚礼の時を選んでいる。描かれた限りで見ても、もはやイワーノフに男としての魅力
はない。アンナは過去のイワーノフを偶像視して、やがて最後にその偶像を徹底的に破壊
して死んでいった。サーシャはその破壊された偶像、泣言を並べている不平家との結婚を
なぜ承諾したのだろうか。サーシャの承諾は説得力を持たない。なぜイワーノフはサーシ
ャに結婚を申し込んだのだろうか。アホだからとしか説明のしようがない。
 第十場でレーベヂェフが登場。娘から事情を聞いたレーベヂェフは「神が君を裁いてく
れよう! 君はわしらの生活にひどい霧を吹きつけた。わしはまるで博物館に暮らしてい
るも同然、何を見てもさっぱりわからん。……全く罰があたったようだ。……君はこの老
人にどうしろと言うのだ? 決闘でも申し込めと言うのか?」とわめき、サーシャは舞台
を興奮して歩き回りながら「まるでだだっ子だわ!」と吐き捨てる。ここでのレーベヂェ
フは最も父親らしい優しさと威厳に満ちている。彼は単なる妻に尻を敷かれっぱなしの夫
ではなかった。娘サーシャを思う気持は人一倍、たとえ二人の結婚が〈何か変〉だとは感
じていても、娘がイワーノフと別れるつもりがないのであるなら、徹底して面倒をみよう
という親心に溢れている。しかし、レーベヂェフのどんな説得にもイワーノフは乗らない
。ここに至ってイワーノフの婚約破棄の決意は固く、もはや誰が何と言ってもききそうに
はない。イワーノフは〈良心〉の命ずるままに行動すると言い、サーシャもまた〈良心〉
の命ずるままにイワーノフとは別れないと公言する。
 サーシャが退場した後、レーベヂェフとイワーノフの対話が展開される。
 レーベヂェフ さっぱりわからん。……
 イワーノフ まあ、お聞きなさい、気の毒な人だ。……僕がどんな男か、・・正直なの
か卑劣なのか、健康なのか精神病なのか、僕は説明しようとは思わない。あなたにはわか
らないんだ。以前は、僕は若くて、熱烈で、誠実で、知識もあった。一風変った愛し方を
し、一風変った憎み方をし、世間と違った信念を抱いた。十人ぶんも働き、十人ぶんも希
望を持った。風車に向って挑んだり額を壁にぶつけたりもした。自分の力の限界を忘れ、
前後の見境いもなく、人生を知らないで不相応な重荷を背負った。そのとたんに背骨が折
れ、筋が伸び切ってしまった。若さ一つを頼りにあわただしく自分を浪費して、陶酔して
、興奮して、働きまくった。限界を知らなかったのです。でも、それ以外どうしようがあ
ったでしょう? 僕らは少人数なのに、仕事は山ほどある、山ほど! ああ、ほんとに山
ほどある! で、僕が相手に回した人生は、残酷に復讐をはじめた! みごと僕はへばっ
た! 三十の声を聞くか聞かぬかに、ふらふらになって、老い込んで、部屋着をぬぐのが
面倒になった。思い頭と物うい心を抱えて、僕は疲れはて、くたびれ切って、信念も愛も
目的もなく影のように皆のあいだをさまよっている。そして、自分が何者なのか、なんの
ために生きているのか、何を求めているのかも知らない。そのうえいつからか、愛が馬鹿
らしいことのように、愛撫が甘ったるいことのように思えてきた。労働には意義がなく、
歌も熱弁も俗悪で古くさいように思えてきたのです。そして至る所へ憂鬱と冷たい倦怠と
不満と、人生に対する嫌悪を運んで行く。……ああ、永遠の破滅だ! 今あなたの前に立
っているのは、三十五歳で早くも人生に疲れはて、人生に幻滅した、自分のつまらぬ手柄
におしつぶされた男なのです。恥に身をこがし、われとわが弱さをあざ笑っている男なの
です。……ああ、どんなに今、僕の内部で誇りがもだえているでしょう、どんな憤怒が僕
の喉を締めつけているでしょう!(ふらふらしながら)ああ、僕は自分を滅ぼしてしまっ
た! よろよろする……力が抜けてしまった。マトヴェイ叔父さんはどこです? 家へ連
れ帰ってもらおう。
 イワーノフは正直で卑劣だ。健康で精神病だ。説明はいらない。イワーノフは自分に正
直なだけだ。そのことが卑劣なのだ。つまり彼には相手の心に寄り添う気持が決定的に欠
けている。彼に大切なのは自分の心だけなのだ。愛している時は愛している。愛が無くな
れば同情も哀れみの感情も起こらない。そのくせ新しい恋には感情がざわめきたつのだ。
彼は自分の心に正直なことを、自分の良心に忠実なことだと思っている。それならそれほ
どこだわるイワーノフの〈良心〉とはいったい何なのだ。永遠の愛を誓った女に対する薄
情が〈良心〉なのか。そんな〈良心〉を良心などとは言わない。それは単なる〈エゴイズ
ム〉というやつだ。イワーノフがもっとも大切にしているのは自分自身のその時々の感情
である。そしてその感情に忠実であることが、〈良心〉の命ずるままの行為だと思ってい
る。確かにイワーノフは誠実だ。自分のその時々の感情に誠実であり、まことに正直だ。
ある意味、リヴォーフなどより徹底して自分の感情に正直である。イワーノフは自分の感
情をまげることはできない。自分の人生に忠実で正直であるということ、それは他人に借
金を負うことであったり、世間の者から〈悪党〉〈ペテン師〉よばわりされることでもあ
る。が、イワーノフは世間の眼や噂などどうでもいいのだ。ただ、彼にとって重要なのは
自分の心に忠実であることだけなのである。それはそれでいいだろう。勝手にそうしてい
ればいい。一人で頭を抱え込み、一人で悩み、空虚と倦怠を抱きしめていつまでも勝手に
憂鬱症にかかっていればいい。自分で言っているように、確かにイワーノフは〈永遠の破
滅〉のただ中にいるのだ。
 かつてのアンナがそうしたように、そして今、サーシャがそうしようとしているように
、そんな〈破廉恥な、卑しい人〉の面倒を見たいと思っている女は勝手にそうすればいい
ことだ。そんな努力をいくら積み重ねても、イワーノフの〈憂鬱〉が解消するわけではな
い。イワーノフは背骨が折れてしまったと自分で言っている。背骨とは、人生の根幹であ
る。その根幹が折れてしまった人間を立ち直らせる者はこの世のどこにも存在しない。
 あの二人の女の頭上に斧を振り下ろした男でさえ、犯行後、ソーニャにラザロの復活の
場面を読み聞かせてくれと頼んでいる。ソーニャは貴族の令嬢ではない。ソーニャは淫売
婦である。殺人者ラスコーリニコフは、淫売婦ソーニャに第四福音書を読んでくれと懇願
している。ラスコーリニコフは人類の苦悩を引き受けた者の前に頭を垂れることのできる
青年であった。アンナもサーシャもソーニャではない。ソーニャは〈キリストの花嫁〉で
あり〈聖母マリヤ〉である。ソーニャは現世の地獄ペテルブルクを遍歴して〈罪人〉を救
う使命を帯びた〈偉大なる罪人〉なのである。イワーノフはラスコーリニコフのように〈
踏み越え〉た者ではなく、〈偉大なる罪人〉ソーニャのような存在を必要ともしていない
。イワーノフはサーシャが言うように、憂鬱症に陥った〈だだっ子〉の次元にとどまって
いる。このような男は人生の敗残者であり、チェーホフの戯曲では雄弁に自分のくだらな
さを語る時間を与えられているが、現実の世界では誰もまともに相手にはしないであろう

 現実の世界で誰もまともにしないであろう男を主人公にしてチェーホフは戯曲を書いた
。この〈破廉恥で、卑しい人〉は〈永遠の破滅〉を宣言しながら、執拗に「自分が何者な
のか、なんのために生きているのか、何を求めているのかも知らない」と繰り返す。イワ
ーノフは誇り高き男である。この男は世界の秘密を知りたがっている。人生の謎を解きあ
かしたいと思っている。しかしそれは絶対にかなわぬということを知ってしまった男なの
である。だからこそ、イワーノフは人生が虚しく、〈憂鬱と冷たい不満と、人生に対する
不満〉を抱いて生きていなければならないのである。
 イワーノフはいったい何に苦しんでいるのか。何を悩んでいるのか。イワーノフは空虚
と憂鬱に覆われながら、自分の人生を成り行きにまかせることができない。妻のアンナが
死んだ、そして新しい若い娘サーシャと結婚することになった。サーシャの母親ジナイー
ダには九千ルーブリもの借金がある。ジナイーダはその借金を差し引いた金を娘の持参金
にしようとしている。もし、その金さえ出し渋るのであれば、レーベヂェフは自分の虎の
子を提供しようとまで申し出る。が、イワーノフはそういった流れに自分をまかせること
ができない。イワーノフは最後まで誇りを捨てることができなかった。人生の敗残者、余
命いくばくもない妻に微塵の同情も哀れみも感じなかった薄情な男が、それでも自分の誇
りだけは捨て去ることができずにいる。
 イワーノフという男はおもしろい男である。妻のアンナを絶望の淵に落としたり、医師
のリヴォーフに挨拶ひとつきちんとできないのに、自分が侮辱されることには我慢できな
い男なのである。〈精神病でめそめそ屋〉〈実にいやらしい人間〉〈憎いタルチェフ〉〈
偉そうなペテン師〉〈哀れな男〉〈破廉恥な、卑しい人〉〈恐ろしい悪党〉〈罪ふかい男
〉〈海千山千の山師〉〈ハムレット気取りの男〉〈冷酷で薄情な男〉〈不平家〉〈だだっ
子〉〈永遠に破滅した男〉〈至る所へ憂鬱と冷たい倦怠と不満と、人生に対する嫌悪を運
んで行く男〉……こんなイワーノフが、それでも〈誇り〉と〈良心〉をいまだなくしては
いないというのだから驚く。
 イワーノフが「ありがたいことに、僕はまだ誇りと良心を持っている!」という言葉を
発したとき、わたしの脳裡にラスコーリニコフの非凡人思想の言葉が浮かんだ。ラスコー
リニコフの「犯罪に関する論文」はポルフィーリイ予審判事の口を通して紹介される。ポ
ルフィーリイは次のように語る「この人の論文によると、あらゆる人間が『凡人』と『非
凡人』にわかれる。凡人は常に服従をこれ事として、法律を踏み越す権利なんか持ってい
ない。(略)ところが非凡人は、とくにその非凡人なるがために、あらゆる犯罪を行ない
、いかなる法律をも踏み越す権利を持っている」と。ところがラスコーリニコフはポルフ
ィーリイの言葉をすぐに訂正する。彼は「非凡人は常に是が非でも、あらゆる不法を行わ
なければならぬ、かならずそうすべきものだと主張したのじゃありません。そんな論文は
発表を許されなかったろう、とさえ思われるくらいです。ぼくはただただ次のようなこと
を暗示しただけなんです。すなわち『非凡人』は、ある種の障害を踏み越えることを、自
己の良心に許す権利を持っている……といって、つまり公の権利というわけじゃありませ
んがね。ただし、それは自分の思想・・ときには、全人類のために救世的意義を有する思
想の実行が、それを要求する場合にのみかぎるのです」と語る。
 二人の女を斧で叩き殺した男にも未だ〈良心〉は生きていたのである。ラスコーリニコ
フは無神論者ではない。彼は神を求めている。本当に神を求めた、そのプロセスにおいて
彼は殺人という〈踏み越え〉をなさなければならなかった。彼は「あなたは神を信じてい
るのか」というポルフィーリイの質問に「信じている」と答えている。
 ラスコーリニコフは誇り高き青年であり、ルージンのような俗物には我慢のならない青
年であった。まさに、ラスコーリニコフはポルフィーリイの言うように、二人の女を殺し
ておきながら、まるで天使のような青白き顔をしてペテルブルクを彷徨い歩いていた男な
のである。わたしはイワーノフを今までじっくりと見つづけてきて、どこかしらラスコー
リニコフと似ているようなところがあるなと感じ始めている。誇り高き人間は、同じ人間
に頭を下げるのが嫌なばかりに神に頭を垂れるとはドストエフスキーが記した言葉である
。ラスコーリニコフがソーニャの前にひれ伏したのは、ソーニャが単なる一人の淫売婦で
はなく、人類の苦悩を一身に背負った〈偉大なる罪人〉だからである。イワーノフにはソ
ーニャのような存在が欠けていたし、彼自らもまたラスコーリニコフに見られたような〈
復活〉への渇望が欠けていた。イワーノフは自らを〈罪ふかい男〉と見なしているが、そ
の〈罪〉に苦しんでいるとは思えない。イワーノフにはマルメラードフのような罪の感覚
が欠けている。
 イワーノフの〈誇り〉と〈良心〉は、彼自身に対する誠実を示しても、相手の心に共感
を抱かせない。相手の苛立ち、反感、憎悪、軽蔑を助長させるだけの〈誇り〉と〈良心〉
など、何の助けにもならない。イワーノフは自分を〈罪人〉とは言っても本当に神を信じ
ているようには思えない。マルメラードフが神を求めて悶え苦しんだように、カチェリー
ナ・イヴァーノヴナがこの地上の世界に正義と真理を実現しない神を呪ったように、イワ
ーノフには神に対する烈しい希求も反抗もない。いったいイワーノフは自分の〈罪〉をど
のように贖おうとしていたのか。〈永遠の破滅〉を宣言してしまったイワーノフに、はた
して罪を贖う道は残されていたのだろうか。
 シャベーリスキイ (登場しながら)ひとの古いフロックに……手袋なし……おかげで
、失敬な目付や、馬鹿げた皮肉や、下品なにたにた笑いをいやと言うほど浴びせられた。
……いまいましい連中だ!
 ボールキン (花束をもって足早に登場。フロックを着て、付添人の印に花をつけてい
る)ウーフ! ご本尊はどこだ? (イワーノフに)教会じゃさっきから君を待っている
のに、君はここでご自慢の哲学か。滑稽な男だ! 実際、滑稽な男だ! 君は花嫁御寮と
お手々を取って行くことはない、先に僕と行けばいいんだ。花嫁御寮は僕が改めて迎えに
来るさ。そんなことまで君は知らないのか? だんぜん滑稽な男だ!
 リヴォーフ(登場、イワーノフに)ああ、ここにいたのですか?(大声で)ニコライ・
アレクセーエヴィチ・イワーノフ、僕は公衆の面前で言う、君は卑劣漢だ!
 イワーノフ(冷やかに)それはご親切さま。
 
    一同、ざわめく。
 ボールキン (リヴォーフに)君、卑劣だぞ! 僕は君に決闘を申し込む!
 リヴォーフ ボールキン君、僕は君と戦うのはおろか口をきくのさえけがらわしいと思
っている! しかしイワーノフ氏となら、いつでも喜んでお相手をする!……
 サーシャ (リヴォーフに)なんのためです? なんのためにあなたはあの人を侮辱し
たのです? 皆さん、どうかこの人に、何のためか言わせて下さい!
 リヴォーフ アレクサンドラ・パーヴロヴナ、私は、わけも言われもなく侮辱したので
はない。私は正直な人間として、あなたの眼を開くために、こちらへ伺ったのです。私の
申し上げることを聞いて下さい。
 サーシャ あなたに何が言えるのです? あなたが正直な人間だということですか?
それなら誰でも知っています! それよりも、胸に手をあてて、あなたはご自分がわかっ
ておいでかどうか仰しゃい! あなたは今、正直な人間としてここへいらしてこの人に恐
ろしい侮辱を加えました。そのためにあたしは息の根がとまりそうになりました。前のあ
なたが影のようにこの人を尾けまわして、この人の生活を邪魔していた時も、あなたはご
自分が正直な人間で、義務をはたしていると思い込んでいたのです。あなたはこの人の私
生活にまで干渉して、悪口を言ったり非難をしたりなさった。そして、暇さえあれば、あ
たしや知合いの人たちみんなに無名の手紙をまき散らしながら、その間じゅう、自分は正
直な人間だと考えていたのです。ドクトル、あなたはそれを正直なことと考えて、この人
の奥さんが病気なのもかまわずに、自分勝手な邪推で奥さんの気持をあらだてていたので
す。どんな乱暴なことをしても、どんな残酷な卑劣なことをしても、あなたはご自分こそ
誰よりも正直な、進歩的な人間とお思いなのでしょうね!
 イワーノフ (笑いながら)これは結婚式じゃない、議会だ! ブラボー、ブラボー!
……
 サーシャ (リヴォーフに)今こそあなたは、ご自分がわかっておいでかどうか、考え
てごらんなさい! ああ、鈍感な、薄情な人たちばかりだ!(イワーノフの腕を取る)ニ
コライ、ここから出て行きましょう! お父さん、行きましょう!
 イワーノフ どこへ行くのです? 待ってくれ、僕は今こそ一切のけりをつける! あ
あ、僕の内部で青春がめざめた、昔のイワーノフが語りはじめた!(ピストルを取り出す

 サーシャ (叫ぶ)あたし知っている、この人が何をする積もりか! ニコライ、お願
い!
 イワーノフ 長いあいだ坂道をころがりつづけたが、今こそ止まるのだ! 恥を知るべ
きだ! どいて下さい! ありがとう、サーシャ!
 イワーノフ ほっといて下さい!(わきへ走って行って、引金を引く)(88~90)
 イワーノフはピストルの引金を引くことで〈一切のけり〉をつけた。当然といえば余り
にも当然の結末であった。イワーノフにいかなる新生活も築くことはできない。何しろイ
ワーノフ自身が、自分の未来に何の期待も抱けないでただ泣言を並べていただけなのであ
るから、こういった結末以外には考えられない。もし再び前言を翻してサーシャと結婚な
どしようものなら、イワーノフの存在自体がかなり滑稽なものと化してしまう。もしイワ
ーノフがファマー・フォミッチのような内的世界をグチャグチャにして生きられるのなら
別だが、どんなに落ちぶれても〈誇り〉と〈良心〉を保持したいというのであれば、やは
り自らの死を選ぶより他に道はなかったであろう。
 さて、この戯曲が上演された時、観客はいったいどのような反応を示したのか、改めて
興味が湧いてきた。こんな救いようのないドラマはない。かつて、五年前、〈永遠の愛〉
を誓ったイワーノフとアンナは二人共に、実に不幸な死に方をした。アンナに同情し、余
命いくばくもない妻を放ってレーベヂェフ家に通いつめていたイワーノフを批判しつづけ
たリヴォーフ医師は、最後の最後まで、その〈正直〉を愚弄されていた。わたしはこの批
評においてどちらかと言えばリヴォーフの側に立って彼を弁護してきた。イワーノフの妻
に対する薄情に較べれば、リヴォーフのイワーノフ批判は何ら非難されるべき筋合いでは
ない。読者は、この戯曲に書かれたいかなる場面においてもイワーノフの〈立派さ〉を窺
い知ることはできなかった。アンナと結婚してからの幸福な、活動的な四年間を読者は何
ら具体的に知らない。知っているのは、すべてが破滅した後の、憂鬱症に陥ったイワーノ
フの無残な姿ばかりであった。
 イワーノフにはラスコーリニコフのような明確な思想に基づく〈踏み越え〉があったわ
けではなく、善悪観念を磨滅させてしまったニコライ・スタヴローギンのように〈神にな
る実験〉を試みたわけでもない。まさにイワーノフの空虚と倦怠と憂鬱は〈だだっ子〉の
それである。この〈だだっ子〉が自らの誇りを保持しつづけようとすれば自殺する以外に
はなかったのである。おそらくレーベヂェフは頭を抱えて「さっぱりわからん!」と嘆い
ていたことだろう。確かに、ほんの少しものごとを考えることのできる人間なら、この世
の事象のすべてに対して「さっぱりわからん」としか言いようがなかろう。なにも分から
ずこの世に誕生し、やがて何もわからぬままに死んでいかなければならない。まったく何
ということだ。一刻も早くけりをつけようと思えば、ピストル自殺はなかなかけっこうな
ことかも知れない。
 イワーノフの死後、いったい誰が希望を持って生きられるというのだろうか。ボールキ
ンやシャベーリスキイ諸君、君たちはイワーノフの自殺をも茶化して道化を演じることが
できるだろうか。ババーキナやジナイーダの悋嗇家のご婦人たちも、いずれは大金を残し
てこの世を去っていかなければならない。サーシャは、イワーノフ以外の、若い、有能な
、あるいは人生に惨敗した男を探して、処女趣味的な、自己献身的な、介護人的な愛を新
たに見出すことができるのであろうか。
 イワーノフとサーシャの婚礼の日は、イワーノフの自殺によって一挙に地獄と化してし
まった。この地獄から這いだして新しい人生を歩みだすことのできる人物が、この戯曲の
中に登場していたであろうか。イワーノフの自殺によって、今までイワーノフ一人に取り
憑いていた〈憂鬱〉のウィルスが四方八方に飛び散り、この村全体を覆ってしまったかの
ようではないか。この陰鬱な曇り空は永遠に晴れないような気がする。イワーノフの唯一
の功績と言えば、彼の憂鬱をすべての人物に感染させたということである。現代の日本に
は自殺することさえできない、つまりピストルの引金を引く指の力さえ失った青年たちが
、表面上、陽気に騒いでいる。彼らもまたイワーノフの憂鬱ウィルスに感染した者たちに
は違いない。そういう意味で戯曲『イワーノフ』はまさに〈現代の戯曲〉足りえていると
言うべきであろうか。



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